孤高の冷徹鬼神は、忌み子を決して手放さない

 星も月もない空の下。ひとり、夜叉王が佇んでいる。
 倒れている草花を踏みしめ、枝垂れ桜の枝に手を伸ばす。

「夜叉様!」

部屋の外から、ましろの弾む声が聞こえる。
 夜叉王が障子に目を向けると、ひとりでに開く。その途端、ましろが飛び込んできた。その後に、お膳を抱えた雪月が続く。夜叉王は、いぶかしげにお膳を見た。

「みてみて。ユヅキが、夜叉様のために作ったんだよ」

ましろが胸を張る。雪月は緊張しながら、差し出した。

「よろしければ、召し上がって下さい」
「おいしそうでしょ。あたしも食べたい」

よだれを垂らすましろの襟首を、夜叉王が掴む。

「掃除の途中だろう」

部屋の外に放り出されたましろは、文句を言いながら去っていった。

 ましろの足音が遠ざかり、しんと静まり返る。
 雪月は背筋を伸ばし、お腹に力を入れた。

「これは、何だ」
「僭越ながら、お作り致しました」
「勝手なことを」

雪月は、胸元に手を添える。

「私のせいで、妖力が弱まったと聞きました。できることをしなければと……」
「罪滅ぼしか。いかにも人間らしい」

嘲笑は一瞬にして消え、低い声が重くのしかかる。

「つまらん」

指輪が、冷たく締め付け、痛みが走る。雪月は、深く頭を下げた。

「夜叉王様に、元気になってもらいたい一心だったのです」
「俺のためだと?」

雪月は頷き、まつげを伏せる。

「何もできないのなら、いないのと同じです」

冷えきった指先を組み合わせる。
 頬杖をついた夜叉王の目元に、愉悦がにじむ。

「……歪だな。やはり面白い」

夜叉王は箸を手に取ると、白米を口に運ぶ。雪月は目を丸くして見入った。

 あっという間に全ての皿が空になる。
 夜叉王は、腑に落ちない顔でお茶をすすった。

「何をした?」
「特別なことは、何も」
「これほど違うのか」

広げた両手を見下ろし、呟く。
 庭に視線を送る夜叉王につられ、雪月もそちらへ体を傾けた。

 蕾がふくらみ、瞬く間に開花する。まるで、息を吹き返すようだ。
 闇夜には、上弦の月。無数の星が光り輝く。

「きれい」

口許に手を当てる雪月に、夜叉王は隣に座るよう促す。雪月は、距離を少し空けて座った。

「食べ物をうまいと感じたのは、初めてだ」
「お力に、なれたでしょうか」

指を鳴らすと、灯籠が増え、一気に華やぐ。
 指輪の冷気は、消えていた。

「これほどまで、妖力が回復するとは」

夜叉王は、薄く唇を引き上げる。

「意味をやる。役目は、飯炊きだ」
「ありがとうございます!」

頬を紅潮させ、雪月は頭を下げる。
 ひとひらの花弁が、二人の間に舞い落ちた。


 四人分の食事が、食卓に並んだ。

「やったー! 雪月のご飯! いっただきまーす」

ましろは大喜びで頬張り始め、頬をパンパンに膨らませる。

「い、いただきます」

影丸はおずおず口に運ぶ。つり眉と三白眼をとろけさせ、一口一口噛み締める。

「我の役目を奪ったからには、生半可なものでは納得しないぞ」

玄雅は不機嫌極まりない顔で、味噌汁に口をつける。ぴたっと動きを止めて、お椀を置いた。

「……うまい」

すぐに罰が悪そうな顔で口を閉じる。ましろが、けらけら笑い出した。

「ゲンガ、納得したでしょ。ほんとにおいしい! ほっぺた落ちちゃいそう」

陽だまりのようなましろの笑顔。雪月はそれを見ているだけで、笑みがこぼれる。
 影丸が目元をほころばせ、雪月を指差した。

「雪月、笑ってる」
「そう言うカゲマルも、珍しくニコニコだね。ほらほら、ゲンガも笑いたくなったんじゃない~?」

玄雅は、うっとうしそうな顔でましろを見るが、その表情は少し緩んでいる。

「うるさい。それより、作った張本人が食べていないとは。我らに毒味をさせたのか」
「ほんとだ。ユヅキのご飯、全然減ってない」
「雪月も、食べて」

三人に見られながら手を合わせる。煮魚を噛み締める雪月に、ましろが問いかけた。

「おいしい?」
「……はい。おいしいです」

雪月が微笑むと、ましろは大きく頷き、顔をくしゃくしゃにした。
 口の中に、ほんのりとした甘さが広がった。

 
 ましろと一緒に後片付けを終えた雪月は、食材用の箱を覗き込んだ。箱の隅には、野菜が少しだけ残っている。

「ましろさん。食材が無くなったら、どうしているのですか?」
「買いに行かなきゃ」
「お店があるんですか?」

ましろは当たり前だと頷く。

「人間界に行けば、たくさんあるでしょ。買い出しもあたしの役目なの」

