遠くから、悲鳴が聞こえる。
目を覚ました雪月は、縁側に出る。泣き叫ぶ声が、微かにする。
人が、いる?
雪月はざわつく胸を抑え、薄暗い庭の奥へ進んだ。
その先には、蔵がひとつ、ぽつんと建っている。
ガタ、ガタ。
中から物音がする。
雪月は意を決して、声をかけた。
「誰か、いるんですか?」
物音が止み、扉が少し開く。
影丸が半分だけ顔を覗かせる。切れ長の三白眼に、涙が浮かんでいる。
「影丸さん!」
名を呼んだ途端、姿を消してしまった。
「んーっ、んっ!」
くぐもった、人の声が聞こえ、雪月は暗がりに足を踏み入れる。
目の前の光景に、驚愕した。
鉄格子がはめられた檻の中に、手足を縛られた同年代の少女がいる。
猿ぐつわを噛まされながらも、必死にもがいている。
雪月が震える足で檻に近づくと、影丸が飛び出してきた。
「待って! 近づいたら、だめだ」
影丸の気迫に押され、一歩後退る。
「もしかして……」
肩をすぼめて、影丸が頷く。
「今夜の儀式まで、見張るのが、おいらの役目」
雪月は、愕然とする。
口だけで猿ぐつわを外した少女が、不審感丸出しの目つきで話しかけてくる。
「どうして、あんたがいるの? ……顔の火傷は? 何でないのよ」
小さくなった影丸が、そのまま檻の中に入り、猿ぐつわを付け直そうとする。
「ちょっと待ってください。少し、お話ししてもいいですか?」
雪月が制すると、影丸は動きを止め、困ったように目を泳がせる。
雪月が頭を下げると、少しならと許してくれた。
少女はすかさず、話し出した。
「あんた、陽凪じゃないの?」
「どうして、姉を知っているんですか?」
「姉? 一人娘でしょ」
雪月は、昼間に聞いた女性たちの会話を思い出した。
「親戚の方、ですか?」
少女は頷く。雪月は、頭に鈍い痛みを感じる。
「火事で全部なくなったって。だから、助けてくれってうちに来たのよ」
少女は、はっとした顔をすると、目を吊り上げた。
「あんた、陽凪に頼まれて、あの恐ろしい男に私をさらわせたんでしょ。私が何したっていうのよ! 火傷のことからかっただけじゃない」
「私は、何も」
雪月は、こめかみを押さえてたじろぐ。憤る少女の声が、蔵に反響した。
「父様はすぐに追い出したけど、お金は渡したじゃない。私を人質にして、もっとお金をとろうとしてるのね。図々しい!」
雪月の頭の奥に、重い衝撃が走る。
「お父様たちは、どこに行ったのですか?」
「私が知ってるわけない……」
口をつぐんだ少女の顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「あんた、何で知らないのよ。陽凪に言われて、やったんでしょ?」
雪月が首を振ると、少女はガタガタ震え出した。
「あの男、私のこと供物って言ってた。お父様が、泣いて謝ってたのって……」
少女の目から涙が溢れ出す。
「私、どうなっちゃうの? ここから出して! 助けてよ!」
雪月は咄嗟に鉄格子の隙間から、腕を入れる。だが、影丸が雪月を檻から引き離す。
「雪月、ここまでにして。儀式の準備、しなきゃ」
影丸は雪月を持ち上げ、蔵の外へ追い出した。少女の泣き叫ぶ声が、胸をざわつかせる。
「影丸さん、待ってください!」
「ごめん」
泣きそうな顔の影丸は扉を閉め、鍵をかけた。
唇を引き結ぶ。喉の奥がつんと痛む。
指輪の刻印が、鈍く光った途端、足元から冷気が漂ってくる。
急激に指輪が冷める。
暗がりから、漆黒の直衣に身を包んだ夜叉王が姿を現す。
目が合った瞬間、雪月の背筋は凍り、息が詰まる。
「何をしている」
咎めるような声に、雪月の指先は震える。
胸元に手を当て、夜叉王を見上げた。
