深淵の闇の中。
夜叉王の足音だけが、響く。
奥に、橙色の光がちらつく。
じわりと広がり、雪月は眩しさに目を細めた。
薄明の空の下、目の前には巨大な門がそびえたつ。
扉は音もなく、ひとりでに開いた。
夜叉王は雪月を地面に下ろすと、振り向きもせず門をくぐる。
雪月は戸惑いながらも、足を踏み入れた。
道の両脇に咲く、真っ赤な彼岸花が揺れ動く。
裸足で石畳の上を歩く。固い感触はあるが、冷たさは感じない。
夜叉王が玄関に入ってすぐ、扉が閉まり始める。雪月は慌てて、体を滑り込ませた。
広々とした三和土に、上品な白檀の香りが、ふわりと漂う。雪月の張り詰めていた肩から、力が抜ける。
「主様、お帰りなさいませ」
羽織袴姿の若い男が、上がり框に頭をつけていた。顔を上げると、片眉をつり上げ、鼻をひくつかせる。
「なぜ、供物をこちらに連れてきたのですか?」
夜叉王は雪月を前に立たせ、指輪を見せつけた。
「玄雅、よく見ろ。こいつは供物ではない。飼うことにした」
「はい? まさか本気では……」
夜叉王が玄雅の頭を軽くはたく。
「こいつの部屋は、俺の寝室の隣だ。布団だけ出してやれ」
「お待ちください!」
呼び止める声を無視して、夜叉王は屋敷の奥へ消えた。
玄雅は眉間に皺を刻み、刺々しい口調で雪月を咎めた。
「足を洗え。屋敷を汚すな」
玄雅が手を払うと、水の入った桶と手拭いが現れた。促され、雪月はそそくさと足を浸す。
拭き終えると、桶も手拭いも消えた。幻覚のような光景に、めまいがしそうだ。
「ついてこい」
立ちすくんでいる雪月を横目に、玄雅は廊下を進む。雪月は慌てて、等間隔に並ぶ行灯の明かりを頼りについていった。
何度も左右に曲がり、ようやくたどり着いた部屋の前で、玄雅は足を止める。
膝丈の行灯が、広い室内を淡く照らし出す。
布団以外何もない。触れてみると、深く沈み込み、雪月は唖然とした。
「このような上等な布団、使えません」
玄雅が顔を歪ませ、拳をきつく握り込む。行灯の火が大きく揺れ、危うく消えかける。
「人間ごときが、口答えするな。主様の命に従った我を、こけにするのか」
ぞくりと背筋が凍り、雪月は身をすくませた。
「も、申し訳ございません」
「主様の命は絶対だ。従え」
ピシャリと障子が閉まる。
雪月は、胸の中に溜まっていた重苦しい息を吐き出し、布団の中に潜り込む。
綿毛に包まれているかのように心地よく、暖かい。初めて知る布団の温もりに、うっすらと涙が浮かぶ。
頬を伝っていく間に、意識は薄れていった。
――あったかい。ふわふわで、気持ちいい。
もふっとした感触に、ほどよい体温。夢見心地のまま抱き締めていると、腕の中でもぞりと動いた。
「にゃあ~ん」
真っ白な子猫が大欠伸をする。
「……猫?」
子猫は畳へ降り立ち、ひらりと宙返りをした。
次の瞬間、雪月より幼い少女が現れる。
頭の上の耳が、ピクピク動く。くりくりとした丸い瞳を輝かせ、無邪気な笑みをぱっと咲かせた。
「惜しい! あたし、猫又のましろ。あなた、特別な人間なんでしょ?」
指輪をつんと指すましろに、雪月は小首を傾げる。
「夜叉様の紋様ついてる。あたしにもあるよ」
金色の瞳の中に見えるのは、確かに同じ紋様だ。
「眷属になった人間、初めて見た!」
興味津々、あらゆる角度から覗き込まれる。
圧が凄い。
