霜がおりた庭を、底が薄い草履で踏みしめる。くしゃっという音と共に足先に冷たさが伝わってきた。雪月は身を縮め、一日の始まりを告げる朝日を見上げながら、はあと息を吐きだした。湯気のように出てきた白い息が、北風に消されてしまった。右半分だけ長く伸ばしている前髪が風にあおられ、右目の周りを覆うあざが露わになった。
「何をぐずぐずしてるんだい。今日はやること山積みだよ」
縁側から、針のように鋭い声がかけられた。急いで前髪であざを隠して振り向くと、分厚い丹前を羽織った母が、目を吊り上げて雪月を見下ろしてきた。早く朝食を作って、家中をいつも以上にきれいに掃除しろと命じると、足早に室内に戻って行った。雪月は首から常に下げているお守りを握りしめ、祈るように目を閉じた。
「おつねさん、今日は私と陽凪姉様の17歳の誕生日よ。今日も1日、お空から見守っていてね」
雪月は母に命じられた通り、数名の使用人と共に両親と姉の朝食を用意した。配膳を終えると、使用人と共に芋粥と具がほとんどない味噌汁を食べ、家事にとりかかった。
本来なら雪月も陽凪と同じように、誕生日を祝われるはずだった。だが、その席は最初から用意されていない。あざを理由に、生まれた時から家族に切り離されたことを、雪月はよく知っていた。
使用人同然の扱いを受けてきた雪月だったが、唯一乳母のおつねだけは、娘同然に可愛がってくれた。だが、昨年病で命を落とした。おつねは息を引き取る前、病で倒れながらも懸命に縫い上げたお守りを雪月へ渡してくれたのだった。お守りを身に着けていると、いつもおつねが傍にいてくれる気がする。
縁談のまとまった陽凪はもうすぐ婿を迎え、今夜は17歳の誕生日と結婚の前祝いのための祝祭が開かれている。おまえは絶対に姿を見せるなと父に言われ、他の使用人が配膳などで忙しなくしている間、台所で冷たい水に手を付けながら、食器の後片付けを行っていた。
宴会が終り、陽凪の婿やその家族、親戚などの客が全員帰ってから、ようやく一息つけた。勝手口から暗闇の広がる庭に出て、夕飯用にとっておいた握り飯を口にしながら夜空を見上げた。今夜は新月。星の瞬きが暗い夜空に映える。けれども星の明かりは地上には届かない。
「誕生日、終わってしまうわ」
毎年おつねだけが祝ってくれた誕生日。今年は誰からも祝ってもらえない。
足元に目を落とすと、胸の奥に小さな空白が生まれた。
家族のために役立つよう必死に働いても、罵倒され、家族の輪に入れてもらえない。この先もこんな日が続くのだろうか。
家族のために役立たないと。
そんなことをしても家族だと認められない。
相反する気持ちがぶつかり合い、心の中に暗い影が広がっていく。それに呼応するかのように、右の目元がじわりと熱を帯びた。
雪月は心を鎮めるように、お守りを強く握りしめた。
「雪月様は、役立たずではありません。誰よりもご家族のために生きていらっしゃいます。いつの日か、必ず雪月様に感謝する時がくるはずですよ」
おつねがよくかけてくれた言葉が蘇ってくる。
家族のために役立っていれば、いつか自分も家族の輪に入れるはず。
握りしめたお守りから温もりが伝わってきて、心の中の影が追い払われていく。肌に残っていた違和感がゆっくりと引いていくのを感じた。
屋敷内の灯りが全て落とされ、寝静まった深夜。雪月は芯から震える恐怖にも似た悪寒を覚え、目を開けた。異様な寒気とは裏腹に、右目の周りが熱を帯びている。右目を押さえながら起き上がると、どこからか話し声が聞こえてきた。手で押さえたあざが脈打つ。行かない方がいいと思う一方で、行かなければと突き動かされ、部屋を出た。
何かに導かれるように、雪月の足は止まることなく縁側へ向かう。暗がりの中、両親と陽凪の人影が見えた。怯えるように3人がひと固まりになって、庭を凝視している。
闇夜にぼんやりと滲むような青白い明かりが浮かんでいた。その中に闇より深い黒一色の着物に身を包んだ長身の男が立っている。いや、正確には浮いている。地面に裸足の足がついていない。肩にかけている深紅の羽織は、風にさらされているはずなのに、裾一つ揺れていない。