「蔵にいた人は、どうなるのですか?」
「俺の糧となる。それがどうした」
雪月はお守りをぎゅっと握り、固い地面を踏みしめた。
「夜叉王様! 私の食事では、不足でしょうか」
夜叉王がゆっくりと瞬きをする。
金属が静かに、指に食い込む。
「供物を喰らう。理だ」
「なら、どうして父と姉を助けて下さったのですか?」
雪月の顎を持ち上げ、夜叉王は牙をむき出し、唸った。
「勘違いするな」
行灯の火が激しく揺れる。
凍り付くほどの恐怖に襲われ、雪月はその場にへたりこむ。
夜叉王の長い指が、雪月の方に伸びてくる。肩をびくつかせる雪月の瞳には、怯えた色が滲む。
夜叉王は拳を握りしめ、舌打ちをした。
「己の役目を果たせ」
淡々と言い残し、夜叉王は灯りの外へ消えた。
雪月は、竈の炎をぼうっと見つめる。
夜叉王の瞳が重なり、指先がじんと痛んだ。
じっとしているしかないのか。
このまま、終わってしまうのか。
『ここから出して! 助けてよ!』
少女の声が、こだまする。
終わらせていいわけがない。
まだ、間に合う。
両手を握り合わせて頷き、庭に飛び出た。
暗がりの中、途中こけそうになりながら蔵へ急ぐ。
だが、扉は固く閉ざされ、何度呼んでも返事がない。
少女の泣き声も、聞こえてこない。
「ユヅキ、何してるの?」
背後から、竹箒を持ったましろが現われる。
雪月はましろの手を取って、懇願した。
「あの人を、助けたいんです」
「供物のこと? 何で?」
「何でって、食べられちゃうんですよ!」
「知ってるよ。だって供物だもん」
嚙み合わない会話に、焦りが募る。
扉を押しても、引いても、びくともしない。
「誰もいないよ」
「え?」
雪月の顔が固まる。ましろは屋敷を指差した。
「もうすぐ、儀式始まるよ。すっごくキレイなの。見に行こう」
ましろに裾を引っ張られ、枝垂れ桜の庭まで連れていかれた。
茂みに身を潜めるましろにならって、雪月も様子を窺った。
桜の下には、指輪と同じ紋様が描かれている。
その外側に夜叉王が立ち、傍らには玄雅が頭を垂れている。
「供物をここに」
夜叉王の、低く通る声が、響く。
白装束姿の少女を抱えた影丸が、紋様の中央に優しく下ろす。
少女は、泣きも喚きもしない。虚ろな目には、何も映っていない。
夜叉王が腕を突きつけると、まばゆい光が放出され、少女を包み込む。
だめ! このままじゃ――。
雪月は咄嗟に、茂みから飛び出した。
「待ってください!」
夜叉王の腕にしがみつこうとする雪月を、玄雅が遮る。
「邪魔をするな、愚か者! 影丸、こいつを捕まえておけ」
雪月は影丸に両腕を掴まれ、身動きがとれなくなる。
「ごめん。でも、儀式は守らないと」
雪月は身をよじりながら、声を張り上げた。
「私が、その人の分まで尽くします! 命は、取らないでください!」
焔色の瞳が、雪月の濡れた瞳とぶつかる。
夜叉王の放つ光が、少し弱まる。
雪月の口元に、小さな笑みが浮かぶ。
夜叉王は雪月から目を背け、冷え切った声音を響かせた。
「黙れ」
ぎりぎりと指が締めつけられ、雪月は痛みに顔を歪める。
夜叉王の厳かな詠唱が轟く。
「捧げられし、醜い人の子よ。魂は我と渾然一体となり、肉体は地に帰れ」
少女を包んでいた光が、ひとつの球となって宙に浮かぶ。
次の瞬間、少女の体が崩れ落ち、灰と化した。
光が緩やかに、夜叉王の胸に吸い込まれていく。
雪月はその横顔に見入った。
ーー美しい。
命を奪う姿なのに。
はっと息を呑み、我に返る。
花びらと共に、灰が散る。
紋様は、地面に溶け込む。
月が満ち、桜が満開に咲き誇る。
何事もなかったように、夜叉王は瞳を閉じた。
