深夜にかけて一晩中降り続いた大雨は、日の出とともに逃げるように町の上空を去っていった。
目覚めて最初に目にする白い天井は、見慣れたもののようでどこかよそよそしい。記憶は取り戻したが、実感がまだ伴っていないからだろう。薄い布団をそっとどかし、俺は身を起こす。
すぐ隣には、ぴったりくっつくように光里が眠っている。本来、職員の部屋の横にある和室が光里の寝るところだが、職員が気を利かせて同室で休むことを許してくれた。シングルベッドなので少々手狭だが、一人より不思議とよく眠れる。
おなかを冷やさないよう布団をかけ直し、光里を起こさないようにベッドを下りる。つぐみの家では高校生から一人部屋を持てる規則で、俺も例に違わず自分の部屋を与えられているが、壁に埋め込まれたクローゼットや据え置きの机、ベッドがあるだけの殺風景な部屋だ。
年の初頭に最後の親族であった母の律子が死に、ほどなく俺と光里は児童相談所に保護されここへ来た。部屋の隅には、越してきた際に運び込まれた段ボールの山が積まれているが、まだ一つの荷ほどきに手を付けていない。
俺が思い出した記憶は祖父が亡くなったところまでで、そこから母の死の間に、俺と光里の身に、ひいてはその周りで何があったのか、まだわからない。だがきっと、気持ちの整理がつけられなかったのだろう。
大人が誰もなくなり、妹とたった二人世界に取り残される。自分の体の傍らで、幽霊という名の透明人間になったと自覚したときの絶望と、似ている気がする。
今なら、向き合えるだろうか。今度こそ、忘れたくないと思った人のことを忘れてしまわないうちに。
夕べ公園で拾ったあの茶色い折り鶴は、まっさらな机の上で羽を広げてポツンと佇んでいる。薄気味悪いし、捨てようかとも思ったのだが、手放そうと思うとどうにも踏ん切りがつかず、このままだ。
七時にセットしていたスマホのアラームが鳴り始め、その音に起こされた光里が億劫そうにまぶたを開く。顔を洗っておいで、と伝えると頷き、目をこすりながら部屋を出ていく。しかし数秒後タオルを忘れたことに気づき戻ってくる。
まだ寝ぼけているらしく、思わず和んでしまう。心配なので、二階の廊下の突き当たりにある洗面所まで付き添った。
着替えと身支度を済ませ、光里と一緒に一階へ降りる。一階と二階をつなぐ階段には監視カメラが取り付けられており、収縮するレンズが無機質に俺たちを見下ろしている。
つぐみの家には一階と二階に子どもの部屋があり、それぞれ一階が女の子、二階が男の子と定められている。日中の行き来は自由だが、夜間は禁止されている。消灯時間後にはここのカメラが起動し、階段を通行する者がいればアラートが鳴るのだ。
ダイニングではすでに朝食が用意され、同居人の小学生二人が夕べ見たアニメの話で盛り上がりながらご飯を食べている。空になった皿を洗いながら、早くしないと遅刻するよ! と母が子を諭すように職員が二人を急かす。
ここに暮らす子どもたちはとても大事にされている。そのことに感謝もしている。だがそれが仕事に由来する義務に基づくものとも知っている。
その機械的な優しさが居心地悪く、俺は朝食を平らげると早々に席を立つ。作られた家庭的な温かさが、時として白々しいほど空虚に思えてならないのは、俺の性根が歪んでいるせいなのだろうか。
職員が気遣って光里の送迎を代わってくれようとしたが、丁重にお断りした。普段家を出る時間よりも少し余裕を持たせ、つぐみの家を後にする。
夕べ降った雨の影響か、夏の日差しも相まって朝からジメジメと嫌な蒸し暑さが全身を包み込む。これは早いところ冷房のきいた室内に逃げ込んだ方がよさそうだ。
道すがら光里を保育園に預け、足に負担をかけない程度に急ぎながら高校へ向かう。どこから通学しようと坂を通らざるを得ない塩越高校の通学路は、普通に歩いても疲れるのに松葉杖を突きながらだとなお骨が折れる。
時折腕を休めつつ地道に上る。足が治り、松葉杖が外れた暁には思い切りここを駆けあがってやろうと心の中でひそかに誓う。
「おい。パトロールなんかより、あの子をさっさと見つけてきてくださいよ。あんなのでも一応、うちの娘なんだからさ」