腰まで流れる銀髪が、青白い光を受けて輝いている。切れ長の瞳は焔を閉じ込めたような色だ。神秘的な美しさに雪月は目を奪われた。右の目元が共鳴するかのように熱さを増していく。
「や、夜叉王……!」
父の呟きに応えるように、異形の男は一歩足を踏み出した。母と陽凪が短い悲鳴を上げる。雪月は、青白い明かりに照らされる夜叉王の神秘的な美しさに目が離せず、息を呑んだ。
「覚えていたか」
闇夜を震わす重低音が静かに響く。にやりと持ち上げた口角からわずかに牙が覗き、母と陽凪は震えながら父にしがみついた。
「約束の時だ。娘を差し出せ」
目を見開く母と陽凪を振り払い、父は背後にいた雪月の腕を掴んだ。
「来い」
雪月は抵抗する間もなく、父に腕を引っ張られ、無理矢理夜叉王の前に突き出された。氷のように冷たい眼差しに射抜かれる。右目の周りが疼き、手で押さえようと右手を持ち上げた。その時、夜叉王が長い人差し指を弾くように上へ向けた。雪月の体は金縛りにあったように動かなくなり、どこからか吹いた風が前髪をかきあげ、隠していたあざが晒された。
「違う。こいつは対価にならない。そっちの娘だ」
夜叉王が陽凪の方を指差すと、雪月の体は軽くなり、自由になった。
「何故だ! 条件は娘を差し出すことだったではないか。こいつも娘で間違いない」
声を張り上げる父に、母が陽凪を抱きしめて怪訝な目を向けた。
「旦那様、どういうことですか?」
父は言葉に詰まり、奥歯を噛みしめた。夜叉王は雪月の横を通り過ぎ、父の目の前に立つと、虫けらを見るような目で見下ろした。
「契約のことは他言無用。他言すれば契約は破棄され、願いは泡と消える。娘が17の時俺に差し出すことが契約履行の条件。おまえは都合の良いことばかり覚えているんだな」
「だから、あいつを差し出す。そのために育ててきたのだ」
夜叉王は呆れ顔で溜息をつき、肩をすくめた。
「大切に育てろと言ったはずだ。俺に喰わせるために」
母と陽凪は、膝から崩れ落ちた。夜叉王を見つめる父は、震える指で雪月を指差した。
「あいつも大切に育ててきた」
「噓をつくな」
「嘘ではなっ……!」
父の口が縫い留められたように固く閉じて開かなくなる。夜叉王は雪月の方を振り向き、一瞥をくれると、父に向き直った。人差し指の長く鋭い爪で、父の目を突き刺す寸でのところで止め、焔が揺らぐ瞳で射抜いた。
「この俺を欺くつもりか。愚か者め。あの娘はあざが残っている。大切に育てられなかった証だ」
父は冷や汗を流し、母と泣き崩れている陽凪に目を向けた。
「陽凪には、あざなどなかった」
「……生まれた時、ここに薄いあざがありました」
母は涙を拭い、陽凪の首元に手を添えた。
「何故黙っていた!」
「すぐに消えたんです。あの子のように、陽凪まで忌み子扱いされるなど、耐えられない。私はこの子を守ります。何を犠牲にしてでも」
「お母様っ! お願い、助けて! 私、死にたくないわ」
「大丈夫よ、陽凪。忌み子はあなたじゃない。醜いあの子の方よ」
そう。忌み子は私。だけど、夜叉王が求めているのは私じゃない。
じゃあ、私は何? 何のためにいるの?
「契約を守らないつもりか? ならば、おまえの命を差し出せ」
夜叉王が父に手を伸ばす。父は両腕で顔を庇い、後退りをした。
「や、やめろ! 守らないとは言ってない」
「旦那様! 陽凪を差し出すというのですか?!」
「嫌よ! なんで私が!」
「おれに死ねというのか!?」
夜叉王は片手で父の首を絞め、軽々しく持ち上げた。苦しそうなうめき声をあげながら、必死にもがく。夜叉王がもう一方の手を陽凪に向けると、陽凪は見えない手に持ち上げられるように浮き上がった。母は、悲鳴を上げる陽凪に必死にしがみつく。陽凪は母に手を伸ばすが、無情にも引きはがされ、夜叉王のもとへ吸い寄せられていった。
尽くしてきた家族が、引き裂かれる。このまま両親も姉も失っていいの?
