禍鬼に肩を抱かれたまま、深い闇の中に落とされる。
宙に浮いた体が、どこまでも落ちていく。
底知れない恐怖に、悲鳴も出ない。
ぎゅっと目を閉じて、お守りを握りしめた。
ようやく地面に足がつき、おそるおそる目を開いた。
墨を溶かしたような暗黒の空の下、漆黒の城がそそり立っていた。
辺り一面、草木はなく、色のない闇が広がる。
身の毛がよだつ。お守りからは、温もりが感じられない。
「こっち」
手招きをした禍鬼が、城門を潜った。雪月はためらいながらも、背中を追った。
城の中も薄暗い。禍鬼の歩調に合わせ、階段脇の松明に火が灯る。
影内で、何かがうごめく。雪月は強張る足を踏みしめて、上り続ける。
最上階の板間。禍鬼が上座の畳に腰をおろし、外套を脱ぎ捨てた。ステッキで、畳敷きの前の板間を二度叩いた。
「座れよ」
雪月は鳥肌が立つ腕をさすりながら、正座をした。
指輪の刻印に触れてみると、冷たさもなく、締め付けもない。
「手を出せ」
ためらう雪月の右手を乱暴に掴んだ禍鬼が、紋様に触れようとした瞬間――。
バチッ。
火花が散り、禍鬼の指が赤くただれる。眉をしかめ、指に息を吹きかけると、すぐ元に戻った。
雪月は唖然として、指輪を見つめる。
「今のは……?」
「主従関係を解かない限り、眷属は守られる。絶対服従が条件。それが、理。……の、はずなんだよ」
禍鬼の瞳の深紅がどろりと濃くなる。憤怒の形相で、牙をむく。
「なのに、何故まだ守られている? おまえのせいで、夜叉王も歪んじまった。こんなこと、あっちゃいけねえんだよ」
禍鬼は、憎悪と怒りで烈火のごとく燃えたぎる。赤黒い妖気が禍鬼を覆う。
ステッキを持っている手を振り上げる。
雪月は目を閉じて痛みを覚悟する。
だが、何の衝撃も来ない。
禍鬼は、ステッキをひきずるようにして、部屋の外に出て行く。
「おまえは、おれが喰らう。歪みは、おれが食い止める」
禍鬼の澱んだ音が、悪寒と共に届く。怒り任せに閉められた障子を、雪月は呆然と見つめた。
雪月は、そっと刻印に触れる。
ずっと、守られていた――。
禍鬼の手を取った時、夜叉王は手を伸ばしてくれた。
『待て!……行くな』
夜叉王の静かな叫びが、耳から離れない。
固く目を閉じ、指輪を握り込んで、胸に近づけた。
降りしきる雨が、枝垂れ桜の花びらを散らす。
ましろは雨に濡れるのも構わず、子猫の姿で庭を駆けていく。縁側に飛び乗ると、玄雅が眉をひそめる。
「汚い足で上るな」
「どうでもいいよ! 夜叉様、ユヅキの気配がしないの。ユヅキ、消えちゃったよ!」
玄雅は、布をましろに投げつける。
「あいつは、禍鬼様と出て行くことを選んだ」
「何で?! 禍鬼様と出て行って、どうするの?」
「喰われる」
「うそ……」
ましろの目に涙が溢れ出す。食べかけのお膳を黙って見ている夜叉王の膝に、思いっきり爪を立てた。
「禍鬼様から、ユヅキを取り返してよ!」
玄雅はましろを引きはがし、一喝した。
「黙れ! あいつは奪われたんじゃない。自ら、消えることを選んだのだ」
部屋の隅から姿を現した影丸が、半べそをかいて鼻をすすった。
「玄雅、どうして雪月は、そんなこと……」
玄雅は苦々しい表情で、進言した。
「主様、あの人間は手放しましょう」
ましろと影丸が、顔を強張らせる。
夜叉王は、広げた手のひらに目を落とす。
「そんなのダメ! きっと、そそのかされたんだよ。夜叉様、ユヅキを連れ戻して! ユヅキに会えないなんて、寂しいよ」
「おいらも、会えなくなるの、寂しい。夜叉王様、お願いします」
夜叉王はまぶたを閉じる。
命令を拒否した時、雪月の目には力強い光が宿っていた。だが、消える前、それは揺らいだ。
人間らしい迷いだ。しかし、醜いわけではない。
――今手放すには、惜しい。
まぶたを上げ、箸を取る。
魚の切り身を、豪快に口に入れ、噛み潰す。
ましろと影丸は、瞬きをして顔を見合わせた。