坂の途中にある交番の前で、身なりが悪く目付きの鋭い中年の男が、同年代の巡査を捕まえて苦言を呈している。巡査は両手に自転車のハンドルを握っており、どうやら今から町内のパトロールに行こうとしているところのようだ。
「いい年こいて小学生のガキに家出されるなんざ、とんだ恥さらしだろうが。あれのせいでオレまで迷惑を被ってるんだ。もっと動いてくれよ。なんのために高い税金払ってると思ってるんだ」
男の怒号が、朝の湿った空気に不協和音を響かせる。巡査がどうにかなだめようとしているが、全く収まる様子がない。娘を案じているというより、自分の世間体や生活の不自由を憂いているだけの、空っぽな言葉だ。
身勝手な言い分を並べる男の怒った背中が、自分の機嫌一つで理不尽に罵声を浴びせる亮の影と重なる。反射的に顔を背け、俺は松葉杖を突く手を止めず足早にそこを通り抜ける。
どこにでも、こういう親は存在する。それによって泣く子どもがいて、彼らの流れ着く果てに、つぐみの家のような養護施設があるのだろう。
交番横の掲示板には、海難事故の注意を呼び掛けるポスターと並んで、他にも行方不明の子どもを探すビラが張られていた。男の子なのでこの男性の娘とは違うだろうが、日付を見ると夏休み中に海へ遊びに行ったきり戻っていないらしい。
ポスターの中で笑う少年の無垢な笑顔が胸をえぐる。平穏に毎日が過ぎているように見えて、この狭い町でも人知れず人間がいなくなっている。目に映る者でさえ消えていくのだ。目に映らない者たちの行方など、気に留めてくれる者は誰もいない。
幽霊となった俺に、ツルだけが気づいてくれていたように。
アスファルトから立ち上る湯気が視界を歪め、額がこめかみを伝う。いつの間にか数メートル先の地面に水溜まりの影が見え、しかし近づくと逃げるように遠ざかっていく。
逃げ水だ。夏になれば、この辺りでは珍しくない蜃気楼現象の一つだ。まるで鏡面のように頭上の青空を映し、銀色の境界線をゆらゆらと揺らめかせている。
その幻が見せる陽炎の向こうに、人影が見えた。
輪郭はぼやけて曖昧で、止まっているのか、動いているのかも定かではない。だが服装の色は白く、どことなく塩越高校の夏服を連想させる。
誰だろう。目をすぼめ、よくよく凝視する。見覚えのある容姿のような気がした。徐々に視線のピントが合っていき、シルエットがはっきりしていく。
――ツル?
そんな予感がした。顔もおぼろげなのに、なぜそう直感したのか、自分でも不思議だ。でも一度そうだと脳が認識してしまうと、もうそれとしか思えなくなった。
心臓が早鐘を打つ。松葉杖を握る右手が震え、杖の先が小刻みにアスファルトの地面をコツコツと叩く。瞬きのたびに陽炎が色濃く揺れ、ツルの姿を不気味に歪めていく。
人形のように整っていたはずの顔は、まるでその一点だけ空間が歪んでいるかのようにうまく像を結べない。どうにかして見つめようとすればするほど、視線の真ん中から渦を巻くようにぐにゃりとねじれてかき混ぜられる。
ちゃんと周囲と同じく色づいているはずなのに、顔のあたりだけ闇に塗りつぶされたように空洞が口を開けていた。今更ながら、あれは本当にツルなのだろうか。ツルを請う俺の心が見せる魔物なのでは――。
「おはよう、千羽!」
背後から肩を叩かれ、名前を呼ばれて我に返る。カバンを肩に担いだ日野が、全く疲れる様子もなく軽快な足取りで坂を上り、隣に並ぶ。
「日野……お、おはよう」
「おう。どした?」
「い、いや。なんでもないよ」
突然のことで驚いて変な反応をしてしまった。不思議そうな顔を浮かべる日野にそう返し、俺は気を取り直すように松葉杖を握り直し、再び坂を上り始める。
先ほどまで見えていた逃げ水も、その向こうに佇んでいた不気味なツルの幻影も、氷が溶けるみたいにすっかり夏の空気に霧散していた。
「ねぇ、今朝また蜃気楼が出たんだって!」
学校に到着し、昇降口で上履きに履き替えているとクラスの女子たちの賑やかな噂話が自然と耳に入ってくる。
