庭を眺めながら、禍鬼がお猪口を傾ける。
夜叉王のお猪口に、花びらが泳ぐ。禍鬼を横目に、少しだけ口をつけた。
「何故おまえが、あの人間を知っている」
「おいおい、本気で聞いてるのか? 邪神の間じゃ、知らないやつはいないぞ」
禍鬼は、深紅の瞳をすっと細めた。
「供物を取らず、人間を飼う? 馬鹿げてる。正気じゃない」
「人間は醜い。欲の塊だ。だが、あいつは違う」
夜叉王はお猪口を傾け、花びらごと流し込んだ。
「人間に例外はいない。妖力の糧でしかないだろ。なあ」
禍鬼が夜叉王の肩に手を乗せ、顔を覗き込む。
「あんたらしくない。あの人間を生かしておく必要なんてないだろ」
夜叉王は、枝垂れ桜に視線を移す。その目は、遠くを見ているようだ。
禍鬼は唇を歪め、耳元で囁く。
「あんたは理が邪魔して、あの人間を喰えないんだろ。代わりに、喰らってやるよ」
夜叉王の背後から、漆黒の妖気が立ち込める。禍鬼の肌がひりつき、顔が引きつる。
「俺の物だ。手を出すな」
低く重い声が、空気を裂く。禍鬼は顔の前で両手を上げ、薄ら笑いを浮かべた。
「こわい、こわい。手放す気はなさそうだ」
禍鬼の顔からすっと笑みが消える。
「例外は、歪みを生む。いつか綻ぶぞ」
夜叉王は、片頬を引き上げる。その瞳に鋭い光が宿る。
「千年しか生きていない若造に言われずとも、心得ている」
「おれを若造扱いするのは、あんたぐらいだ」
禍鬼は牙を覗かせ、目だけで嗤った。
「邪心にとりついて人を操り、命を喰らう。今や鬼といえば、”禍鬼”よ」
「低俗な妖怪ではないか。鬼神と肩を並べられるわけがない」
「数百年の仲だっていうのに、手厳しいことで」
禍鬼は苦笑しながら、酒を口に運ぶ。
「失礼致します」
部屋の外から聞こえる雪月の声に、禍鬼の尖った耳がぴくりと動いた。
夜叉王が障子に腕を伸ばすと、ひとりでに開き、お膳を抱えた雪月が入ってきた。
禍鬼はじっとりと雪月に視線を絡ませた。
「お料理をお持ちしました」
雪月は表情を殺して、夜叉王の前にお膳を置いた。
禍鬼は目を丸くして、お膳を指差した。
「これを、あんたが食べるのか?」
「おまえも食ってみれば分かる」
禍鬼は心底嫌そうに、首を横に振る。
部屋を出て行こうとする雪月を、夜叉王は呼び止めた。
「おまえもここで食え」
「お邪魔になりますので。失礼致します」
そのまま障子を閉めて出て行った。
禍鬼は、顔をしかめ、不快感を露わにする。
「躾がなってないな。罰を与えてやらないと。恐怖で支配すれば、従うだろ」
「俺が決める。口を出すな」
夜叉王が料理を口に運ぶ。禍鬼は口をへの字に曲げ、部屋を出て行った。
雪月は薄暗い自室で、お守りを両手で包み込み、目を閉じた。
儀式のことが頭から離れない。
一瞬、美しいと感じた自分が情けない。
何もできずに、少女は消えてしまった。
お守りから感じる温もりに、おつねの穏やかな笑顔が浮かんできた。
突然、音もなく障子が開いた。
我が物顔で入ってきた禍鬼が、室内を見渡した。雪月は萎縮して、固まった。
「甘やかしすぎだな」
禍鬼は箪笥から次々と着物を引きずり出す。雪月は止めようとするが、睨みつけられ、立ちすくんだ。
禍鬼は怯えた雪月の顔を、じっと覗き込む。
禍鬼から目を逸らそうとしても、できない。
頭がぼうっとしてくる。
意識が遠のく寸前、禍鬼の視線が外れた。
体の力が抜け、雪月はその場にしゃがみこんだ。
「何だ、おまえ。邪心が見当たらねえ。不気味だな」
禍鬼は雪月の右手を乱暴に取る。紋様に射るような視線を向け、歯ぎしりをした。
「闇の王が、人間に証を与え、飯まで食う?……ありえねえ」
牙をむいて怒りを滲ませる。
雪月は震える手で口を押さえ、悲鳴を堪えた。
庭に面した障子を開け放った禍鬼は、朧月を指差した。
「月が翳ってやがる。歪みの証だ。いずれ夜叉王の首を絞めることになるだろうよ」
「そんな……!」
禍鬼はおののく雪月を見下ろす。顎に指をかけ、低く唸る。
「おまえが消えれば、元に戻る」
雪月は絶句した。
禍鬼は、針のような目で指輪を見た。
「今すぐおまえを喰らってやりたいが、そいつが邪魔をする」
禍鬼は雪月の顔の前に、手のひらを押し出す。
「おまえが選べ。夜叉王の前から消えることを望むなら、手を取れ」
雪月の耳の奥に、夜叉王の呟きが響く。
『例外は、つくるべきではなかったか』
私は、ここにいてはいけない。
右手を持ち上げる。
刻印が鈍く光り、指輪の引き締めが強くなる。痛みで、手が止まる。
胸元でお守りが揺れる。
抑えていた思いが込み上げてくる。
この手を取ったら、食べられて、消えてしまう?