ご飯と味噌汁をかきこんでいく夜叉王を、玄雅は呆然と眺めた。
たちまちお膳は空になり、夜叉王は箸を置いた。
「あいつは、俺のだ」
雨が止み、雲が晴れ、満月の光が屋敷を照らす。
乾いた風が、通り抜ける。
夜叉王は立ち上がり、空間に闇の穴を開けた。
ましろと影丸は満面の笑みで、期待の眼差しを向けた。
小さく溜息をつく玄雅の目尻が、微かに下がった。
「行ってくる」
穴の中へ入る夜叉王に、3人は深々と頭を下げた。
戻ってきた禍鬼は、ステッキの代わりに剣を手にしていた。
「夜叉王が、きた」
雪月の心臓が跳ねる。
「許可なく領域に入るやつは、夜叉王だろうと見過ごせない。戦うしかねえ」
眉根を寄せる禍鬼の顔が、刃に反射する。途端に、剣の切っ先を、雪月の喉元に向ける。
「夜叉王がおれにやられるのを、黙って見ているか?」
唾を呑み込む。指輪から、ほんの少し冷気を感じる。
禍鬼が、雪月の前に剣を置いた。
「貸してやる。おれは手を出せない。おまえが自分でやれ」
天雷に打たれたかのような、衝撃が走る。
動こうとしない雪月に、禍鬼は怒号を上げる。
「消えることを望んだのは、おまえだろ!」
雪月は肩をびくつかせる。
震える手で、柄を取り、先端を首もとに当てる。
呼吸が荒くなり、心臓が暴れだす。
「はぁっ、はぁっ……」
小刻みに動く刃が、皮膚をかすめる。
寸の間、呼吸が止まる。
一滴、血が流れ落ちる。
カラン。
雪月の手から取り落とされた剣が、乾いた音を立てる。
禍鬼の怒声が、耳をつんざく。
「やれ!」
禍鬼は、無理矢理剣を握らせようとする。
雪月は固く両手を組み合わせ、首を横に振った。
「……でき、ません」
禍鬼の握りしめた拳が、わなわな震える。
「なんだと。怖気づいたか!」
「怖いからじゃ、ありません。私は……」
瞳を潤ませた雪月は、心の底から叫んだ。
「消えたく、ない! 夜叉王様の傍に、いたいんです!」
雪月の頬を、涙が伝う。
禍鬼が言葉に詰まり、開きかけた口を閉じる。
ほのかに紋様が光る――。
ドンッ!
轟音と共に、障子が吹き飛ぶ。
暗黒の混沌とした妖気を帯びた夜叉王が、一歩ずつ近づいてくる。
「夜叉王、様!」
雪月の喉を伝う血を見た瞬間、激しい情動が、夜叉王を襲う。
怒りか、それとも恐れか――自分でも分からない。
刹那、夜叉王は漆黒の炎に包まれる。焔色の瞳が燃え上がり、禍鬼を捉える。
「……許せん」
炎が刃へと姿を変え、禍鬼に斬りかかった。
禍鬼は寸でのところで剣を受け止めた。
「たかが人間ごときに、熱くなりやがって」
禍鬼は炎の刃を薙ぎ払い、腕を振り上げて叫んだ。
「情けねえ! それでも、闇の王か!」
姿勢を低くした夜叉王が、俊敏な動きで斬りつけた。
「低俗なおまえには、わからぬ」
爆風と共に禍鬼は部屋の隅へ飛ばされ、壊れた壁の下敷きになった。
呆気に取られている雪月の前に、普段の姿に戻った夜叉王が腰を落とす。
夜叉王は、雪月の喉を指でなぞり、血のついた指先を舐める。
目を丸くする雪月の喉に、息を吹きかける。
雪月はびくっと肩を持ち上げ、喉に手を当てる。痛みも血も引いていた。
「ありがとう、ございます」
唖然とする雪月の手を取り、夜叉王は指輪に唇をつけた。
空気が凍る。
紋様にひびが入り、蒼く燃え上がる。
雪月の指に、ぴりっと痛みが走る。
炎が消えると、紋様の上に文字が刻まれた。
雪月の顎を持ち上げる夜叉王の手が、そこはかとなく揺らぐ。
誰にも明かさなかった名が、そこにある。
王ではない。
本来の己がさらされる。
命を差し出すに等しい。
ただひとりに、繋ぎとめられた。
二度と引き返せない。
夜叉王は、低く告げた。
「俺の真名だ」
顎にかけられた手が、頬に移る。夜叉王が、かすれた声音で囁いた。
「傍にいろ」
雪月の胸の奥がきゅっと締め付けられる。目頭が熱くなり、夜叉王の顔がぼやける。
夜叉王の目元が、ふっと緩んだ。