けれど、小刻みな動きが猫そのもので、愛らしい。
雪月は微笑み、指輪の紋様に触れてみる。
ひんやりとした寒気に、笑みを失う。
「髪の毛、結ってあげる」
いきなり前髪を持ち上げられ、雪月は咄嗟に右目を隠した。
「や、やめてください。あざが、見えてしまいます」
「んー? ないよ。鏡で見てみなよ」
「鏡?」
眠りにつく前は、なかったはずなのに、壁際には鏡台がある。箪笥や小机まで増えている。
鏡台の前に座ると、ましろが雪月の前髪をかきわけた。
「ほら、きれいな顔だよ」
――あざが、ない。
何度瞬きしても、醜い影はなかった。
呆然としている間に、ましろが髪を結い上げていく。
「ねえ、名前は?」
「雪月、です」
「ユヅキ。素敵な名前だね」
そんなこと、思ったことも、言われたこともない。
雪の降る月夜に生まれたことが由来だと、おつねから聞いたことがある。
姉は、陽のように温かく、穏やかに育てと名付けられた。
陽凪は誕生日になると、毎回自慢気にその話をしてきた。そして、決まってこう言うのだ。
『最初からいらない子だったあんたに、名前なんか必要ないわ。忌み子で十分よ』
自分の名前は好きじゃない。
なのに、胸が痛いほど熱い。
「ユヅキ、お腹空いたでしょ。ご飯食べよ」
強引に繋がれた手が、小さくて温かい。
ひとつめの角を曲がる。すぐ傍の部屋の障子を、勢いよく開けた。
バシーン!
障子が壁に当たる音が響く。何かが物凄い速さで、部屋の隅に移動していった。
「おっはよー!」
ましろは気にせず、大きな声を出すと、しかめっ面の玄雅に片手を上げた。
「ゲンガ、あたしとユヅキのご飯出して」
「なぜ我が、人間の分まで」
「あたし、夜叉様からユヅキのこと頼まれたの」
両手を腰に当てて、ましろは胸をそらした。玄雅の眉がぴくりと動く。
「主様が、人間に食事を与えろと仰ったのか?」
「あたしに任せるって言ったの」
「答えになっていない」
玄雅が眉間に、深い皺を刻む。ましろは頬を膨らませて、指を突きつけた。
「夜叉様から、命じられたあたしが、言ってるの! 早く、ご飯出してよ」
「ならば、おまえが用意するべきだろ」
「あたし、できないもん」
ましろは雪月の袖をまくり、細い腕を玄雅に見せつけた。
「見て! 枝みたいでしょ。何も食べないでいたら、消えちゃうよ!」
雪月は恥ずかしさで、顔を真っ赤にして俯く。
ましろは半目で唇をとがらせ、じとっと玄雅を睨みつけた。
「ユヅキが消えちゃったら、ゲンガのせいだって言いつけてやる」
玄雅は言葉を詰まらせる。溜め息交じりに手を二回振った。
すると、長机の上に2人分の食事が現れた。
白米と味噌汁から湯気が立つ。焼き魚と香の物もついていて、雪月にとってはご馳走だ。
「ゲンガ、ありがとう。最初から素直に出してよ」
「おまえのだけ消すぞ」
ましろが食事を守るように覆い被さる。
「やめて~。あたしも食べたい!」
玄雅は鼻を鳴らすと、向かいの空席に視線を移した。食べかけの食事の前に、箸が放り出されている。
「いい加減出てこい、影丸」
短い悲鳴が机の下から聞こえ、ましろと一緒に雪月も覗きこむ。机の足元に、豆粒程の小さな人がしがみついている。
「カゲマル、おいで。ユヅキは怖くないよ」
ましろが手を伸ばすと、影丸はおずおず手の中に入り込んだ。畳の上におりると、徐々に体が大きくなる。