「マジ? なんか今年の夏は多いね。先週も出てなかった?」
「出てたね、あたし見た! 去年は片手で足りるくらいしか出なかったのにねー」
そんな浮足立った会話を背に聞きながら、日野と二年二組の教室に向かう。松葉杖なので三階までの階段にはしばらく難儀しそうだが、こればかりはやむを得ない。
二十人くらいしかいないクラスメイトの大半は、八時前と比較的早い時間だからまだ登校してきていなかった。教室の一番後ろの壁に松葉杖を立てかけ、俺は窓際にある自分の席に着く。
節電のためなのか、空気の入れ替えのためなのか、教室の窓は開いていた。流れ込む潮風がカーテンを揺らし、磯の香りが強く香る。
幽霊だった頃にもこの風に吹かれることは多かったが、ただ透明な身体を空気が通り抜けるだけの空虚なものだった。今は風に吹けば毛先が揺れ、頬を撫でるざらついた感覚まで鮮明に感じる。
一度失いかけた肉体で受け止める五感の全てが、以前よりもずっと鋭敏で重たく、些細な出来事一つで容易に生を実感できる。ずっと当たり前にそこにあったものなのに、三途の川を渡りかける前には気づけなかったと思うと皮肉だが。
カバンから出した教科書類を机の中に仕舞う際、ふとした拍子に中に入っていた折り鶴を引っかけて落としてしまう。気分転換に折っていたものだ。学校でも変わらず、折り紙は俺にとってちょうどいい暇つぶしだった。
「なんだ、まだ折り鶴サマやってんのか? 屋上閉まっちまったし、さすがにもうピーク過ぎたって」
それを横から見ていた日野がそんなヤジを飛ばしてくる。一時、学校で流行っていた『折り鶴サマ』のまじないの真似事だと思ったのだろう。
「折り鶴サマは関係ないよ。これは、個人的な趣味みたいなものだから」
「ふぅん、趣味か。じゃあしょうがねぇな!」
あっさりと納得した日野が歯を見せて笑う。こういう大雑把であっけらかんとした快活さが、彼のいいところだ。一緒にいても肩肘を張らずに済む。
他の男子と話し始めた日野――確か彼と同じサッカー部員だ――を横目に、ふいに話題に上った懐かしい噂に俺は思いを馳せる。
校舎の屋上にある古い貯水槽のふもとに願い事を書いた紙で折った折り鶴を納めれば、折り鶴サマという存在が願いをかなえてくれるという『折り鶴サマ』。そういえば確かに新学期が始まってから、教室でその話題を聞いていない。
まじないに必要な貯水槽へのアクセスができなくなり、夏休みという長い空白期間も得て、さすがにみんな飽きたのかもしれない。中高生は新しいもの好きだが、同じくらい飽き性でもあると思っている。学校と自宅を行き来するだけの単調な日々に、変化をもたらしてくれる出来事に飢えているのだ。
それが流行りのアイドルだろうと、売れ筋のゲームだろうと、SNSにのめり込むことだろうと、オカルトチックなおまじないだろうと、退屈をしのげるものであれば多分なんでもいい。
「……それにしても、結局『折り鶴サマ』ってどこから出てきた話なのかな」
落ちた折り鶴を元通り机の中に戻しながら、ふと純粋な疑問がこぼれた。このまじないを最初に聞いたのはツルからだが、思えば当初から不思議に思っていた。
元々この学校にあったわけではなかったおまじないは、いつ頃から話題に上り始めて、ひそかに流行するに至ったのだろう。噂とは往々に出所が不明瞭になりがちとはいうが、さすがに予兆くらいあってもいいのではないか。
だいたい、どうして折り鶴ではなければいけなかったのか。納める場所として屋上の貯水槽が指定される理由もわからない。もっと御利益が期待できそうな場所は他にいくらでもあっただろうに。
「んー、俺そういうオカルトチックな話にはあんま興味ないからなぁ。あ、女子なら知ってんじゃね?」
まだ朝のホームルームが始まる時間まで余裕があり、これ幸いにと日野がクラスの女子にあれこれ聞き始める。俺よりよほど社交的で友達も多い日野にかかれば、知りたい情報の一つや二つ、なんのそのだ。
「え、折り鶴サマの由来? えぇ? なんだったかなぁ……」
話を振られた女子たちは顔を見合わせ、うーん、と首を傾げてうなった。教室の席が一つ、また一つと埋まっていき、続々と登校していたクラスメイトたちの声で教室も一層賑やかになっていく。
