孤高の冷徹鬼神は、忌み子を決して手放さない

 赤ぎれだらけの指をすり合わせ、雪月は井戸の水を汲み上げる。
 北風が吹き抜け、前髪があおられる。
 右目のあざが、露わになる。
 洗濯物を抱えた使用人たちが、すれ違いざま、気味悪そうに顔をしかめた。

 雪月は水を桶に移し替え、前髪を撫でつけた。
 庭に出て来た双子の姉の陽凪が、雪月と同じ顔を歪め、近づいてくる。
 頭を下げる雪月に、陽凪の刺々しい言葉が突き刺さる。

「今夜の宴会には、絶対に顔見せないでよ。一人娘ってことになってるんだから」
「はい」
「早くご飯作って」

雪月は桶を持ち上げ、一歩踏み出す。その瞬間、陽凪が足を引っかけ、桶ごと転倒した。
 こぼれた冷水に倒れ込み、吸い込んだ着物が肌に張り付く。震えながら立ち上がる雪月を、陽凪は嘲笑った。

「醜い」

雪月は歯を鳴らし、真っ赤な指先で桶を掴む。
 陽凪は冷ややかに雪月を見下ろした。

「そうそう。お父様が言ってたわ。あんたの顔見るのも、今日が最後だって」

頭を殴られたかのような衝撃が走る。手に力が入らず、桶を取り落とした。

「どういう、ことですか?」

陽凪の赤い唇が、嗜虐的に歪む。

「捨てられるんじゃない?」

雪月の顔から血の気が引いていく。
 母に呼ばれた陽凪は、機嫌良く返事をして、室内に入っていった。

 雪月は胸元のお守りを、冷え切った両手で包み込む。
 乳母のおつねからもらった、大切な宝物だ。娘同然に可愛がってくれたおつねは、昨年病で亡くなった。
 おつねが命を懸けて縫ってくれたお守りは、雪月を守る唯一の温もりだった。
 強い北風が吹き込み、雪月はくしゃみをひとつした。

 夕刻、陽凪の誕生日と婚姻の前祝いの祝宴が開かれた。酒気混じりの陽気な客たちの声が、屋敷中に響き渡る。それを遠くに聞きながら、雪月はひとり、灯りの届かない庭に出た。
 
 夜空を見上げる。今夜は新月。星の瞬きすら黒雲にぼやけて見える。

「誕生日、終わってしまうわ」

毎年祝ってくれたのは、おつねだけ。今年は誰もいない。

 家族のために必死に働いても、罵倒され、輪から爪弾きにされてきた。
 私は、捨てられるためにここにいたのだろうか。
 胸の奥が、徐々に冷えていく。雪月はお守りを胸に当て、祈るように目を閉じた。


 宴会の後片付けを終えると、屋敷内の灯りは全て落とされ、静寂が訪れた。

 丑三つ時、雪月は悪寒に目を覚ました。右目のあざが凍りつくように痛む。
 あざを押さえて縁側へ向かうと、両親と陽凪が怯えるように、庭を凝視していた。

 深い闇に、粉雪が舞い落ちる。結晶の白さが暗黒に映え、きらめく。
 その中に、深い黒一色の着物に身を包んだ、長身の男が立っている。
 いや、浮いている。地面に足がついていない。
 肩にかけている茜色の羽織は、風が吹いても裾一つ揺らがない。

「や、夜叉王……!」

父が名を呼ぶ。異形の男が、焔色の瞳を向ける。
 母と陽凪は悲鳴を上げ、雪月は息を呑んだ。

「覚えていたか」

重低音が闇を震わせ、口元からわずかに牙が覗く。

「約束の時だ。娘を差し出せ」

慌てる父に腕を掴まれた雪月は、無理矢理夜叉王の前に突き出された。
 氷のように冷たい眼差しに射抜かれる。右目の周りが疼き、体が動かなくなる。
 風が前髪をかきあげ、隠していたあざがさらされた。