雪は胸元のお守りに手を添え、唇を噛みしめる。
「待ってください!」
雪月は夜叉王の前に踏み出す。蔑むような目を見上げると、右目の周りが今まで以上に強く脈打ち、熱が増してきた。心臓が早鐘を打つ。後退りしたくなるが、足を踏みしめて姿勢を正した。
「私の命を、捧げます。お父様とお姉様を放してください。お願いします」
深々と頭を下げる雪月を、夜叉王は嘲笑った。
「情をかけてこられなかったおまえが、こいつらのために命を差し出すだと? 契約の対価にもならない醜い人の子よ。笑わせるな」
父の首を絞める手に青筋が浮かび、父が喉がつぶれそうな悲鳴を上げた。陽凪は宙に浮いたまま、締め付けられているように体を縮こまらせ、痛いと泣き叫んだ。雪月は咄嗟に夜叉王にしがみつき、目に光るものを溜めながら懇願した。
「お父様とお姉様をこれ以上、苦しめないでください! 命でも何でも、私の全てを差し出します。ですからどうか、お願いします」
どさっと重たいものが地面に落ちる音がした。雪月が振り返ると、気を失った父と陽凪が地面に横たわっていた。胸を撫で下ろすと、頭上から含み笑いが聞こえ、慌てて夜叉王から離れた。
「おまえみたいな人間は初めてだ。人を飼うのも一興。おまえを俺のものにしてやる」
夜叉王は雪月の顎を持ち上げると、右目を覆うあざに唇をつけた。
な、何? 何が起きたの?!
雪月は瞬きを繰り返し、にやりと笑みを浮かべる夜叉王を見上げた。
「手を出せ」
言われるがまま右手を出すと、今度は人差し指に唇を当てて息を吹きかけた。すると、人差し指に銀色の金属の指輪が現れた。表面には、三日月を挟むように左右から角のような形が印されている紋様が彫られている。
「もうあざは意味を成さない。今からはこの指輪が、俺の所有物だという証だ」
右目に触れると、先ほどまでの脈打つ感覚や熱が消えている。冷たく重みのある指輪をそっと撫でる。突然体が浮き上がり、息を呑むと、いつの間にか夜叉王の腕の中におさまっていた。目を白黒させていると、夜叉王は暗闇の広がる庭に掌をかざした。宙に闇より深い穴がぽっかりと開き、夜叉王が穴に飛び込んだ。雪月が背後を振り向くと、呆然と庭に立ちすくむ母と目が合った。母は口を開くが、何か言う前に穴は閉じてしまった。
「何をぐずぐずしてるんだい。今日はやること山積みだよ」
縁側から、針のように鋭い声がかけられた。急いで前髪であざを隠して振り向くと、分厚い丹前を羽織った母が、目を吊り上げて雪月を見下ろしてきた。早く朝食を作って、家中をいつも以上にきれいに掃除しろと命じると、足早に室内に戻って行った。雪月は首から常に下げているお守りを握りしめ、祈るように目を閉じた。
「おつねさん、今日は私と陽凪姉様の17歳の誕生日よ。今日も1日、お空から見守っていてね」
雪月は母に命じられた通り、数名の使用人と共に両親と姉の朝食を用意した。配膳を終えると、使用人と共に芋粥と具がほとんどない味噌汁を食べ、家事にとりかかった。
本来なら雪月も陽凪と同じように、誕生日を祝われるはずだった。だが、その席は最初から用意されていない。あざを理由に、生まれた時から家族に切り離されたことを、雪月はよく知っていた。
使用人同然の扱いを受けてきた雪月だったが、唯一乳母のおつねだけは、娘同然に可愛がってくれた。だが、昨年病で命を落とした。おつねは息を引き取る前、病で倒れながらも懸命に縫い上げたお守りを雪月へ渡してくれたのだった。お守りを身に着けていると、いつもおつねが傍にいてくれる気がする。
縁談のまとまった陽凪はもうすぐ婿を迎え、今夜は17歳の誕生日と結婚の前祝いのための祝祭が開かれている。おまえは絶対に姿を見せるなと父に言われ、他の使用人が配膳などで忙しなくしている間、台所で冷たい水に手を付けながら、食器の後片付けを行っていた。
宴会が終り、陽凪の婿やその家族、親戚などの客が全員帰ってから、ようやく一息つけた。勝手口から暗闇の広がる庭に出て、夕飯用にとっておいた握り飯を口にしながら夜空を見上げた。今夜は新月。星の瞬きが暗い夜空に映える。けれども星の明かりは地上には届かない。
「誕生日、終わってしまうわ」
毎年おつねだけが祝ってくれた誕生日。今年は誰からも祝ってもらえない。
足元に目を落とすと、胸の奥に小さな空白が生まれた。
家族のために役立つよう必死に働いても、罵倒され、家族の輪に入れてもらえない。この先もこんな日が続くのだろうか。
家族のために役立たないと。
そんなことをしても家族だと認められない。