「あれじゃない? 屋上で拾った折り鶴。去年の年末前くらいじゃない?」
「あ、そうそう、それだ! なんか変なこと書いてあったやつ!」
「変なこと?」
隣の席から彼女たちの声に耳を傾けていたが、その奇妙な折り鶴の話は頭の片隅に引っかかるものがあった。俺が疑問を呈すると、最初の話を持ち出した女子は一つ頷く。
「えっとね。確か、いなくなっちゃえ~、みたいな感じの文が書いてあったかな? そっからかも」
「そう、なんだ……」
誰かがいなくなることを望んだ折り鶴、ということか。それが噂の出所になっているというのはなんとも気味の悪い話だ。
去年の年末前。そういえば、母の命日もそのあたりだ。単なる偶然だろうか。この頃、俺の中で”偶然”という言葉は甚だ信用度がないのだが……。
話してくれた彼女たちに礼を言うと同時に、八時二十分の本鈴のチャイムが鳴り響く。窓から見える正門付近では教頭先生が鉄の門を閉め始め、ダッシュで滑り込もうとしている生徒と攻防を繰り広げている。
その願い事を鶴に託したのは誰だったのだろう。校舎の屋上にあったものなら、この学校の生徒か職員の可能性が高い。何の縁か、俺もこれまで身の回りで何度も鶴を見かけてきた。
少し、偶然が重なりすぎているような気がするのは穿ちすぎだと思いたい。
「千羽? どした?」
黙り込んでしまった俺に、日野が訝しげな目線を送ってくる。
「……いや、なんでもないよ」
表情を取り繕い、ひらりと手を振って俺は笑う。
穿ちすぎだと思いたいが、嫌な予感ほどよく当たってしまうのものだと、一番身に染みてわかっているのもまた、自分だった。
目覚めて最初に目にする白い天井は、見慣れたもののようでどこかよそよそしい。記憶は取り戻したが、実感がまだ伴っていないからだろう。薄い布団をそっとどかし、俺は身を起こす。
すぐ隣には、ぴったりくっつくように光里が眠っている。本来、職員の部屋の横にある和室が光里の寝るところだが、職員が気を利かせて同室で休むことを許してくれた。シングルベッドなので少々手狭だが、一人より不思議とよく眠れる。
おなかを冷やさないよう布団をかけ直し、光里を起こさないようにベッドを下りる。つぐみの家では高校生から一人部屋を持てる規則で、俺も例に違わず自分の部屋を与えられているが、壁に埋め込まれたクローゼットや据え置きの机、ベッドがあるだけの殺風景な部屋だ。
年の初頭に最後の親族であった母の律子が死に、ほどなく俺と光里は児童相談所に保護されここへ来た。部屋の隅には、越してきた際に運び込まれた段ボールの山が積まれているが、まだ一つの荷ほどきに手を付けていない。
俺が思い出した記憶は祖父が亡くなったところまでで、そこから母の死の間に、俺と光里の身に、ひいてはその周りで何があったのか、まだわからない。だがきっと、気持ちの整理がつけられなかったのだろう。
大人が誰もなくなり、妹とたった二人世界に取り残される。自分の体の傍らで、幽霊という名の透明人間になったと自覚したときの絶望と、似ている気がする。
今なら、向き合えるだろうか。今度こそ、忘れたくないと思った人のことを忘れてしまわないうちに。
夕べ公園で拾ったあの茶色い折り鶴は、まっさらな机の上で羽を広げてポツンと佇んでいる。薄気味悪いし、捨てようかとも思ったのだが、手放そうと思うとどうにも踏ん切りがつかず、このままだ。
七時にセットしていたスマホのアラームが鳴り始め、その音に起こされた光里が億劫そうにまぶたを開く。顔を洗っておいで、と伝えると頷き、目をこすりながら部屋を出ていく。しかし数秒後タオルを忘れたことに気づき戻ってくる。
まだ寝ぼけているらしく、思わず和んでしまう。心配なので、二階の廊下の突き当たりにある洗面所まで付き添った。
着替えと身支度を済ませ、光里と一緒に一階へ降りる。一階と二階をつなぐ階段には監視カメラが取り付けられており、収縮するレンズが無機質に俺たちを見下ろしている。
