孤高の冷徹鬼神は、忌み子を決して手放さない

 玄雅が右手をひと振りするとと、空になった四人分の食器が一瞬で消える。

「ましろ。手を抜かずに、きちんと、食器を洗っておけ」
「あー、うん」

ましろの目が泳ぐ。

「あとで確認するからな」

部屋の外に出た玄雅に向かって、ましろはべーっと長い舌を出した。

「猫は水が苦手なんだから、仕方ないでしょ」

影丸がたくましい腕を内側に寄せ、身をすくめた。

「手伝ってあげられなくて、ごめんよ」
「力強すぎて、お皿割っちゃうもんね。気にしないで」

影丸は、一層落ち込んで項垂れる。ましろが慌てて、障子を開け放った。

「カゲマルにしかできないお役目があるでしょ。早く蔵に行って、お仕事しなきゃ」
「そうだった」

重い足音を立てて、影丸が飛び出して行く。
 ましろは背筋を伸ばし、両拳を上に突き上げた。

「よしっ! あたしもお仕事しないと」

部屋を出て行こうとするましろに、雪月は問いかけた。

「あの、私も、食器を洗ってもいいですか?」

ましろは猫のように瞳孔を丸く開いて、雪月を見上げる。

「手伝ってくれるの?」

雪月が頷くと、満面の笑みで飛び跳ねた。

「わーい! ありがとう、ユヅキ」

 当然のことなのに、お礼を言われるなんて。
 ましろの笑顔が、胸に沁みる。雪月もつられて微笑んだ。

 ましろに手を引かれ、廊下に出る。
 昨夜よりも暗くて、足元がよく見えない。だが、ましろは平気で歩を進めていく。雪月は繋いだ手に、力を込めた。

 
 角をいくつも曲がり、どこをどう歩いたのか全く分からないまま、辿り着いた。
 ほの暗い台所に目を凝らすと、洗い場に食器が山積みにされているのが見えた。
 だが、竈や調理器具が使われている形跡は、まったくない。
 
「ユヅキ、これで洗うんだよ」

ましろが棚を開けて、木綿の布を指差す。他にも、米のとぎ汁や木灰、黄褐色の実が入った小壺がある。
 雪月は慣れた手つきで、黄褐色の実を包んだ布に、水をかけて揉んだ。
 徐々に泡立ち始める。覗き込んだましろの鼻に、泡がついた。
 ましろの指が触れた瞬間。

 パチン。

 弾けてしまった。

「なにこれ、おもしろーい!」

はしゃぐましろに、雪月の頬は自然と緩む。
 布についた泡に雪月が息を吹きかけると、シャボンの玉がいくつも生まれる。
 両手を上げて飛び跳ねるましろが、幼い頃の自分と重なる。