相反する気持ちがぶつかり合い、心の中に暗い影が広がっていく。それに呼応するかのように、右の目元がじわりと熱を帯びた。
雪月は心を鎮めるように、お守りを強く握りしめた。
「雪月様は、役立たずではありません。誰よりもご家族のために生きていらっしゃいます。いつの日か、必ず雪月様に感謝する時がくるはずですよ」
おつねがよくかけてくれた言葉が蘇ってくる。
家族のために役立っていれば、いつか自分も家族の輪に入れるはず。
握りしめたお守りから温もりが伝わってきて、心の中の影が追い払われていく。肌に残っていた違和感がゆっくりと引いていくのを感じた。
屋敷内の灯りが全て落とされ、寝静まった深夜。雪月は芯から震える恐怖にも似た悪寒を覚え、目を開けた。異様な寒気とは裏腹に、右目の周りが熱を帯びている。右目を押さえながら起き上がると、どこからか話し声が聞こえてきた。手で押さえたあざが脈打つ。行かない方がいいと思う一方で、行かなければと突き動かされ、部屋を出た。
何かに導かれるように、雪月の足は止まることなく縁側へ向かう。暗がりの中、両親と陽凪の人影が見えた。怯えるように3人がひと固まりになって、庭を凝視している。
闇夜にぼんやりと滲むような青白い明かりが浮かんでいた。その中に闇より深い黒一色の着物に身を包んだ長身の男が立っている。いや、正確には浮いている。地面に裸足の足がついていない。肩にかけている深紅の羽織は、風にさらされているはずなのに、裾一つ揺れていない。
腰まで流れる銀髪が、青白い光を受けて輝いている。切れ長の瞳は焔を閉じ込めたような色だ。神秘的な美しさに雪月は目を奪われた。右の目元が共鳴するかのように熱さを増していく。
「や、夜叉王……!」
父の呟きに応えるように、異形の男は一歩足を踏み出した。母と陽凪が短い悲鳴を上げる。雪月は、青白い明かりに照らされる夜叉王の神秘的な美しさに目が離せず、息を呑んだ。
「覚えていたか」
闇夜を震わす重低音が静かに響く。にやりと持ち上げた口角からわずかに牙が覗き、母と陽凪は震えながら父にしがみついた。
「約束の時だ。娘を差し出せ」
目を見開く母と陽凪を振り払い、父は背後にいた雪月の腕を掴んだ。
「来い」
雪月は抵抗する間もなく、父に腕を引っ張られ、無理矢理夜叉王の前に突き出された。氷のように冷たい眼差しに射抜かれる。右目の周りが疼き、手で押さえようと右手を持ち上げた。その時、夜叉王が長い人差し指を弾くように上へ向けた。雪月の体は金縛りにあったように動かなくなり、どこからか吹いた風が前髪をかきあげ、隠していたあざが晒された。
「違う。こいつは対価にならない。そっちの娘だ」
夜叉王が陽凪の方を指差すと、雪月の体は軽くなり、自由になった。
「何故だ! 条件は娘を差し出すことだったではないか。こいつも娘で間違いない」
声を張り上げる父に、母が陽凪を抱きしめて怪訝な目を向けた。
「旦那様、どういうことですか?」
父は言葉に詰まり、奥歯を噛みしめた。夜叉王は雪月の横を通り過ぎ、父の目の前に立つと、虫けらを見るような目で見下ろした。
「契約のことは他言無用。他言すれば契約は破棄され、願いは泡と消える。娘が17の時俺に差し出すことが契約履行の条件。おまえは都合の良いことばかり覚えているんだな」
「だから、あいつを差し出す。そのために育ててきたのだ」
夜叉王は呆れ顔で溜息をつき、肩をすくめた。
「大切に育てろと言ったはずだ。俺に喰わせるために」
母と陽凪は、膝から崩れ落ちた。夜叉王を見つめる父は、震える指で雪月を指差した。
「あいつも大切に育ててきた」
「噓をつくな」
「嘘ではなっ……!」
父の口が縫い留められたように固く閉じて開かなくなる。夜叉王は雪月の方を振り向き、一瞥をくれると、父に向き直った。人差し指の長く鋭い爪で、父の目を突き刺す寸でのところで止め、焔が揺らぐ瞳で射抜いた。
「この俺を欺くつもりか。愚か者め。あの娘はあざが残っている。大切に育てられなかった証だ」
父は冷や汗を流し、母と泣き崩れている陽凪に目を向けた。
「陽凪には、あざなどなかった」
「……生まれた時、ここに薄いあざがありました」
母は涙を拭い、陽凪の首元に手を添えた。
「何故黙っていた!」
「すぐに消えたんです。あの子のように、陽凪まで忌み子扱いされるなど、耐えられない。私はこの子を守ります。何を犠牲にしてでも」
「お母様っ! お願い、助けて! 私、死にたくないわ」
「大丈夫よ、陽凪。忌み子はあなたじゃない。醜いあの子の方よ」
そう。忌み子は私。だけど、夜叉王が求めているのは私じゃない。
じゃあ、私は何? 何のためにいるの?