つぐみの家には一階と二階に子どもの部屋があり、それぞれ一階が女の子、二階が男の子と定められている。日中の行き来は自由だが、夜間は禁止されている。消灯時間後にはここのカメラが起動し、階段を通行する者がいればアラートが鳴るのだ。
ダイニングではすでに朝食が用意され、同居人の小学生二人が夕べ見たアニメの話で盛り上がりながらご飯を食べている。空になった皿を洗いながら、早くしないと遅刻するよ! と母が子を諭すように職員が二人を急かす。
ここに暮らす子どもたちはとても大事にされている。そのことに感謝もしている。だがそれが仕事に由来する義務に基づくものとも知っている。
その機械的な優しさが居心地悪く、俺は朝食を平らげると早々に席を立つ。作られた家庭的な温かさが、時として白々しいほど空虚に思えてならないのは、俺の性根が歪んでいるせいなのだろうか。
職員が気遣って光里の送迎を代わってくれようとしたが、丁重にお断りした。普段家を出る時間よりも少し余裕を持たせ、つぐみの家を後にする。
夕べ降った雨の影響か、夏の日差しも相まって朝からジメジメと嫌な蒸し暑さが全身を包み込む。これは早いところ冷房のきいた室内に逃げ込んだ方がよさそうだ。
道すがら光里を保育園に預け、足に負担をかけない程度に急ぎながら高校へ向かう。どこから通学しようと坂を通らざるを得ない塩越高校の通学路は、普通に歩いても疲れるのに松葉杖を突きながらだとなお骨が折れる。
時折腕を休めつつ地道に上る。足が治り、松葉杖が外れた暁には思い切りここを駆けあがってやろうと心の中でひそかに誓う。
「おい。パトロールなんかより、あの子をさっさと見つけてきてくださいよ。あんなのでも一応、うちの娘なんだからさ」
坂の途中にある交番の前で、身なりが悪く目付きの鋭い中年の男が、同年代の巡査を捕まえて苦言を呈している。巡査は両手に自転車のハンドルを握っており、どうやら今から町内のパトロールに行こうとしているところのようだ。
「いい年こいて小学生のガキに家出されるなんざ、とんだ恥さらしだろうが。あれのせいでオレまで迷惑を被ってるんだ。もっと動いてくれよ。なんのために高い税金払ってると思ってるんだ」
男の怒号が、朝の湿った空気に不協和音を響かせる。巡査がどうにかなだめようとしているが、全く収まる様子がない。娘を案じているというより、自分の世間体や生活の不自由を憂いているだけの、空っぽな言葉だ。
身勝手な言い分を並べる男の怒った背中が、自分の機嫌一つで理不尽に罵声を浴びせる亮の影と重なる。反射的に顔を背け、俺は松葉杖を突く手を止めず足早にそこを通り抜ける。
どこにでも、こういう親は存在する。それによって泣く子どもがいて、彼らの流れ着く果てに、つぐみの家のような養護施設があるのだろう。
交番横の掲示板には、海難事故の注意を呼び掛けるポスターと並んで、他にも行方不明の子どもを探すビラが張られていた。男の子なのでこの男性の娘とは違うだろうが、日付を見ると夏休み中に海へ遊びに行ったきり戻っていないらしい。
ポスターの中で笑う少年の無垢な笑顔が胸をえぐる。平穏に毎日が過ぎているように見えて、この狭い町でも人知れず人間がいなくなっている。目に映る者でさえ消えていくのだ。目に映らない者たちの行方など、気に留めてくれる者は誰もいない。
幽霊となった俺に、ツルだけが気づいてくれていたように。
アスファルトから立ち上る湯気が視界を歪め、額がこめかみを伝う。いつの間にか数メートル先の地面に水溜まりの影が見え、しかし近づくと逃げるように遠ざかっていく。
逃げ水だ。夏になれば、この辺りでは珍しくない蜃気楼現象の一つだ。まるで鏡面のように頭上の青空を映し、銀色の境界線をゆらゆらと揺らめかせている。
その幻が見せる陽炎の向こうに、人影が見えた。
輪郭はぼやけて曖昧で、止まっているのか、動いているのかも定かではない。だが服装の色は白く、どことなく塩越高校の夏服を連想させる。
誰だろう。目をすぼめ、よくよく凝視する。見覚えのある容姿のような気がした。徐々に視線のピントが合っていき、シルエットがはっきりしていく。
――ツル?
