折り鶴サマの満つる刻

 潮の香りが鼻腔を満たし、ヒバリの鳴き声が鼓膜を打つ。
 まぶたを開き、真っ先に目に飛び込んできたのは、雲一つ晴れ渡った空。一拍遅れて、自分が仰向けに横たわっていることに気づく。
 そこは広い校庭の真ん中だった。どうして学校にいるのか、どうしてここに寝転がっているのか、なぜか全く思い出せない。まるで頭に霧がかかったようで、羽のように軽く感じる体がまたことさら不安をかき立てる。
 仰向けの視界には青空と、隅に鉄筋コンクリート造の三階建ての校舎が見えた。屋上の縁に張られた金網の一部が壊れ、穴が開いてしまっている。誰か、あそこから落ちたのだろうか。そんな壊れ方だ。
 ゆっくりと上半身を起こす。目線を落とすと、紺色の学ランを着た自分の体がある。上履きのラインは黄色。
 周囲を見渡すと、近くに生徒手帳と思しきものが転がっている。レザーっぽい紺色のカバーがかかった小さな手帳には制服姿の少年の顔写真と、『千羽 海斗(チバ カイト)』という名前が印字されていた。
「ちば……かいと……」
 声に出して呟く。無性に、懐かしい響きだ。
 違う――懐かしくて当然だ。だってこれは名前。俺の名前じゃないか。なぜそんな大事なことを忘れていたのだろう。
 生徒手帳を取ろうとするが、するりと、手が手帳をすり抜ける。もう一度試す。やはり掴むことができない。
 明らかに、何かがおかしかった。
 遠くで救急車のサイレンが聞こえてくる。遠ざかるかと思ったそれは徐々にこちらへと迫り、やがて敷地のすぐ外の道を回転灯が明滅しながら通過していく。
 目を刺すような赤い警光を追って、校門の方を振り返った。そこでようやく、ソレが目に入る。
 生徒手帳の写真と同じ顔の身体がすぐ近くに転がっていた。制服をまとい、腕を力なく投げ出し、片足があらぬ方向に曲がってしまっている。頭から流れる赤黒い血が、じわじわと校庭の砂を巻き込みながら侵食していく。
「……なんで」
 無意識に呟いた声は震えていた。これは――俺、なのか? 混乱と焦燥が一挙に押し寄せ、溺れたみたいにうまく息ができない。
 倒れている”もう一人の自分”はまぶたを固く閉ざし、血の気がない青ざめた顔をしている。胸はかすかに上下しているから辛うじて生きているようだが、どう見ても瀕死だ。
 近くには懸命に呼びかける教師の姿もあり、潮騒と共に校庭に乗り入れてきた救急車からは、停車するや否や複数の救急隊員が下りてくる。
「傷病者を発見。これより救助活動に入る」
「担架を下ろします。君、聞こえる? 名前は言える? ――反応なし。意識ありません」
「頭部の出血が多い。頸椎を固定する。頭動かさないで」
 冷静沈着に救助活動を進める隊員たちの様子を、俺は真横で呆然と眺めていた。状況を説明している隊員の声も、まるで頭に入ってこない。
 どうにか気づいてもらおうと声をかけるも、俺の声に反応してくれる人は誰もおらず、俺の手も誰の肩にも触れられなかった。
 ストレッチャーに載せられ運ばれていく瀕死の体が、俺の胴体の真ん中をすり抜けて救急車に収容されていく。今の自分に実体がないことを、他でもない自分自身の肉体によって突きつけられる。
 なぜ、こんなことになっているのだろう。思い出そうとしたが、やはり無理だった。真っ黒なクレヨンで頭の中を塗りつぶされたように何も浮かばない。
 再びサイレンが鳴り響き、赤い回転灯を点灯させながら救急車があっという間に校庭を去っていく。呆然と見送り、あまりに荒唐無稽な現実に引きつった笑い声がこぼれる。
「……なんだよ、これ」
 馬鹿げている。そう思わずにはいられない。だが否定したくても、自分が置かれた現状がそれを許さない。証拠は目の前に全て揃っており、悪夢のような現実を、受け入れざるを得ない。
 俺は――どうやら幽霊になってしまったらしい。
 荒れ狂う感情をどうにか飲み込み、深呼吸して無理やり心を鎮める。焦ってはだめだ。意味が分からない状況だからこそ冷静でいないと……。
「そんなところでどうしたの?」
 ふいに頭上から降ってきた声に思考を中断される。反射的に顔を上げると、校舎の屋上に立つ人影が見えた。
 ちょうど、あの壊れた金網の真ん中だ。
 さっきまで誰もいなかったはずのその場所に、俺と同じ制服を着た同年代の少年が身をかがめている。
「君、さっき救急車で運ばれていったでしょ? どうしてまだ居るの」
 三階分の高さがあるため、少し声を張ってこちらに語りかける少年の透き通ったテノールボイスは、誰もいない校庭に良く響いた。俺は面食らう。
 隊員たちや教師と違い、明白に幽霊となった俺に向けられた言葉だったからだ。
 制服が一緒だから、同じ学校の生徒なのだろう。だが誰なのかは記憶がないため、当然のように思い出せない。
「わ、わかりません。気づいたら、こんなことに……見えてるんですか? 俺のこと」
「うん、見えてる。でもわからないっていうのは変だなぁ。そこで何があったか、君が一番よく知ってるはずじゃないか」
 俺の疑問にあっさりと答えた少年は、その口で続けて意味ありげな一言を落とす。俺は一瞬言葉に詰まった。確かに、本来ならそうであるべきだ。だが嘘のような話、俺は記憶を失くし、このおかしな状況について何一つ説明できない。
「あの! あなたは、何か見ていませんか!」
 藁にも縋る思いで屋上に向かって叫び返す。彼がいつからそこにいたのか。ほんの一部だけでも、そこから何か目撃してないか。他に事情を知る者がいるなら誰でもいい。この身に何があったか、教えてほしい。
 そんな俺の焦燥を嘲笑うように少年は口を閉ざし、金網の奥へ引っ込んでしまった。距離があって表情はおぼろげだったが、笑っていたような気がする。
 どうして――?