咳き込む音と共に、禍鬼がゆらりと起き上がった。暗い眼差しで夜叉王を睨みつけた。
「禁忌まで犯しやがって。歪みは止められないぞ」
夜叉王はさらりと、禍鬼の視線を受け流す。
「変わらないものなど、ない。理も、俺もだ」
闇の穴を開けると、雪月を抱えて飛び込んだ。
禍鬼が言葉を発する間もなく、穴は閉じた。
禍鬼は自嘲気味に笑うと、額に手を当て、天を仰いだ。
「おれの求めた理想の王は、変わってしまったんだな」
それでも、瞳の奥は色を失わない。
板間に寝転がり、天井に向けて腕を伸ばした。
「あの人間には、何かある。奪ってみたくなるほどの何かが」
冷ややかな笑みを浮かべ、空を掴むように手を握りしめた。
闇の穴を抜けると、枝垂れ桜が風にそよぐ見慣れた庭に出た。
「ユヅキ! よかった、帰ってきた!」
少女姿のましろが、泣きながら飛びついてくる。ましろの柔らかく、温かい体温に雪月は胸をなでおろす。
その後ろで、眉を下げた影丸が、涙をぽろぽろ流している。
夜叉王に一礼した玄雅は、雪月と目が合うと顔を背けた。だが、指輪の変化に気づくと、雪月を指差して口をぱくぱく動かした。
「な、な、な、な、な、何故っ!」
「あはは、ゲンガ、壊れた人形みたい」
涙を拭って笑うましろの肩を、影丸が慌てた様子で叩いた。
「ましろ、あれ」
「あれって、指輪? それがどうし……あっ!」
ましろが大口を開け、雪月と夜叉王の顔を交互に見上げた。
夜叉王は、雪月に手を差し伸べ、そっと口を開いた。
「雪月」
名前を呼ばれただけなのに、胸が熱くなる。
夜叉王の呼吸が、微かに乱れる。
「……選べ。俺を」
雪月は、指輪の文字に目を落として、頷く。
「はい。――蒼炎様」
指先が触れる。刻印の文字が淡く光る。
夜叉王は、ざわめく胸を抑え、ふっと息を漏らした。
爽風が駆け抜ける。
桜の花びらが、一枚、はらりと落ちた。
宙に浮いた体が、どこまでも落ちていく。
底知れない恐怖に、悲鳴も出ない。
ぎゅっと目を閉じて、お守りを握りしめた。
ようやく地面に足がつき、おそるおそる目を開いた。
墨を溶かしたような暗黒の空の下、漆黒の城がそそり立っていた。
辺り一面、草木はなく、色のない闇が広がる。
身の毛がよだつ。お守りからは、温もりが感じられない。
「こっち」
手招きをした禍鬼が、城門を潜った。雪月はためらいながらも、背中を追った。
城の中も薄暗い。禍鬼の歩調に合わせ、階段脇の松明に火が灯る。
影内で、何かがうごめく。雪月は強張る足を踏みしめて、上り続ける。
最上階の板間。禍鬼が上座の畳に腰をおろし、外套を脱ぎ捨てた。ステッキで、畳敷きの前の板間を二度叩いた。
「座れよ」
雪月は鳥肌が立つ腕をさすりながら、正座をした。
指輪の刻印に触れてみると、冷たさもなく、締め付けもない。
「手を出せ」
ためらう雪月の右手を乱暴に掴んだ禍鬼が、紋様に触れようとした瞬間――。
バチッ。
火花が散り、禍鬼の指が赤くただれる。眉をしかめ、指に息を吹きかけると、すぐ元に戻った。
雪月は唖然として、指輪を見つめる。
「今のは……?」
「主従関係を解かない限り、眷属は守られる。絶対服従が条件。それが、理。……の、はずなんだよ」
禍鬼の瞳の深紅がどろりと濃くなる。憤怒の形相で、牙をむく。
「なのに、何故まだ守られている? おまえのせいで、夜叉王も歪んじまった。こんなこと、あっちゃいけねえんだよ」
禍鬼は、憎悪と怒りで烈火のごとく燃えたぎる。赤黒い妖気が禍鬼を覆う。
ステッキを持っている手を振り上げる。
雪月は目を閉じて痛みを覚悟する。
だが、何の衝撃も来ない。
禍鬼は、ステッキをひきずるようにして、部屋の外に出て行く。
「おまえは、おれが喰らう。歪みは、おれが食い止める」
禍鬼の澱んだ音が、悪寒と共に届く。怒り任せに閉められた障子を、雪月は呆然と見つめた。
雪月は、そっと刻印に触れる。