そんな予感がした。顔もおぼろげなのに、なぜそう直感したのか、自分でも不思議だ。でも一度そうだと脳が認識してしまうと、もうそれとしか思えなくなった。
心臓が早鐘を打つ。松葉杖を握る右手が震え、杖の先が小刻みにアスファルトの地面をコツコツと叩く。瞬きのたびに陽炎が色濃く揺れ、ツルの姿を不気味に歪めていく。
人形のように整っていたはずの顔は、まるでその一点だけ空間が歪んでいるかのようにうまく像を結べない。どうにかして見つめようとすればするほど、視線の真ん中から渦を巻くようにぐにゃりとねじれてかき混ぜられる。
ちゃんと周囲と同じく色づいているはずなのに、顔のあたりだけ闇に塗りつぶされたように空洞が口を開けていた。今更ながら、あれは本当にツルなのだろうか。ツルを請う俺の心が見せる魔物なのでは――。
「おはよう、千羽!」
背後から肩を叩かれ、名前を呼ばれて我に返る。カバンを肩に担いだ日野が、全く疲れる様子もなく軽快な足取りで坂を上り、隣に並ぶ。
「日野……お、おはよう」
「おう。どした?」
「い、いや。なんでもないよ」
突然のことで驚いて変な反応をしてしまった。不思議そうな顔を浮かべる日野にそう返し、俺は気を取り直すように松葉杖を握り直し、再び坂を上り始める。
先ほどまで見えていた逃げ水も、その向こうに佇んでいた不気味なツルの幻影も、氷が溶けるみたいにすっかり夏の空気に霧散していた。
「ねぇ、今朝また蜃気楼が出たんだって!」
学校に到着し、昇降口で上履きに履き替えているとクラスの女子たちの賑やかな噂話が自然と耳に入ってくる。
「マジ? なんか今年の夏は多いね。先週も出てなかった?」
「出てたね、あたし見た! 去年は片手で足りるくらいしか出なかったのにねー」
そんな浮足立った会話を背に聞きながら、日野と二年二組の教室に向かう。松葉杖なので三階までの階段にはしばらく難儀しそうだが、こればかりはやむを得ない。
二十人くらいしかいないクラスメイトの大半は、八時前と比較的早い時間だからまだ登校してきていなかった。教室の一番後ろの壁に松葉杖を立てかけ、俺は窓際にある自分の席に着く。
節電のためなのか、空気の入れ替えのためなのか、教室の窓は開いていた。流れ込む潮風がカーテンを揺らし、磯の香りが強く香る。
幽霊だった頃にもこの風に吹かれることは多かったが、ただ透明な身体を空気が通り抜けるだけの空虚なものだった。今は風に吹けば毛先が揺れ、頬を撫でるざらついた感覚まで鮮明に感じる。
一度失いかけた肉体で受け止める五感の全てが、以前よりもずっと鋭敏で重たく、些細な出来事一つで容易に生を実感できる。ずっと当たり前にそこにあったものなのに、三途の川を渡りかける前には気づけなかったと思うと皮肉だが。
カバンから出した教科書類を机の中に仕舞う際、ふとした拍子に中に入っていた折り鶴を引っかけて落としてしまう。気分転換に折っていたものだ。学校でも変わらず、折り紙は俺にとってちょうどいい暇つぶしだった。
「なんだ、まだ折り鶴サマやってんのか? 屋上閉まっちまったし、さすがにもうピーク過ぎたって」
それを横から見ていた日野がそんなヤジを飛ばしてくる。一時、学校で流行っていた『折り鶴サマ』のまじないの真似事だと思ったのだろう。
「折り鶴サマは関係ないよ。これは、個人的な趣味みたいなものだから」
「ふぅん、趣味か。じゃあしょうがねぇな!」
あっさりと納得した日野が歯を見せて笑う。こういう大雑把であっけらかんとした快活さが、彼のいいところだ。一緒にいても肩肘を張らずに済む。
他の男子と話し始めた日野――確か彼と同じサッカー部員だ――を横目に、ふいに話題に上った懐かしい噂に俺は思いを馳せる。