 居ても立っても居られず、俺は校舎に飛び込む。目についた中央階段をひたすら駆け上がり、一直線に屋上を目指す。
 普段は閉まっている屋上の出入り口が、今日に限って開けっ放しになっていた。扉をくぐると白い光が目を焼き、ソーラーパネルやアンテナが立ち並ぶ、風と潮の香りに満ちた無骨な空間がこちらを出迎える。
 今しがた眼下で騒ぎがあったというのに、まるでここだけ世界から取り残されたように何食わぬ顔で静寂と平穏を享受していた。
「あれ。わざわざこんなところまで登ってきたんだ」
 その一角にポツンと立つ古い貯水槽に、先ほどの少年は座っていた。宙に投げ出した足をブラブラさせながら、両手を後ろについてこちらを見下ろしている。
 浮世離れした容姿の精巧な人形。それが第一印象だった。太陽に照らされた肌は白く、潮風に吹かれてなびく黒髪が一層映える。風にもつれる前髪がチョコレート色の瞳に影を落とし、だがその目はビー玉のように透き通って虚ろだ。
 上履きのラインは黄色。俺と同じだ。同級生、ということだろうか。高校生にしては、幾分幼い顔立ちに見える。
「お願いします。何か知ってるなら、教えてください。あなたは、ずっとここにいたんですか?」
「そうだよ。ここで一部始終を見てた」
 含み笑いを貼り付けた少年の顔から感情は読み取れない。彼はゆっくりと右腕を持ち上げ、おもむろに屋上のある一か所を指さす。
 例の、壊れた金網にぽっかり空いた、不吉な穴だ。
「君は――自分であそこから飛び降りたんだ」
 告げられた真実は衝撃的で、頭が一瞬、理解することを拒んだ。
「う、嘘だ……」
「本当だよ。残念ながらね」
 否定しようとした言葉は無慈悲にも両断され、受け入れがたい状況に心拍数が早まった気がする。幽霊に心臓など、ないというのに。
 頭の中で理屈が渦巻き、他に辻褄が合う説明を必死に導き出そうとしている。だが答えは見えない。考えれば考えるほど、提示された答えへの納得ばかりが浮かぶ。折れた足、流れる血、見上げた空――。
「信じられないなら、そこの金網の穴からもう一度下を覗いてご覧。何か思い出すかもしれないでしょ?」
 少年がそう提案してくる。頭では、それが妥当だと理解していた。視線は金網の方を向くが、足は一向に動かない。
 いや、動けなかった。
「怖いんだ?」
「……」
 見透かされたような一言に、胸に巣くう恐怖が浮き彫りになる。
 そう、怖いのだ。あの穴から校庭を見下ろすことが。そこに自分の体があった痕跡――ここから飛び降りた証左――を見ることが。
 これじゃあ、認めたも同然ではないか。
「変なの。自分で飛んだくせに」
 梯子を使うことなく、少年は貯水槽の上から難なく屋上に着地すると、悠々とした足取りで近づいてくる。とっさに後ずさろうとするが、すぐ後ろは壁だった。
「何が怖いの? 高いところ? それとも落ちそうなところ?」
「それ、は……」
「当ててあげようか。きっとどれでもないんだ。ここで何があったか、君は思い出したくないんだよ。だから、僕のことも忘れてる」
 じわじわと壁際まで追い詰められ、名前も知らない少年からの詰問に戸惑う。
 いや、この言い分だと単に俺が覚えてないだけなのか。彼は以前から俺を知っていて、俺だけが一方的に忘れてしまった。
「す、すみません……」
「別にいいよ。怒ってるわけじゃないし」
 本当に気にしてなさそうな口ぶりで、少年はこちらの顔を間近に覗き込む。息遣いが聞こえるほどの距離感に、無意識に肩が強張る。
「怖いなら、一緒にいてあげる。大丈夫。思い出せないならそのままでもいい。その方が僕も退屈しなさそうだし」
 細く長い指先が伸ばされ、触れられると身構えたが、その手は俺の頬に届くことなくするりと虚空をすり抜ける。
「僕のことは、ツルとでも呼んでくれ」
「……ツル?」
「そう。君が僕をそう呼んでたんだよ。千羽海斗くん」
 意味ありげな含み笑いを浮かべ、ツルと名乗った彼はあっけにとられる俺を儚い瞳でじっと見据えていた。