 時々、おつねがこっそり遊ばせてくれた。虹色の玉の中に、おつねの柔らかい笑みが浮かぶ。
 すぐに弾けて、消えてしまう。

 洗い終わった食器を拭きながら、ましろは目をキラキラさせた。

「すごい、どれもピカピカ! ユヅキ、人間なのに妖力使えるの?」
「妖力って、何ですか?」
「えっとね、こんなのだよ」

ましろが宙返りをすると、目の前に雪月とそっくりな人間が現れた。頭に生えている猫耳を除いて。

「あたしは、何にでも変身できるの」
「すごいです!」

拍手を送ると、ましろはえっへんと胸を逸らした。また宙返りをすると、幼い少女の姿に戻る。

「ゲンガの妖力は、物を出すことなんだけど、無からは生み出せないんだって。だから、材料が必要なの」
「食材とか、ですか?」

雪月が食材の収納箱を指差すと、ましろは頷いた。

「家具は木があればいいんだって。屋敷の物は、ほとんどゲンガが出してるんだよ」

雪月は部屋に置かれていた鏡台や箪笥を思い出し、両手を合わせて呟いた。

「あれも、玄雅さんが……」
「玄雅の妖力は便利だけど、夜叉様はもっともっとすごいんだよ。屋敷はぜーんぶ、夜叉様の妖力でできてるんだから!」
「全部、ですか?」

ましろは頷くと、両腕を大きく広げた。

「夜叉様の妖力は、とっても強いの! けど……」

薄暗い台所を見渡すましろの顔に、影が落ちる。

「ちょっと、妖力が弱っているみたい。屋敷の中も暗いし、私の部屋も狭くなってた」

ひんやりとした空気が肌を撫でる。
 指輪が異様に冷たい。三日月と牙の紋様が、揺らいだような気がした。


 食器の片付けを終えると、ましろは雪月を部屋まで送った。
 
「あたし、掃除してくるから、休んでてね」

ましろは呼び止める間もなく、すぐに廊下の向こうへ走っていった。

 室内には、また物が増えている。
 和箪笥が三棹。引き出しには、上質な着物や帯、小物が隙間なく収められている。
 呆気にとられ、そっと閉じた。

 小机の周りには、西洋風の置時計や、陶磁器の花瓶まで置かれている。触れたら壊してしまいそうだ。

 命を差し出したはずなのに、こんな待遇をされるなんて。

 ――そんなの、おかしい。
 まだ何の役にも立っていない。
 この部屋は、自分には相応しくない。

 廊下に出た瞬間、空気が重くまとわりつく。
 一瞬、息が詰まる。
 
「どこへ行く」

雪月の肩が跳ね上がる。
 夜叉王の冷淡な瞳に射抜かれ、雪月は視線を逸らした。
 雪月の背後に現れた玄雅が、声を荒げる。

「答えろ!」

雪月はびくつきながら、夜叉王に尋ねた。

「なぜ、このような高価な物を、用意してくださるのですか?」

玄雅が眉をひそめる。

「主様の命に、疑問を持つな」

夜叉王は玄雅の頭を掴んで背後に押しやると、顎に手を当て、雪月に顔を近づけた。

「喜ばないのか。やはり異質だ」
「受け取る理由が、私にはありません」

夜叉王は雪月の手を鷲掴みにする。指輪の紋様を、雪月に見せつけた。

「おまえは、俺の物だ。ただ、飼われていればいい」

夜叉王が口角を持ち上げると、鋭利な牙がちらりと光る。

「それが、私の役目なのですか?」

夜叉王が雪月の額を軽く指で押す。雪月は倒れ込みそうになるが、障子を掴んで堪えた。
 玄雅が雪月に、殺気立った視線を送る。

「おまえのせいで、供物を得られなかったばかりに、主様の妖力は」

夜叉王に頭を叩かれ、玄雅は口を閉じる。
 淡い行灯の明かりが、夜叉王の青白い顔を照らす。
 雪月は恐怖心を追いやり、夜叉王と向き合った。

「何もしないわけには、いきません」
「何故だ」

雪月は唇を噛みしめる。

「……命を捧げる覚悟で来ました。私を、食べてください」

夜叉王は呆れ顔で、首を左右に振る。

「供物でないものを、喰らうことはできない。鬼神といえど、理には逆らえぬ」
「理、ですか」
「ほどなく供物が手に入る。それまでは玄雅の出す飯で、事足りる」

夜叉王は重たい足取りで、その場を去る。玄雅は恨みがましい目で雪月を睨みながら、後をついていった。

 力が抜けた雪月は、その場にしゃがみ込んだ。

 役に立たないものは、いらない。
 何かしなければ、捨てられる。

 焦りが、喉の奥までせり上がる。顔を上げ、拳をぎゅっと握りしめた。
 
「食事作りなら、私にも……!」

行灯の火がふっと揺らぐ。廊下に暗い影が落ちる。
 壁を伝いながら、先を進む。指輪の冷たさが、指先にまで滲んできた。
 床板のきしむ音がやけに響く。

 何度も角を曲がるが、いつまで経っても辿り着かない。不安が押し寄せる。

 その時、陽気な鼻歌が聞こえた。足を止めて耳を澄ませる。
 角から、箒を持ったましろが現れた。

「ニャッ! ユ、ユヅキ?!」

飛び上がった拍子に、箒が落ちる。

「ましろさん、台所まで連れて行ってもらえませんか?」
「何で?」
「夜叉王様に、ご飯を作って差し上げたいんです」

ましろは、こてんと首を傾けながらも、手のひらを上に向けた。

「よくわかんないけど、あたしも雪月のご飯食べたい。いこう!」

小さな手を握る。
 柔らかな温もりに包まれる。
 もう床板の音は、気にならなかった。