冷徹鬼神の契約――契りを交わした少女は溺愛される

 無言のまま闇の中を進んでいく夜叉王の腕の中で、雪月は体を強ばらせてじっとしていた。遠くの方に、針の穴のように細い明かりが見え始めると、徐々に橙色のぼんやりとした明かりが広がっていった。眩しさで目を閉じた雪月が再び目を開けると、大門がそびえ立っていた。両脇には松明たかれている。闇の中で見た明かりはこれだったのだろう。頭上を見ると、暗青色の薄く息づくような空が広がっている。
 さっきまで深夜だったはずなのに。
 日没の時間帯の空を疑問に思っていると、門が勝手に開いた。夜叉王は雪月を地面に下ろすと、こちらを見向きもせず、一人で門を潜っていった。雪月は躊躇しながらも、どんどん先に進んでしまう夜叉王を追いかけるように門の中へ足を踏み入れた。玄関扉までには石畳の通路があり、その両脇には真っ赤な彼岸花が凛とした佇まいで静かに咲いている。石畳を裸足で踏むと、固い感触はあるが、不思議と冷たさは感じない。
 夜叉王が玄関扉に手をかける前に、扉が開かれた。夜叉王が入ってすぐ扉は閉まり始め、雪月は慌てて体を滑り込ませた。広々とした三和土には、上品で落ち着く白檀の香りが漂っている。鼻から吸い込むと、緊張が幾分和らいだ。

「夜叉様、お帰りなさいませ」

羽織袴姿の若い男が、上がり框に頭をつけて出迎えた。男は顔を上げると、片眉を上げて鼻をひくつかせた。眉を寄せて非難するような目つきを夜叉王に向けた。

「人臭い。なぜ供物をこちらに連れてきたのですか?」

夜叉王は雪月を自分の前に立たせると、右手人差し指にはめられている指輪を男に見せつけた。

「玄雅、よく見ろ。こいつは供物ではない。飼うことにした」
「はい? 供物を飼う、ということですか? 何を馬鹿な!」

夜叉王は玄雅の頭を軽くはたくと、上がり框を上がって、あくび混じりに命じた。

「こいつの部屋は、俺の寝室の隣だ。布団だけ出してやれ」

玄雅の呼び止める声を無視して、夜叉王は屋敷の奥に姿を消してしまった。呑み込んだ言葉を溜め息で吐き出すと、玄雅は紫紺色の瞳をすがめて、雪月の頭の先から爪先まで視線を移動させた。無言で眉間に皺を刻む。刺々しい雰囲気に耐えきれず、雪月が口を開こうとした時、玄雅が右手を凪払うように横に振った。すると、突如として水の入った桶と手拭いが雪月の足元に現れた。雪月が目を見開くと、玄雅がぶっきらぼうに顎で桶を指した。

「足を洗え。屋敷を汚すな」

雪月は礼を述べると急いで足を桶につけて泥を落とした。冷たすぎず熱すぎない温度で、あかぎれで荒れ放題の手をつけても染みなかった。
 手拭いで足を拭き終わると、桶と手拭いは瞬時になくなり、幻覚だったのかと思ってしまう。不思議そうに瞬きをしていると、玄雅はついてこいと足早に座敷の奥へ歩き始めた。見失わないよう小走りで、濃紺の羽織の後ろ姿を追いかけていった。

 廊下の両壁に等間隔に備え付けられた行灯の暖かい灯りの中を、何度も左右に曲がって奥へ奥へと進んでいく。ひとりでは玄関にたどり着ける気がしない。多少の疲労を感じ始めた時、玄雅はようやく障子が閉められた部屋の前で足を止めた。音もなく障子を開けると、ほの暗い部屋へ入っていく。廊下に立ちすくんでいる雪月に、顎で入るよう促した。

「失礼、します」

一歩踏み入れると、膝の高さの行灯に火が灯り、室内をぼんやりと明るくした。広々とした畳の部屋には、中央に敷いてある布団以外何もない。分厚い布団に触れると、両親や陽凪が使っていた布団のように触り心地がよく、綿が贅沢に敷き詰められているのが分かる。雪月は部屋を出ようとする玄雅に向かって頭を下げた。

「このような上等な布団、使えません」

玄雅は青筋を立てて口を開くが、一瞬隣室に目を向けて、口を閉じた。頭を畳につけて僅かに体を震わせている雪月の頭上に、静かな低い声が降ってきた。

「人間風情が、生意気な口を利くな」

行灯の火が大きく揺れ、冷気が室内を覆う。玄雅は雪月を一瞥し、眉間に皺を寄せたまま、声だけを冷たく投げつけた。

「夜叉様の命に従った我をこけにするのか」

雪月は背中に氷を落とされたかのような寒気に全身が震えた。

「め、滅相もございません。そのような意味ではなく……」
「夜叉様の命は絶対だ。従え」

ピシャリと障子を閉めて玄雅が去ると、雪月の震えはおさまり、行灯の火の揺れもおさまった。胸の中に溜まっていた冷たい息を吐き出し、おずおずと布団の中に潜り込む。まるで綿毛に包まれているかのように心地よく、暖かい。これまでの布団とも呼べない代物に比べると、天と地ほどの差がある。初めて知る布団の温もりのせいか、目の端にうっすらと涙が浮かぶ。頬を伝っていく前に、雪月の意識は薄れていった。