私がいなくなることは、本当に夜叉王様のためになるの?
「おれに喰われるのが恐いか?」
嘲笑混じりの声に、雪月は小さく首を振った。
震える指先を、禍鬼の手に重ねた。
深紅の瞳が三日月を描く。
その時。息苦しいほどの冷気が、室内を満たした。
「何をしている」
漆黒の妖気に包まれた夜叉王が、現れた。
禍鬼は、雪月の手を引っ張った。
夜叉王の眼差しが揺らぐ。
「こいつ、あんたのために、消えることを選んだぜ」
雪月に向かって、夜叉王が低く吐き捨てた。
「おまえに選ぶ権利はない。手を離せ」
指が圧迫され、雪月は唇を噛みしめる。
一拍間を置いてから、声を絞り出した。
「……嫌です」
夜叉王の瞳孔がゆっくり開く。
禍鬼は喉の奥でくつくつと笑うと、雪月の肩を抱いた。
「あんたもこいつを手放せ。おれが消しといてやるよ」
夜叉王が、雪月の方へまっすぐ腕を伸ばした。
「待て!……行くな」
雪月の眼差しが揺らぐ。
禍鬼が外套をたなびかせ、視界を奪われた。
一瞬のうちに、2人の姿は消えた。
夜叉王は伸ばした手を握りしめ、拳を震わせる。
胸の中に虚無が生まれる。
奪われたのではない。
あいつは、この手からすり抜けていった。
焔色の瞳に、焦燥と怒りが影を落とす。
夜が深く沈む。
闇が、屋敷を覆い隠した。
夜叉王のお猪口に、花びらが泳ぐ。禍鬼を横目に、少しだけ口をつけた。
「何故おまえが、あの人間を知っている」
「おいおい、本気で聞いてるのか? 邪神の間じゃ、知らないやつはいないぞ」
禍鬼は、深紅の瞳をすっと細めた。
「供物を取らず、人間を飼う? 馬鹿げてる。正気じゃない」
「人間は醜い。欲の塊だ。だが、あいつは違う」
夜叉王はお猪口を傾け、花びらごと流し込んだ。
「人間に例外はいない。妖力の糧でしかないだろ。なあ」
禍鬼が夜叉王の肩に手を乗せ、顔を覗き込む。
「あんたらしくない。あの人間を生かしておく必要なんてないだろ」
夜叉王は、枝垂れ桜に視線を移す。その目は、遠くを見ているようだ。
禍鬼は唇を歪め、耳元で囁く。
「あんたは理が邪魔して、あの人間を喰えないんだろ。代わりに、喰らってやるよ」
夜叉王の背後から、漆黒の妖気が立ち込める。禍鬼の肌がひりつき、顔が引きつる。
「俺の物だ。手を出すな」
低く重い声が、空気を裂く。禍鬼は顔の前で両手を上げ、薄ら笑いを浮かべた。
「こわい、こわい。手放す気はなさそうだ」
禍鬼の顔からすっと笑みが消える。
「例外は、歪みを生む。いつか綻ぶぞ」
夜叉王は、片頬を引き上げる。その瞳に鋭い光が宿る。
「千年しか生きていない若造に言われずとも、心得ている」
「おれを若造扱いするのは、あんたぐらいだ」
禍鬼は牙を覗かせ、目だけで嗤った。
「邪心にとりついて人を操り、命を喰らう。今や鬼といえば、”禍鬼”よ」
「低俗な妖怪ではないか。鬼神と肩を並べられるわけがない」
「数百年の仲だっていうのに、手厳しいことで」
禍鬼は苦笑しながら、酒を口に運ぶ。
「失礼致します」
部屋の外から聞こえる雪月の声に、禍鬼の尖った耳がぴくりと動いた。
夜叉王が障子に腕を伸ばすと、ひとりでに開き、お膳を抱えた雪月が入ってきた。
禍鬼はじっとりと雪月に視線を絡ませた。
「お料理をお持ちしました」
雪月は表情を殺して、夜叉王の前にお膳を置いた。
禍鬼は目を丸くして、お膳を指差した。
「これを、あんたが食べるのか?」
「おまえも食ってみれば分かる」
禍鬼は心底嫌そうに、首を横に振る。
部屋を出て行こうとする雪月を、夜叉王は呼び止めた。
「おまえもここで食え」
「お邪魔になりますので。失礼致します」