「ユヅキ!」
茂みからましろが飛び出し、雪月の腕にしがみつく。
渋面を滲ませる夜叉王が、雪月の前に立ちはだかる。
ましろは、さっと雪月の後ろに隠れた。
「命に背いてばかりの駄犬め。所有物らしく、大人しくしていろ」
指輪の締め付けが強まり、右手の人差し指の感覚がなくなる。
雪月は真正面から、鋭利な視線を受け止めた。
「私は、犬でも、物でもありません」
夜叉王の眉間に深く、縦皺が刻まれる。
「反発するとは、良い度胸だ」
月光に煌めく雪月の瞳が、まっすぐ夜叉王を見据える。
夜叉王は奥歯を噛みしめ、視線を逸らす。
きつく食い込んでいた指輪が、わずかに緩んだ。
「例外は、つくるべきではなかったか」
夜叉王の呟きが、夜気に溶けこむ。
突然、肌を刺す風が吹きすさぶ。
夜叉王は、枝垂れ桜を凝視する。その隣で玄雅が顔を強張らせる。
緊張の面持ちのましろが、雪月の背後から顔を出し、辺りを見回す。
風が止む。
屋敷を覆う影ができ、巨大になった影丸の声が、上から降ってきた。
「禍鬼様が、お見えです」
枝が揺れ、花を散らす。舞い落ちる花弁に紛れて、男が地面に降り立つ。
黒い外套を翻し、薄ら笑いを浮かべる。鋭い牙が覗き見え、雪月はぞわりと寒気が走った。
深紅の瞳を細めて、ステッキの先を夜叉王に向けた。
「久しいな」
「呼んだ覚えはないが」
「文を送ったじゃないか」
禍鬼は外套から酒瓶を出すと、無造作に放り投げる。玄雅はそれを掴み、縁側へ運んだ。
禍鬼は雪月を見つけると、口を笑みの形にした。目は全然笑っていない。
雪月の皮膚の裏を、冷たいものが這う。
「夜叉王ともあろうものが、人間を飼うとは」
ましろが雪月の手を引いて、逃げるようにその場から立ち去る。
雪月は背中に絡みつく視線を感じながら、足早に屋敷の中へ入った。
満月に薄い雲がかかる。
月光が遮られ、枝垂れ桜に影が落とされた。
目を覚ました雪月は、縁側に出る。泣き叫ぶ声が、微かにする。
人が、いる?
雪月はざわつく胸を抑え、薄暗い庭の奥へ進んだ。
その先には、蔵がひとつ、ぽつんと建っている。
ガタ、ガタ。
中から物音がする。
雪月は意を決して、声をかけた。
「誰か、いるんですか?」
物音が止み、扉が少し開く。
影丸が半分だけ顔を覗かせる。切れ長の三白眼に、涙が浮かんでいる。
「影丸さん!」
名を呼んだ途端、姿を消してしまった。
「んーっ、んっ!」
くぐもった、人の声が聞こえ、雪月は暗がりに足を踏み入れる。
目の前の光景に、驚愕した。
鉄格子がはめられた檻の中に、手足を縛られた同年代の少女がいる。
猿ぐつわを噛まされながらも、必死にもがいている。
雪月が震える足で檻に近づくと、影丸が飛び出してきた。
「待って! 近づいたら、だめだ」
影丸の気迫に押され、一歩後退る。
「もしかして……」
肩をすぼめて、影丸が頷く。
「今夜の儀式まで、見張るのが、おいらの役目」
雪月は、愕然とする。
口だけで猿ぐつわを外した少女が、不審感丸出しの目つきで話しかけてくる。
「どうして、あんたがいるの? ……顔の火傷は? 何でないのよ」
小さくなった影丸が、そのまま檻の中に入り、猿ぐつわを付け直そうとする。
「ちょっと待ってください。少し、お話ししてもいいですか?」
雪月が制すると、影丸は動きを止め、困ったように目を泳がせる。
雪月が頭を下げると、少しならと許してくれた。
少女はすかさず、話し出した。
「あんた、陽凪じゃないの?」
「どうして、姉を知っているんですか?」
「姉? 一人娘でしょ」
雪月は、昼間に聞いた女性たちの会話を思い出した。
「親戚の方、ですか?」
少女は頷く。雪月は、頭に鈍い痛みを感じる。