校舎の屋上にある古い貯水槽のふもとに願い事を書いた紙で折った折り鶴を納めれば、折り鶴サマという存在が願いをかなえてくれるという『折り鶴サマ』。そういえば確かに新学期が始まってから、教室でその話題を聞いていない。
まじないに必要な貯水槽へのアクセスができなくなり、夏休みという長い空白期間も得て、さすがにみんな飽きたのかもしれない。中高生は新しいもの好きだが、同じくらい飽き性でもあると思っている。学校と自宅を行き来するだけの単調な日々に、変化をもたらしてくれる出来事に飢えているのだ。
それが流行りのアイドルだろうと、売れ筋のゲームだろうと、SNSにのめり込むことだろうと、オカルトチックなおまじないだろうと、退屈をしのげるものであれば多分なんでもいい。
「……それにしても、結局『折り鶴サマ』ってどこから出てきた話なのかな」
落ちた折り鶴を元通り机の中に戻しながら、ふと純粋な疑問がこぼれた。このまじないを最初に聞いたのはツルからだが、思えば当初から不思議に思っていた。
元々この学校にあったわけではなかったおまじないは、いつ頃から話題に上り始めて、ひそかに流行するに至ったのだろう。噂とは往々に出所が不明瞭になりがちとはいうが、さすがに予兆くらいあってもいいのではないか。
だいたい、どうして折り鶴ではなければいけなかったのか。納める場所として屋上の貯水槽が指定される理由もわからない。もっと御利益が期待できそうな場所は他にいくらでもあっただろうに。
「んー、俺そういうオカルトチックな話にはあんま興味ないからなぁ。あ、女子なら知ってんじゃね?」
まだ朝のホームルームが始まる時間まで余裕があり、これ幸いにと日野がクラスの女子にあれこれ聞き始める。俺よりよほど社交的で友達も多い日野にかかれば、知りたい情報の一つや二つ、なんのそのだ。
「え、折り鶴サマの由来? えぇ? なんだったかなぁ……」
話を振られた女子たちは顔を見合わせ、うーん、と首を傾げてうなった。教室の席が一つ、また一つと埋まっていき、続々と登校していたクラスメイトたちの声で教室も一層賑やかになっていく。
「あれじゃない? 屋上で拾った折り鶴。去年の年末前くらいじゃない?」
「あ、そうそう、それだ! なんか変なこと書いてあったやつ!」
「変なこと?」
隣の席から彼女たちの声に耳を傾けていたが、その奇妙な折り鶴の話は頭の片隅に引っかかるものがあった。俺が疑問を呈すると、最初の話を持ち出した女子は一つ頷く。
「えっとね。確か、いなくなっちゃえ~、みたいな感じの文が書いてあったかな? そっからかも」
「そう、なんだ……」
誰かがいなくなることを望んだ折り鶴、ということか。それが噂の出所になっているというのはなんとも気味の悪い話だ。
去年の年末前。そういえば、母の命日もそのあたりだ。単なる偶然だろうか。この頃、俺の中で”偶然”という言葉は甚だ信用度がないのだが……。
話してくれた彼女たちに礼を言うと同時に、八時二十分の本鈴のチャイムが鳴り響く。窓から見える正門付近では教頭先生が鉄の門を閉め始め、ダッシュで滑り込もうとしている生徒と攻防を繰り広げている。
その願い事を鶴に託したのは誰だったのだろう。校舎の屋上にあったものなら、この学校の生徒か職員の可能性が高い。何の縁か、俺もこれまで身の回りで何度も鶴を見かけてきた。
少し、偶然が重なりすぎているような気がするのは穿ちすぎだと思いたい。
「千羽? どした?」
黙り込んでしまった俺に、日野が訝しげな目線を送ってくる。
「……いや、なんでもないよ」
表情を取り繕い、ひらりと手を振って俺は笑う。
穿ちすぎだと思いたいが、嫌な予感ほどよく当たってしまうのものだと、一番身に染みてわかっているのもまた、自分だった。