ゴチン。
天井にぶつかった頭を押さえて、少しずつ縮む。雪月より頭ひとつ分高いところでようやく止まった。
雪月と目が合うと、ましろの後ろに隠れて顔を覆う。筋肉質の太い手足は、ほとんど丸見えだ。
「大丈夫だって。ユヅキは仲間だよ。夜叉様の紋様を持ってるんだから」
指の隙間から、雪月にちらりと視線を向ける。
切れ長の三白眼が、鬼のように恐ろしい。だが、八の字に下げた眉と、目尻に浮かんでいる涙が、真逆の印象を与える。
「人間、なのに?」
雪月が指輪を見せると、影丸は口をあんぐり開いた。
「おまえら、早く食え。片づけられない」
玄雅の鋭い声に肩をびくつかせ、影丸は箸を取った。ましろは隣の席に雪月を座らせ、口いっぱいに魚を頬張る。
本当に、食べてもいいのだろうか。
ごくりと唾を呑み込む。食事を見つめているだけの雪月に、ましろがこてんと首を傾ける。
「食べないの? おいしいよ」
「……いいんでしょうか?」
「食わないなら消すぞ」
いらいらした口調の玄雅が、右手を上げる。
「だめ! ユヅキ、早く食べないと、消されちゃうよ」
ましろが玄雅の手を払いのけ、雪月に箸を持たせた。
「いただきますっ」
雪月はさっと手を合わせ、艶やかな白米を口に運んだ。
噛めば噛むほど甘味が増していく。
「おい、しい」
喉の奥が、きゅっと詰まる。
誕生日に必ず、おつねが作ってくれた白米のおにぎりを思い出す。
お守りがじんわり熱を帯びる。
「ユヅキ、どうしたの? どこか痛い?」
ましろが心配そうな顔で、雪月の頬を伝う涙を拭った。
雪月は、震える口許に笑みを浮かべた。
「おいしくて、胸がいっぱいになったんです」
「お腹じゃなくて、胸がいっぱいになるの? 変なの」
ましろは笑いながら、魚を骨ごとバリバリ噛み砕いた。
部屋の外で、夜叉王は足を止めた。
険を含んだ目元がわずかに緩む。
そのまま踵を返した。
夜叉王の足音だけが、響く。
奥に、橙色の光がちらつく。
じわりと広がり、雪月は眩しさに目を細めた。
薄明の空の下、目の前には巨大な門がそびえたつ。
扉は音もなく、ひとりでに開いた。
夜叉王は雪月を地面に下ろすと、振り向きもせず門をくぐる。
雪月は戸惑いながらも、足を踏み入れた。
道の両脇に咲く、真っ赤な彼岸花が揺れ動く。
裸足で石畳の上を歩く。固い感触はあるが、冷たさは感じない。
夜叉王が玄関に入ってすぐ、扉が閉まり始める。雪月は慌てて、体を滑り込ませた。
広々とした三和土に、上品な白檀の香りが、ふわりと漂う。雪月の張り詰めていた肩から、力が抜ける。
「主様、お帰りなさいませ」
羽織袴姿の若い男が、上がり框に頭をつけていた。顔を上げると、片眉をつり上げ、鼻をひくつかせる。
「なぜ、供物をこちらに連れてきたのですか?」
夜叉王は雪月を前に立たせ、指輪を見せつけた。
「玄雅、よく見ろ。こいつは供物ではない。飼うことにした」
「はい? まさか本気では……」
夜叉王が玄雅の頭を軽くはたく。
「こいつの部屋は、俺の寝室の隣だ。布団だけ出してやれ」
「お待ちください!」
呼び止める声を無視して、夜叉王は屋敷の奥へ消えた。
玄雅は眉間に皺を刻み、刺々しい口調で雪月を咎めた。
「足を洗え。屋敷を汚すな」
玄雅が手を払うと、水の入った桶と手拭いが現れた。促され、雪月はそそくさと足を浸す。