「火事で全部なくなったって。だから、助けてくれってうちに来たのよ」
少女は、はっとした顔をすると、目を吊り上げた。
「あんた、陽凪に頼まれて、あの恐ろしい男に私をさらわせたんでしょ。私が何したっていうのよ! 火傷のことからかっただけじゃない」
「私は、何も」
雪月は、こめかみを押さえてたじろぐ。憤る少女の声が、蔵に反響した。
「父様はすぐに追い出したけど、お金は渡したじゃない。私を人質にして、もっとお金をとろうとしてるのね。図々しい!」
雪月の頭の奥に、重い衝撃が走る。
「お父様たちは、どこに行ったのですか?」
「私が知ってるわけない……」
口をつぐんだ少女の顔から、少しずつ血の気が引いていく。
「あんた、何で知らないのよ。陽凪に言われて、やったんでしょ?」
雪月が首を振ると、少女はガタガタ震え出した。
「あの男、私のこと供物って言ってた。お父様が、泣いて謝ってたのって……」
少女の目から涙が溢れ出す。
「私、どうなっちゃうの? ここから出して! 助けてよ!」
雪月は咄嗟に鉄格子の隙間から、腕を入れる。だが、影丸が雪月を檻から引き離す。
「雪月、ここまでにして。儀式の準備、しなきゃ」
影丸は雪月を持ち上げ、蔵の外へ追い出した。少女の泣き叫ぶ声が、胸をざわつかせる。
「影丸さん、待ってください!」
「ごめん」
泣きそうな顔の影丸は扉を閉め、鍵をかけた。
唇を引き結ぶ。喉の奥がつんと痛む。
指輪の刻印が、鈍く光った途端、足元から冷気が漂ってくる。
急激に指輪が冷める。
暗がりから、漆黒の直衣に身を包んだ夜叉王が姿を現す。
目が合った瞬間、雪月の背筋は凍り、息が詰まる。
「何をしている」
咎めるような声に、雪月の指先は震える。
胸元に手を当て、夜叉王を見上げた。
「蔵にいた人は、どうなるのですか?」
「俺の糧となる。それがどうした」
雪月はお守りをぎゅっと握り、固い地面を踏みしめた。
「夜叉王様! 私の食事では、不足でしょうか」
夜叉王がゆっくりと瞬きをする。
金属が静かに、指に食い込む。
「供物を喰らう。理だ」
「なら、どうして父と姉を助けて下さったのですか?」
雪月の顎を持ち上げ、夜叉王は牙をむき出し、唸った。
「勘違いするな」
行灯の火が激しく揺れる。
凍り付くほどの恐怖に襲われ、雪月はその場にへたりこむ。
夜叉王の長い指が、雪月の方に伸びてくる。肩をびくつかせる雪月の瞳には、怯えた色が滲む。
夜叉王は拳を握りしめ、舌打ちをした。
「己の役目を果たせ」
淡々と言い残し、夜叉王は灯りの外へ消えた。
雪月は、竈の炎をぼうっと見つめる。
夜叉王の瞳が重なり、指先がじんと痛んだ。
じっとしているしかないのか。
このまま、終わってしまうのか。
『ここから出して! 助けてよ!』
少女の声が、こだまする。
終わらせていいわけがない。
まだ、間に合う。
両手を握り合わせて頷き、庭に飛び出た。
暗がりの中、途中こけそうになりながら蔵へ急ぐ。
だが、扉は固く閉ざされ、何度呼んでも返事がない。
少女の泣き声も、聞こえてこない。
「ユヅキ、何してるの?」
背後から、竹箒を持ったましろが現われる。
雪月はましろの手を取って、懇願した。
「あの人を、助けたいんです」
「供物のこと? 何で?」
「何でって、食べられちゃうんですよ!」
「知ってるよ。だって供物だもん」
嚙み合わない会話に、焦りが募る。
扉を押しても、引いても、びくともしない。
「誰もいないよ」
「え?」
雪月の顔が固まる。ましろは屋敷を指差した。
「もうすぐ、儀式始まるよ。すっごくキレイなの。見に行こう」
ましろに裾を引っ張られ、枝垂れ桜の庭まで連れていかれた。