 あったかい。ふわふわしてて気持ちいい。
 顔の周りにある日だまりのような温もりを、夢見心地で抱き締めた。もふっとした毛のような質感と丁度良い体温。再び眠気が襲ってくる。だが、腕の中で何かがもぞもぞと動き出し、慌てて目を開けた。

「にゃあ~ん」

雪のように白い子猫が大口を開けて、雪月の胸の上で伸びをした。

「猫?」

雪月が飛び起きると、子猫は身軽に畳の上に降り立ち、雪月を見上げた。

「うーん、惜しい!」
「しゃ、しゃべった!?」

子猫はピンと立てた二股の尻尾を見せつけるように揺らめかした。

「見ててにゃん」

言うが早いか、子猫はその場でひらりと宙返りをしてみせた。すると、子猫が居た場所に、紫色の矢羽根柄の着物に赤色の袴を身に付けた少女が現れた。白髪の上半分を瞳の色と同じ黄色のリボンで結ってある。頭の上から生えている白い耳の先を小刻みに動かし、大きな丸い目を三日月型に細めた。

「あたし、猫又のましろ。あなた、特別な人間なんでしょ?」
「特別? 私が?」

雪月が首をかしげる。ましろは、雪月の右手にある指輪を指差した。

「夜叉様の紋様ついてる。あたしにもあるよ」

ましろは自分の金色の瞳を見開いて、顔をに近づけてきた。よく見ると、瞳の中に指輪と同じ紋様がある。

「眷属の証なの。夜叉様が人間を眷属にするなんて、初めて」

ましろは、瞳を輝かせて見つめてくる。雪月は冷たい感触の指輪に触れた。昨夜の夜叉王の声が蘇ってくる。
 
『もうあざは意味を成さない。今からはこの指輪が、俺の所有物だという証だ』

雪月は右半分の前髪を撫で付け、手のひらで押さえつけた。首をかしげるましろに、雪月は小さく呟いた。

「あざ、見えてたら、ごめんなさい」

ましろは柔らかい手で雪月の右手を包んで下におろし、前髪をさっと持ち上げた。

「あ、だめ! あざが……」
「んー? あざなんてどこにもないよ」
「えっ? そんなはずない、です」

ましろは、前髪を下ろす雪月の手を引いて、壁際にある鏡台の前に連れていった。眠りにつくまではがらんてしていた室内に、いつの間にか箪笥や小机などと一緒に置かれている。ましろは鏡にかけられている布をはずし、座布団の上に雪月を座らせた。ましろがそっと雪月の前髪を上げる。
 顔を背けたいが、ましろに頭を固定され、否応なしに鏡に映る自分を見せつけられた。

「ほら、きれいな顔だよ」

本当に、あざが消えてる。
 雪月は目を見開き、何もない右半分の顔を凝視した。指輪が存在感を示すように、きゅっと指を締め付けてきたような気がした。指輪に触れてみるが、特に変わったところはない。
 雪月が指輪に気を取られている間に、ましろが前髪を三つ編みにし、器用に後ろ髪と束ねて結い上げた。鏡に映る顔が陽凪と重なる。これほどまでに似ていたのかと唖然とする雪月の顔を、ましろが覗き込んできた。

「ねえ、名前は?」
「雪月、です」
「ユヅキ。素敵な名前だね」

そんなこと思ったことも、言われたこともなかった。おつねから聞いた話しによると、雪の降る月夜に生まれたことが由来らしい。一方で姉の名は、陽のように温かく、静かで穏やかな女性になってもらいたいという両親の希望が込められている。陽凪は誕生日になると、毎回自慢気にその話をしてきた。そして、決まってこう言うのだ。

『最初からいらない子だったあんたに、名前なんか必要ないわ。忌み子で十分よ』

嘲笑う陽凪に、何も言い返せなかった。その通りだと思っていたから。だから、自分の名前は好きじゃない。素敵だなんて、思えるわけがない。

「ユヅキ、お腹空いたでしょ。ご飯食べよ」

ましろが小さな手で雪月の右手を掴み、障子の方に引っ張った。雪月かま座布団から立ち上がると、そのまま手を引いて廊下に出た。
 また何度も左右に曲がるのかと思いきや、突き当たりの角を右に曲がってすぐの障子の前で、ましろは足を止めた。