ずっと、守られていた――。
禍鬼の手を取った時、夜叉王は手を伸ばしてくれた。
『待て!……行くな』
夜叉王の静かな叫びが、耳から離れない。
固く目を閉じ、指輪を握り込んで、胸に近づけた。
降りしきる雨が、枝垂れ桜の花びらを散らす。
ましろは雨に濡れるのも構わず、子猫の姿で庭を駆けていく。縁側に飛び乗ると、玄雅が眉をひそめる。
「汚い足で上るな」
「どうでもいいよ! 夜叉様、ユヅキの気配がしないの。ユヅキ、消えちゃったよ!」
玄雅は、布をましろに投げつける。
「あいつは、禍鬼様と出て行くことを選んだ」
「何で?! 禍鬼様と出て行って、どうするの?」
「喰われる」
「うそ……」
ましろの目に涙が溢れ出す。食べかけのお膳を黙って見ている夜叉王の膝に、思いっきり爪を立てた。
「禍鬼様から、ユヅキを取り返してよ!」
玄雅はましろを引きはがし、一喝した。
「黙れ! あいつは奪われたんじゃない。自ら、消えることを選んだのだ」
部屋の隅から姿を現した影丸が、半べそをかいて鼻をすすった。
「玄雅、どうして雪月は、そんなこと……」
玄雅は苦々しい表情で、進言した。
「主様、あの人間は手放しましょう」
ましろと影丸が、顔を強張らせる。
夜叉王は、広げた手のひらに目を落とす。
「そんなのダメ! きっと、そそのかされたんだよ。夜叉様、ユヅキを連れ戻して! ユヅキに会えないなんて、寂しいよ」
「おいらも、会えなくなるの、寂しい。夜叉王様、お願いします」
夜叉王はまぶたを閉じる。
命令を拒否した時、雪月の目には力強い光が宿っていた。だが、消える前、それは揺らいだ。
人間らしい迷いだ。しかし、醜いわけではない。
――今手放すには、惜しい。
まぶたを上げ、箸を取る。
魚の切り身を、豪快に口に入れ、噛み潰す。
ましろと影丸は、瞬きをして顔を見合わせた。
ご飯と味噌汁をかきこんでいく夜叉王を、玄雅は呆然と眺めた。
たちまちお膳は空になり、夜叉王は箸を置いた。
「あいつは、俺のだ」
雨が止み、雲が晴れ、満月の光が屋敷を照らす。
乾いた風が、通り抜ける。
夜叉王は立ち上がり、空間に闇の穴を開けた。
ましろと影丸は満面の笑みで、期待の眼差しを向けた。
小さく溜息をつく玄雅の目尻が、微かに下がった。
「行ってくる」
穴の中へ入る夜叉王に、3人は深々と頭を下げた。
戻ってきた禍鬼は、ステッキの代わりに剣を手にしていた。
「夜叉王が、きた」
雪月の心臓が跳ねる。
「許可なく領域に入るやつは、夜叉王だろうと見過ごせない。戦うしかねえ」
眉根を寄せる禍鬼の顔が、刃に反射する。途端に、剣の切っ先を、雪月の喉元に向ける。
「夜叉王がおれにやられるのを、黙って見ているか?」
唾を呑み込む。指輪から、ほんの少し冷気を感じる。
禍鬼が、雪月の前に剣を置いた。
「貸してやる。おれは手を出せない。おまえが自分でやれ」
天雷に打たれたかのような、衝撃が走る。
動こうとしない雪月に、禍鬼は怒号を上げる。
「消えることを望んだのは、おまえだろ!」
雪月は肩をびくつかせる。
震える手で、柄を取り、先端を首もとに当てる。
呼吸が荒くなり、心臓が暴れだす。
「はぁっ、はぁっ……」
小刻みに動く刃が、皮膚をかすめる。
寸の間、呼吸が止まる。
一滴、血が流れ落ちる。
カラン。
雪月の手から取り落とされた剣が、乾いた音を立てる。
禍鬼の怒声が、耳をつんざく。
「やれ!」
禍鬼は、無理矢理剣を握らせようとする。
雪月は固く両手を組み合わせ、首を横に振った。
「……でき、ません」
禍鬼の握りしめた拳が、わなわな震える。
「なんだと。怖気づいたか!」
「怖いからじゃ、ありません。私は……」
瞳を潤ませた雪月は、心の底から叫んだ。
「消えたく、ない! 夜叉王様の傍に、いたいんです!」
雪月の頬を、涙が伝う。
禍鬼が言葉に詰まり、開きかけた口を閉じる。
ほのかに紋様が光る――。
ドンッ!