拭き終えると、桶も手拭いも消えた。幻覚のような光景に、めまいがしそうだ。
「ついてこい」
立ちすくんでいる雪月を横目に、玄雅は廊下を進む。雪月は慌てて、等間隔に並ぶ行灯の明かりを頼りについていった。
何度も左右に曲がり、ようやくたどり着いた部屋の前で、玄雅は足を止める。
膝丈の行灯が、広い室内を淡く照らし出す。
布団以外何もない。触れてみると、深く沈み込み、雪月は唖然とした。
「このような上等な布団、使えません」
玄雅が顔を歪ませ、拳をきつく握り込む。行灯の火が大きく揺れ、危うく消えかける。
「人間ごときが、口答えするな。主様の命に従った我を、こけにするのか」
ぞくりと背筋が凍り、雪月は身をすくませた。
「も、申し訳ございません」
「主様の命は絶対だ。従え」
ピシャリと障子が閉まる。
雪月は、胸の中に溜まっていた重苦しい息を吐き出し、布団の中に潜り込む。
綿毛に包まれているかのように心地よく、暖かい。初めて知る布団の温もりに、うっすらと涙が浮かぶ。
頬を伝っていく間に、意識は薄れていった。
――あったかい。ふわふわで、気持ちいい。
もふっとした感触に、ほどよい体温。夢見心地のまま抱き締めていると、腕の中でもぞりと動いた。
「にゃあ~ん」
真っ白な子猫が大欠伸をする。
「……猫?」
子猫は畳へ降り立ち、ひらりと宙返りをした。
次の瞬間、雪月より幼い少女が現れる。
頭の上の耳が、ピクピク動く。くりくりとした丸い瞳を輝かせ、無邪気な笑みをぱっと咲かせた。
「惜しい! あたし、猫又のましろ。あなた、特別な人間なんでしょ?」
指輪をつんと指すましろに、雪月は小首を傾げる。
「夜叉様の紋様ついてる。あたしにもあるよ」
金色の瞳の中に見えるのは、確かに同じ紋様だ。
「眷属になった人間、初めて見た!」
興味津々、あらゆる角度から覗き込まれる。
圧が凄い。
けれど、小刻みな動きが猫そのもので、愛らしい。
雪月は微笑み、指輪の紋様に触れてみる。
ひんやりとした寒気に、笑みを失う。
「髪の毛、結ってあげる」
いきなり前髪を持ち上げられ、雪月は咄嗟に右目を隠した。
「や、やめてください。あざが、見えてしまいます」
「んー? ないよ。鏡で見てみなよ」
「鏡?」
眠りにつく前は、なかったはずなのに、壁際には鏡台がある。箪笥や小机まで増えている。
鏡台の前に座ると、ましろが雪月の前髪をかきわけた。
「ほら、きれいな顔だよ」
――あざが、ない。
何度瞬きしても、醜い影はなかった。
呆然としている間に、ましろが髪を結い上げていく。
「ねえ、名前は?」
「雪月、です」
「ユヅキ。素敵な名前だね」
そんなこと、思ったことも、言われたこともない。
雪の降る月夜に生まれたことが由来だと、おつねから聞いたことがある。
姉は、陽のように温かく、穏やかに育てと名付けられた。
陽凪は誕生日になると、毎回自慢気にその話をしてきた。そして、決まってこう言うのだ。
『最初からいらない子だったあんたに、名前なんか必要ないわ。忌み子で十分よ』
自分の名前は好きじゃない。
なのに、胸が痛いほど熱い。
「ユヅキ、お腹空いたでしょ。ご飯食べよ」
強引に繋がれた手が、小さくて温かい。
ひとつめの角を曲がる。すぐ傍の部屋の障子を、勢いよく開けた。
バシーン!