「契約を守らないつもりか? ならば、おまえの命を差し出せ」
夜叉王が父に手を伸ばす。父は両腕で顔を庇い、後退りをした。
「や、やめろ! 守らないとは言ってない」
「旦那様! 陽凪を差し出すというのですか?!」
「嫌よ! なんで私が!」
「おれに死ねというのか!?」
夜叉王は片手で父の首を絞め、軽々しく持ち上げた。苦しそうなうめき声をあげながら、必死にもがく。夜叉王がもう一方の手を陽凪に向けると、陽凪は見えない手に持ち上げられるように浮き上がった。母は、悲鳴を上げる陽凪に必死にしがみつく。陽凪は母に手を伸ばすが、無情にも引きはがされ、夜叉王のもとへ吸い寄せられていった。
尽くしてきた家族が、引き裂かれる。このまま両親も姉も失っていいの?
雪は胸元のお守りに手を添え、唇を噛みしめる。
「待ってください!」
雪月は夜叉王の前に踏み出す。蔑むような目を見上げると、右目の周りが今まで以上に強く脈打ち、熱が増してきた。心臓が早鐘を打つ。後退りしたくなるが、足を踏みしめて姿勢を正した。
「私の命を、捧げます。お父様とお姉様を放してください。お願いします」
深々と頭を下げる雪月を、夜叉王は嘲笑った。
「情をかけてこられなかったおまえが、こいつらのために命を差し出すだと? 契約の対価にもならない醜い人の子よ。笑わせるな」
父の首を絞める手に青筋が浮かび、父が喉がつぶれそうな悲鳴を上げた。陽凪は宙に浮いたまま、締め付けられているように体を縮こまらせ、痛いと泣き叫んだ。雪月は咄嗟に夜叉王にしがみつき、目に光るものを溜めながら懇願した。
「お父様とお姉様をこれ以上、苦しめないでください! 命でも何でも、私の全てを差し出します。ですからどうか、お願いします」
どさっと重たいものが地面に落ちる音がした。雪月が振り返ると、気を失った父と陽凪が地面に横たわっていた。胸を撫で下ろすと、頭上から含み笑いが聞こえ、慌てて夜叉王から離れた。
「おまえみたいな人間は初めてだ。人を飼うのも一興。おまえを俺のものにしてやる」
夜叉王は雪月の顎を持ち上げると、右目を覆うあざに唇をつけた。
な、何? 何が起きたの?!
雪月は瞬きを繰り返し、にやりと笑みを浮かべる夜叉王を見上げた。
「手を出せ」
言われるがまま右手を出すと、今度は人差し指に唇を当てて息を吹きかけた。すると、人差し指に銀色の金属の指輪が現れた。表面には、三日月を挟むように左右から角のような形が印されている紋様が彫られている。
「もうあざは意味を成さない。今からはこの指輪が、俺の所有物だという証だ」
右目に触れると、先ほどまでの脈打つ感覚や熱が消えている。冷たく重みのある指輪をそっと撫でる。突然体が浮き上がり、息を呑むと、いつの間にか夜叉王の腕の中におさまっていた。目を白黒させていると、夜叉王は暗闇の広がる庭に掌をかざした。宙に闇より深い穴がぽっかりと開き、夜叉王が穴に飛び込んだ。雪月が背後を振り向くと、呆然と庭に立ちすくむ母と目が合った。母は口を開くが、何か言う前に穴は閉じてしまった。