そのまま障子を閉めて出て行った。
禍鬼は、顔をしかめ、不快感を露わにする。
「躾がなってないな。罰を与えてやらないと。恐怖で支配すれば、従うだろ」
「俺が決める。口を出すな」
夜叉王が料理を口に運ぶ。禍鬼は口をへの字に曲げ、部屋を出て行った。
雪月は薄暗い自室で、お守りを両手で包み込み、目を閉じた。
儀式のことが頭から離れない。
一瞬、美しいと感じた自分が情けない。
何もできずに、少女は消えてしまった。
お守りから感じる温もりに、おつねの穏やかな笑顔が浮かんできた。
突然、音もなく障子が開いた。
我が物顔で入ってきた禍鬼が、室内を見渡した。雪月は萎縮して、固まった。
「甘やかしすぎだな」
禍鬼は箪笥から次々と着物を引きずり出す。雪月は止めようとするが、睨みつけられ、立ちすくんだ。
禍鬼は怯えた雪月の顔を、じっと覗き込む。
禍鬼から目を逸らそうとしても、できない。
頭がぼうっとしてくる。
意識が遠のく寸前、禍鬼の視線が外れた。
体の力が抜け、雪月はその場にしゃがみこんだ。
「何だ、おまえ。邪心が見当たらねえ。不気味だな」
禍鬼は雪月の右手を乱暴に取る。紋様に射るような視線を向け、歯ぎしりをした。
「闇の王が、人間に証を与え、飯まで食う?……ありえねえ」
牙をむいて怒りを滲ませる。
雪月は震える手で口を押さえ、悲鳴を堪えた。
庭に面した障子を開け放った禍鬼は、朧月を指差した。
「月が翳ってやがる。歪みの証だ。いずれ夜叉王の首を絞めることになるだろうよ」
「そんな……!」
禍鬼はおののく雪月を見下ろす。顎に指をかけ、低く唸る。
「おまえが消えれば、元に戻る」
雪月は絶句した。
禍鬼は、針のような目で指輪を見た。
「今すぐおまえを喰らってやりたいが、そいつが邪魔をする」
禍鬼は雪月の顔の前に、手のひらを押し出す。
「おまえが選べ。夜叉王の前から消えることを望むなら、手を取れ」
雪月の耳の奥に、夜叉王の呟きが響く。
『例外は、つくるべきではなかったか』
私は、ここにいてはいけない。
右手を持ち上げる。
刻印が鈍く光り、指輪の引き締めが強くなる。痛みで、手が止まる。
胸元でお守りが揺れる。
抑えていた思いが込み上げてくる。
この手を取ったら、食べられて、消えてしまう?
私がいなくなることは、本当に夜叉王様のためになるの?
「おれに喰われるのが恐いか?」
嘲笑混じりの声に、雪月は小さく首を振った。
震える指先を、禍鬼の手に重ねた。
深紅の瞳が三日月を描く。
その時。息苦しいほどの冷気が、室内を満たした。
「何をしている」
漆黒の妖気に包まれた夜叉王が、現れた。
禍鬼は、雪月の手を引っ張った。
夜叉王の眼差しが揺らぐ。
「こいつ、あんたのために、消えることを選んだぜ」
雪月に向かって、夜叉王が低く吐き捨てた。
「おまえに選ぶ権利はない。手を離せ」
指が圧迫され、雪月は唇を噛みしめる。
一拍間を置いてから、声を絞り出した。
「……嫌です」
夜叉王の瞳孔がゆっくり開く。
禍鬼は喉の奥でくつくつと笑うと、雪月の肩を抱いた。
「あんたもこいつを手放せ。おれが消しといてやるよ」
夜叉王が、雪月の方へまっすぐ腕を伸ばした。
「待て!……行くな」
雪月の眼差しが揺らぐ。
禍鬼が外套をたなびかせ、視界を奪われた。
一瞬のうちに、2人の姿は消えた。
夜叉王は伸ばした手を握りしめ、拳を震わせる。
胸の中に虚無が生まれる。
奪われたのではない。
あいつは、この手からすり抜けていった。
焔色の瞳に、焦燥と怒りが影を落とす。
夜が深く沈む。
闇が、屋敷を覆い隠した。