茂みに身を潜めるましろにならって、雪月も様子を窺った。
桜の下には、指輪と同じ紋様が描かれている。
その外側に夜叉王が立ち、傍らには玄雅が頭を垂れている。
「供物をここに」
夜叉王の、低く通る声が、響く。
白装束姿の少女を抱えた影丸が、紋様の中央に優しく下ろす。
少女は、泣きも喚きもしない。虚ろな目には、何も映っていない。
夜叉王が腕を突きつけると、まばゆい光が放出され、少女を包み込む。
だめ! このままじゃ――。
雪月は咄嗟に、茂みから飛び出した。
「待ってください!」
夜叉王の腕にしがみつこうとする雪月を、玄雅が遮る。
「邪魔をするな、愚か者! 影丸、こいつを捕まえておけ」
雪月は影丸に両腕を掴まれ、身動きがとれなくなる。
「ごめん。でも、儀式は守らないと」
雪月は身をよじりながら、声を張り上げた。
「私が、その人の分まで尽くします! 命は、取らないでください!」
焔色の瞳が、雪月の濡れた瞳とぶつかる。
夜叉王の放つ光が、少し弱まる。
雪月の口元に、小さな笑みが浮かぶ。
夜叉王は雪月から目を背け、冷え切った声音を響かせた。
「黙れ」
ぎりぎりと指が締めつけられ、雪月は痛みに顔を歪める。
夜叉王の厳かな詠唱が轟く。
「捧げられし、醜い人の子よ。魂は我と渾然一体となり、肉体は地に帰れ」
少女を包んでいた光が、ひとつの球となって宙に浮かぶ。
次の瞬間、少女の体が崩れ落ち、灰と化した。
光が緩やかに、夜叉王の胸に吸い込まれていく。
雪月はその横顔に見入った。
ーー美しい。
命を奪う姿なのに。
はっと息を呑み、我に返る。
花びらと共に、灰が散る。
紋様は、地面に溶け込む。
月が満ち、桜が満開に咲き誇る。
何事もなかったように、夜叉王は瞳を閉じた。
「ユヅキ!」
茂みからましろが飛び出し、雪月の腕にしがみつく。
渋面を滲ませる夜叉王が、雪月の前に立ちはだかる。
ましろは、さっと雪月の後ろに隠れた。
「命に背いてばかりの駄犬め。所有物らしく、大人しくしていろ」
指輪の締め付けが強まり、右手の人差し指の感覚がなくなる。
雪月は真正面から、鋭利な視線を受け止めた。
「私は、犬でも、物でもありません」
夜叉王の眉間に深く、縦皺が刻まれる。
「反発するとは、良い度胸だ」
月光に煌めく雪月の瞳が、まっすぐ夜叉王を見据える。
夜叉王は奥歯を噛みしめ、視線を逸らす。
きつく食い込んでいた指輪が、わずかに緩んだ。
「例外は、つくるべきではなかったか」
夜叉王の呟きが、夜気に溶けこむ。
突然、肌を刺す風が吹きすさぶ。
夜叉王は、枝垂れ桜を凝視する。その隣で玄雅が顔を強張らせる。
緊張の面持ちのましろが、雪月の背後から顔を出し、辺りを見回す。
風が止む。
屋敷を覆う影ができ、巨大になった影丸の声が、上から降ってきた。
「禍鬼様が、お見えです」
枝が揺れ、花を散らす。舞い落ちる花弁に紛れて、男が地面に降り立つ。
黒い外套を翻し、薄ら笑いを浮かべる。鋭い牙が覗き見え、雪月はぞわりと寒気が走った。
深紅の瞳を細めて、ステッキの先を夜叉王に向けた。
「久しいな」
「呼んだ覚えはないが」
「文を送ったじゃないか」
禍鬼は外套から酒瓶を出すと、無造作に放り投げる。玄雅はそれを掴み、縁側へ運んだ。
禍鬼は雪月を見つけると、口を笑みの形にした。目は全然笑っていない。
雪月の皮膚の裏を、冷たいものが這う。
「夜叉王ともあろうものが、人間を飼うとは」
ましろが雪月の手を引いて、逃げるようにその場から立ち去る。
雪月は背中に絡みつく視線を感じながら、足早に屋敷の中へ入った。
満月に薄い雲がかかる。
月光が遮られ、枝垂れ桜に影が落とされた。