障子が壁に当たる音が響く。何かが物凄い速さで、部屋の隅に移動していった。
「おっはよー!」
ましろは気にせず、大きな声を出すと、しかめっ面の玄雅に片手を上げた。
「ゲンガ、あたしとユヅキのご飯出して」
「なぜ我が、人間の分まで」
「あたし、夜叉様からユヅキのこと頼まれたの」
両手を腰に当てて、ましろは胸をそらした。玄雅の眉がぴくりと動く。
「主様が、人間に食事を与えろと仰ったのか?」
「あたしに任せるって言ったの」
「答えになっていない」
玄雅が眉間に、深い皺を刻む。ましろは頬を膨らませて、指を突きつけた。
「夜叉様から、命じられたあたしが、言ってるの! 早く、ご飯出してよ」
「ならば、おまえが用意するべきだろ」
「あたし、できないもん」
ましろは雪月の袖をまくり、細い腕を玄雅に見せつけた。
「見て! 枝みたいでしょ。何も食べないでいたら、消えちゃうよ!」
雪月は恥ずかしさで、顔を真っ赤にして俯く。
ましろは半目で唇をとがらせ、じとっと玄雅を睨みつけた。
「ユヅキが消えちゃったら、ゲンガのせいだって言いつけてやる」
玄雅は言葉を詰まらせる。溜め息交じりに手を二回振った。
すると、長机の上に2人分の食事が現れた。
白米と味噌汁から湯気が立つ。焼き魚と香の物もついていて、雪月にとってはご馳走だ。
「ゲンガ、ありがとう。最初から素直に出してよ」
「おまえのだけ消すぞ」
ましろが食事を守るように覆い被さる。
「やめて~。あたしも食べたい!」
玄雅は鼻を鳴らすと、向かいの空席に視線を移した。食べかけの食事の前に、箸が放り出されている。
「いい加減出てこい、影丸」
短い悲鳴が机の下から聞こえ、ましろと一緒に雪月も覗きこむ。机の足元に、豆粒程の小さな人がしがみついている。
「カゲマル、おいで。ユヅキは怖くないよ」
ましろが手を伸ばすと、影丸はおずおず手の中に入り込んだ。畳の上におりると、徐々に体が大きくなる。
ゴチン。
天井にぶつかった頭を押さえて、少しずつ縮む。雪月より頭ひとつ分高いところでようやく止まった。
雪月と目が合うと、ましろの後ろに隠れて顔を覆う。筋肉質の太い手足は、ほとんど丸見えだ。
「大丈夫だって。ユヅキは仲間だよ。夜叉様の紋様を持ってるんだから」
指の隙間から、雪月にちらりと視線を向ける。
切れ長の三白眼が、鬼のように恐ろしい。だが、八の字に下げた眉と、目尻に浮かんでいる涙が、真逆の印象を与える。
「人間、なのに?」
雪月が指輪を見せると、影丸は口をあんぐり開いた。
「おまえら、早く食え。片づけられない」
玄雅の鋭い声に肩をびくつかせ、影丸は箸を取った。ましろは隣の席に雪月を座らせ、口いっぱいに魚を頬張る。
本当に、食べてもいいのだろうか。
ごくりと唾を呑み込む。食事を見つめているだけの雪月に、ましろがこてんと首を傾ける。
「食べないの? おいしいよ」
「……いいんでしょうか?」
「食わないなら消すぞ」
いらいらした口調の玄雅が、右手を上げる。
「だめ! ユヅキ、早く食べないと、消されちゃうよ」
ましろが玄雅の手を払いのけ、雪月に箸を持たせた。
「いただきますっ」
雪月はさっと手を合わせ、艶やかな白米を口に運んだ。
噛めば噛むほど甘味が増していく。
「おい、しい」
喉の奥が、きゅっと詰まる。
誕生日に必ず、おつねが作ってくれた白米のおにぎりを思い出す。
お守りがじんわり熱を帯びる。
「ユヅキ、どうしたの? どこか痛い?」
ましろが心配そうな顔で、雪月の頬を伝う涙を拭った。
雪月は、震える口許に笑みを浮かべた。
「おいしくて、胸がいっぱいになったんです」
「お腹じゃなくて、胸がいっぱいになるの? 変なの」
ましろは笑いながら、魚を骨ごとバリバリ噛み砕いた。
部屋の外で、夜叉王は足を止めた。
険を含んだ目元がわずかに緩む。
そのまま踵を返した。