ましろはひらりと宙返りをすると、人間の娘に姿を変えた。猫耳も消えて、瞳の色も黒い。

「ほら、どこからどう見ても人間でしょ。ユヅキも一緒に行く?」
「行っても、いいんでしょうか?」
「夜叉様にお願いしとく」

屋敷の外には出られない。そう思い込んでいたが、買い出しの許可は簡単に下りた。

 翌朝。ましろと屋敷の外に出て、霧がかった林道を進んでいく。

「この先に、人間界があるの。行こう」

ましろが雪月の手を取って、巨大な鳥居をくぐる。  
 一瞬、視界が歪む。

 鳥居の外に出ると、すぐ傍に廃れた神社が建っている。
 石段を下りるましろの後についていった。

 賑やかな人々の声のする方へしばらく歩くと、商店が建ち並ぶ通りに出た。ましろは人波をかきわけて、すいすい進んでいく。雪月は時々行き交う人にぶつかりながら、手を離さないよう必死に歩き続けた。

 手際よく買い物をするましろに感心していると、店の外から笑い声が耳に入ってきた。ふと目をやると、店の前で女性が二人、顔を突き合わせている。
 ひとりが声を落として、口元に手を当てた。

「ねえ、この間の火事なんだけど」
「ひどかったわねえ。お屋敷、全部燃えちゃったんでしょ」

雪月は息を呑んで、聞き耳を立てた。
 女性たちは眉を寄せ、さらに声を落とす。

「あの人たち、親戚のところに行ったそうよ」
「娘さん、結婚するんでしょ? 相手の家を頼ればいいのに」
「それがさ、顔に大火傷を負って、破談になったって」
「美人って評判だったのに、かわいそうねえ」

雪月は胸が凍りつく。思わず、女性たちに駆け寄ろうとする。
 だが、ましろに裾を引っ張られ、立ち止まった。

「ユヅキ、どうしたの?」
「あ、その……」

答えに詰まっている間に、女性たちは他の店に行ってしまった。

「大丈夫?」

顔を覗き込むましろに、雪月は弱々しく微笑んだ。


 屋敷に着くと、空を見上げた雪月は小首を傾げる。橙、赤、濃い青色の順に彩られた空が広がっている。

「さっきまで昼間だったのに」

ましろは目を細めて、薄い笑みを浮かべた。

「生と死の境目だからね」

ましろの姿が、透けていく。
 瞬きをすると、猫耳の生えた少女の姿に戻る。
 ましろは、跳ねるように屋敷の中へ入っていく。振り向き、手招きをした。

「ユヅキ、帰ろう」

指輪がきゅっと肌に食い込む。
 温もりを求めるように、胸元に手を当てる。

 ここが、私の帰る場所。

 雪月は、自らの足で、一歩踏み出した。

 
 満月一歩手前の月が、浮かぶ頃。
 雪月は、夜叉王の部屋にお膳を運んだ。
 縁側に座る夜叉王の銀髪が、輝いている。  
 
 雪月が夜叉王の前にお膳を置いた。夜叉王はわずかに目元を緩め、箸を手に取った。
 部屋の隅へ移動する雪月に、夜叉王は箸を向けた。

「おまえも食え」
「私のような者が、お食事をご一緒するわけには……」

夜叉王の影が焔のように揺らめく。
 指輪から伝わる冷たさが、指先まで広がる。

「命令だ」

 夜叉王が指を鳴らすと、雪月の前にお膳が現れた。
 無言の圧で急かされ、味噌汁に口をつける。

「……おいしい」

雪月の小さな笑みを、夜叉王は見逃さなかった。



 丑三つ時。
 分厚い雲が立ち込め、混沌とした夜が深まる。

 蔵の前に木刀を握りしめた影丸が立っている。今は、長身の人間の大きさだ。
 ふいに足音が聞こえてきた。影丸は木刀を抱きしめ、素早く辺りを見回す。
 ぼんやりとした灯りの中から、玄雅が姿を現した。その手には、巻物がある。

「蔵を開けろ」

影丸が頷き、扉を開け放った。
 そこに、夜叉王が姿を見せた。肩には、気を失った少女が担がれている。
 影丸は少女を受け取ると、丁寧に抱えて蔵の中へ入る。
 扉が音もなく閉められた。


「夜叉王様」

歩き出す夜叉王を玄雅が引き止め、ためらいがちに懐から文を取り出す。
 夜叉王が受け取ると、墨の匂いと共に、得体の知れない気配が漂う。

「禍鬼様から、先ほど届きました」

夜叉王は文に目を通すと、玄雅に押し付けた。

「妖力強壮の美酒を持ってくるそうだ。年寄り扱いか。生意気な若造め」

鼻で笑う夜叉王に、玄雅は不安気な眼差しで尋ねた。

「屋敷に、入れるのですか?」
「駄目な理由があるか?」

玄雅は押し黙り、文を握る手に力を入れる。

「心配するな。おまえ達は守られている。あやつも、俺の領域で暴れるほど愚か者ではない」

夜叉王は踵を返して、暗がりを進んでいく。

「禍鬼様は、主様のことを――」

遠ざかる背中に、玄雅の呟きは届かない。

 灯りが全て落とされる。
 屋敷は深い闇へ、沈んでいく。