「みんな、ここでご飯食べるんだよ」

みんなという言葉に引っかかるが、尋ねる前にましろは勢いよく障子を開けた。

「おっはよー」 

何かが物凄い速さで部屋の隅に移動していった。ましろは気にせず、箸と茶碗を持って眉を寄せている玄雅に向かって片手を上げた。

「ゲンガ、あたしとユヅキのご飯出して」
「なぜ我が、人間の分まで」
「あたし、夜叉様からユヅキのこと頼まれたの」

両手を腰に当てて、胸をそらしたましろに、玄雅は片眉をピクッと動かして箸と茶碗を下ろした。

「夜叉様が、人間に食事を与えろと仰ったのか?」
「あたしに任せるって言ったの」
「答えになっていない」

玄雅の眉間の皺が深くなる。ましろは頬を膨らませて、指を突きつけた。

「夜叉様から命じられたあたしが、言ってるの! 早く、ご飯出して!」
「ならば、おまえが用意するべきだろ」
「あたし、できないもん」

堂々と胸を張って言うましろを、玄雅は呆れた顔で見た。
 おろおろしながら2人を交互に見ていた雪月の腕をましろが取って、玄雅の前に突き出した。

「見て! こんなにガリガリに痩せちゃって。このまま何も食べないでいたら、消えちゃう!」

雪月は恥ずかしさで、顔を真っ赤にして俯いた。ましろは、雪月の後ろから顔を出して、じとっとした目を玄雅に向けた。

「ユヅキが消えちゃったら、ゲンガのせいだって言いつけてやる」

玄雅は言葉を詰まらせ、溜め息交じりにさっと右手を2回振った。長机の上に2人分の食事が現れた。白米と味噌汁から湯気が立っている。焼き魚と香の物もついていて、雪月にとってはご馳走だ。思わず唾を呑み込んだ。

「ゲンガ、ありがとう。最初から素直に出してよ」
「おまえのだけ消すぞ」

片方の食事に右手をかざそうとする玄雅から食事を守るように、ましろが慌てて覆い被さった。

「やめて~。あたしも食べたい!」

玄雅は鼻を鳴らして、ましろから目を逸らすと、向かいの空席を見てしかめっ面をした。食べかけの食事の前に箸が放り出されている。

「おい。いい加減出てこい、影丸」

短い悲鳴が机の下から聞こえ、ましろと一緒に雪月も覗きこんだ。机の足元に、豆粒程の大きさの、人のような姿をした何かがしがみついている。

「カゲマル、おいで。ユヅキは怖くないよ」

ましろが手を伸ばすと、影丸はおずおず手の中に入り込んだ。ゆっくり机の下から手を出して、ましろが畳の上に影丸を下ろした。雪月が覗き込むと、徐々に影丸が大きくなっていった。天を見上げるほど大きくなり、危うく天井に頭をぶつけそうになる。影丸が頭を押さえて俯いた拍子に少しずつ縮んでいった。雪月より頭ひとつ分高いところでようやく止まる。雪月が影丸を目を丸くして見つめていると、ましろの後ろに隠れてしまった。

「大丈夫だって。ユヅキは仲間だよ。夜叉様の紋様を持ってるんだから」

恐る恐る顔を出して、影丸は雪月を見上げた。切れ長の三白眼だけ見ると鬼のような恐ろしさがあるが、八の字に下げた眉と目尻に浮かんでいる涙が真逆の印象を与える。

「人間、なのに?」

雪月はこれ以上恐がらせないよう気を付けながら、指輪の紋様が見えるよう、そっと右手の人差し指を影丸に見せた。影丸はましろの背後から出てきて、指輪をじっと見つめた。

「……本当だ」

影丸は目を見開いて、指輪と雪月を交互に見た。

「おまえら、早く食え。片づけられないだろ」

ひとり黙々と食べ進めていた玄雅の鋭い声に、肩をびくつかせ、影丸はいそいそと席に戻って箸を取った。ましろは隣の席に雪月を座らせ、口いっぱいに魚を頬張った。
 雪月は手を合わせ、艶やかな白米を口に運んだ。噛めば噛むほど甘味が増していく。程よく脂ののった焼き魚は、柔らかく、口の中に旨味が広がる。野菜がたっぷり入った味噌汁は、丁寧に出汁を取ったのが分かる繊細な味わいがする。

「おい、しい」

胸が熱くなる。唇が震えてうまく噛めない。

「ユヅキ、どうしたの? どこか痛い?」

心配そうに尋ねるましろが、雪月の頬を伝う涙を優しく拭った。雪月は首を横に振って、震える口許に笑みを浮かべた。

「おいしくて、胸がいっぱいになったんです」
「お腹じゃなくて胸がいっぱいになるの? 変なの」

ましろは首をかしげて、ふふっと笑うと、魚を骨ごとバリバリ噛み砕いた。