「違う。こいつは対価にならない。そっちの娘だ」

夜叉王が陽凪の方を指差すと、雪月の体は軽くなり、自由になった。

「何故だ! 条件は娘を差し出すことだったではないか。こいつも娘で間違いない」

父が必死の形相で叫ぶ。母は陽凪を強く抱きとめた。

 夜叉王が指を鳴らす。宙に巻物が現れ、ひとりでに開いた。一番下に、父の名前が赤黒い文字で記されている。

「供物となる娘は、契約者が一番大切に育てた者でなければいけない。明記してある」

母と陽凪は、膝から崩れ落ちる。夜叉王を見つめる父は、震える指で雪月を差した。

「あいつも、大切に育ててきた」
「嘘をつくな」
「嘘ではなっ……!」

口が縫い留められたように、固く閉じて開かなくなる。夜叉王は、人差し指の長く鋭い爪を、父の目の前に突き出した。

「あざは供物の証。大切に育てれば消える。――書いてあったな」

父は冷や汗を流し、母と共に泣き崩れている陽凪に目を向けた。

「陽凪には、あざなどなかった」
「……生まれた時、ここに薄いあざがありました」

母は涙を拭い、陽凪の首元に手を添えた。

「何故、黙っていた!」
「すぐに消えたんです。あの忌み子のような、醜いあざなんかじゃありませんでした」

夜叉王が宙を滑るように、一歩、陽凪のもとへ近づく。陽凪は泣き叫び、幼子のように母にしがみついた。

「お母様っ! 助けて!」
「大丈夫よ、陽凪。お母様が守るわ。忌み子はあなたじゃないもの。醜いあの子の方よ」

母が、憎しみのこもった眼差しで雪月を睨み付ける。

 醜いあざは、忌み子の証のはずだった。
 けれど、夜叉王が求めているのは自分ではない。
 それなら――私は何?

「契約を違える気か。制裁として、契約者の命を奪う」

巻物に記されている父の名前が歪み、血が滴るように文字が溶けていく。

「や、やめろ! 契約を守らないとは、言っていなっ……!」

夜叉王は片手で軽々と父を持ち上げ、首を絞めつける。もう一方の腕を陽凪に向けると、糸で引かれるように夜叉王の元へ吸い寄せられた。

 雪月は胸元のお守りに手を添え、唇を噛みしめる。
 夜叉王の前に踏み出し、両手を広げた。
 
「待ってください!」

蔑むような視線に射抜かれ、右目の周りが突き刺すように痛む。心臓が暴れ、逃げろと警告する。それでも、雪月は足を踏みしめ、背筋を伸ばした。

「私の命を、捧げます。お父様とお姉様を放してください。お願いします」

深々と頭を下げる雪月を、夜叉王は嘲笑った。

「情を受けなかったおまえが、情を差し出すか。滑稽だ」

父の首を絞める腕に、力がこもる。父と陽凪の意識が遠のく。
 雪月は必死に夜叉王にしがみつき、懇願した。

「お父様とお姉様をこれ以上、苦しめないでください! お願いします」

夜叉王の手が緩み、父と陽凪は地面に落ちた。

「契約の対価にもならないおまえに、何ができる?」

私にできること――。
 
 雪月は覚悟を決めて声を張り上げた。

「命を捧げます! ですからどうか、お父様とお姉様の命を、助けてください!」

夜叉王の首がほんの少し傾く。

「何故、おまえがこいつらのためにそこまでする?」

雪月は、小さくも凛とした口調で答えた。

「……家族、だからです」

眉を寄せた夜叉王は、斜に構えて冷ややかに言い捨てた。

「人間の情など、無価値」

一歩、距離を詰めてくる。 
 あざの痛みが強くなる。雪月は怯えながらも、ひるまずに夜叉王を見つめ続けた。
 雪月の透き通る眼差しに、夜叉王の纏う闇が揺れ動く。

「だが、代償を計算しない者は、久々だ。理に背く者、か」

夜叉王の口角が緩やかに上がった。

「……気に入った。人間を飼うのも、悪くない」

雪月の顔に夜叉王の指が、突きつけられる。風が巻き起こり、前髪がはらりと持ち上がった。
 夜叉王は、手のひらであざに触れると、指を折り畳むように動かした。

「手を出せ」

雪月は、おずおずと右手を差し出す。薬指に、銀色の指輪が現れた。
 表面に、三日月を挟むように左右から角のような形をした紋様が、彫られている。

「眷属の証だ」

右目の痛みと凍てつく冷たさが消えていく。代わりに、はめられた指輪が、冷たく重い。

「おまえの願い通り、こいつらの命は取らぬ。契約は破棄、願いは焼却する」

夜叉王が指を鳴らす。巻物が燃え、灰となって消え去った。途端に、屋根と庭が炎に包まれる。母が悲鳴を上げた。
 
 雪月の体が浮き上がり、夜叉王の腕の中におさまる。
 目を白黒させていると、宙に、闇より深い穴がぽっかりと開く。その中に進もうとする夜叉王に、雪月は慌てて問いかけた。

「あ、あの、お父様たちは、大丈夫なのですか?」
「知らん」
「命は取らないと……」

炎をも凍りつかせる冷徹な夜叉王の眼差しに射抜かれ、雪月は口を閉じた。

「契約書の願いを焼く炎だ。焼け死んでも、俺のせいではない」

夜叉王は言い終わらないうちに、穴に入り込む。雪月が振り向くとすぐに、穴は閉ざされた。

 
 暗闇の中、夜叉王を包む蒼い光がぼんやりと浮き上がる。

「どこに、行くのですか?」

硬い表情で雪月が問いかけると、夜叉王は無愛想に答えた。

「俺の屋敷だ」

指輪が、静かに食い込む。

 雪月は小さく息を吸い、お守りを握りしめた。
 体が強張る。

 ――もう、戻れない。

 瞬きもせず、どこまでも続く闇を見据えた。