轟音と共に、障子が吹き飛ぶ。
暗黒の混沌とした妖気を帯びた夜叉王が、一歩ずつ近づいてくる。
「夜叉王、様!」
雪月の喉を伝う血を見た瞬間、激しい情動が、夜叉王を襲う。
怒りか、それとも恐れか――自分でも分からない。
刹那、夜叉王は漆黒の炎に包まれる。焔色の瞳が燃え上がり、禍鬼を捉える。
「……許せん」
炎が刃へと姿を変え、禍鬼に斬りかかった。
禍鬼は寸でのところで剣を受け止めた。
「たかが人間ごときに、熱くなりやがって」
禍鬼は炎の刃を薙ぎ払い、腕を振り上げて叫んだ。
「情けねえ! それでも、闇の王か!」
姿勢を低くした夜叉王が、俊敏な動きで斬りつけた。
「低俗なおまえには、わからぬ」
爆風と共に禍鬼は部屋の隅へ飛ばされ、壊れた壁の下敷きになった。
呆気に取られている雪月の前に、普段の姿に戻った夜叉王が腰を落とす。
夜叉王は、雪月の喉を指でなぞり、血のついた指先を舐める。
目を丸くする雪月の喉に、息を吹きかける。
雪月はびくっと肩を持ち上げ、喉に手を当てる。痛みも血も引いていた。
「ありがとう、ございます」
唖然とする雪月の手を取り、夜叉王は指輪に唇をつけた。
空気が凍る。
紋様にひびが入り、蒼く燃え上がる。
雪月の指に、ぴりっと痛みが走る。
炎が消えると、紋様の上に文字が刻まれた。
雪月の顎を持ち上げる夜叉王の手が、そこはかとなく揺らぐ。
誰にも明かさなかった名が、そこにある。
王ではない。
本来の己がさらされる。
命を差し出すに等しい。
ただひとりに、繋ぎとめられた。
二度と引き返せない。
夜叉王は、低く告げた。
「俺の真名だ」
顎にかけられた手が、頬に移る。夜叉王が、かすれた声音で囁いた。
「傍にいろ」
雪月の胸の奥がきゅっと締め付けられる。目頭が熱くなり、夜叉王の顔がぼやける。
夜叉王の目元が、ふっと緩んだ。
咳き込む音と共に、禍鬼がゆらりと起き上がった。暗い眼差しで夜叉王を睨みつけた。
「禁忌まで犯しやがって。歪みは止められないぞ」
夜叉王はさらりと、禍鬼の視線を受け流す。
「変わらないものなど、ない。理も、俺もだ」
闇の穴を開けると、雪月を抱えて飛び込んだ。
禍鬼が言葉を発する間もなく、穴は閉じた。
禍鬼は自嘲気味に笑うと、額に手を当て、天を仰いだ。
「おれの求めた理想の王は、変わってしまったんだな」
それでも、瞳の奥は色を失わない。
板間に寝転がり、天井に向けて腕を伸ばした。
「あの人間には、何かある。奪ってみたくなるほどの何かが」
冷ややかな笑みを浮かべ、空を掴むように手を握りしめた。
闇の穴を抜けると、枝垂れ桜が風にそよぐ見慣れた庭に出た。
「ユヅキ! よかった、帰ってきた!」
少女姿のましろが、泣きながら飛びついてくる。ましろの柔らかく、温かい体温に雪月は胸をなでおろす。
その後ろで、眉を下げた影丸が、涙をぽろぽろ流している。
夜叉王に一礼した玄雅は、雪月と目が合うと顔を背けた。だが、指輪の変化に気づくと、雪月を指差して口をぱくぱく動かした。
「な、な、な、な、な、何故っ!」
「あはは、ゲンガ、壊れた人形みたい」
涙を拭って笑うましろの肩を、影丸が慌てた様子で叩いた。
「ましろ、あれ」
「あれって、指輪? それがどうし……あっ!」
ましろが大口を開け、雪月と夜叉王の顔を交互に見上げた。
夜叉王は、雪月に手を差し伸べ、そっと口を開いた。
「雪月」
名前を呼ばれただけなのに、胸が熱くなる。
夜叉王の呼吸が、微かに乱れる。
「……選べ。俺を」
雪月は、指輪の文字に目を落として、頷く。
「はい。――蒼炎様」
指先が触れる。刻印の文字が淡く光る。
夜叉王は、ざわめく胸を抑え、ふっと息を漏らした。
爽風が駆け抜ける。
桜の花びらが、一枚、はらりと落ちた。

