***
私はずいぶん深い眠りに就いていたようだった。
髪を優しく梳かれている感覚が心地よくて、
「ん……」
覚醒して視界が光を取り込んでいく。
寝覚めから切れ長の鋭く美しい瞳が私を映し込んでいて。
「……黒崎少佐、おはようございます……」
慌てて上半身を起こす。
繋がれたままの手。
それとは反対側の黒崎少佐の長い指先が私の髪に触れている。
――ああ、そうだわ。
私は内面だけ8歳の黒崎少佐の介助を頼まれて……。
どうして私がベッドに眠っていて黒崎少佐がベッドに腰かけてるの?
逆だったはずなのに。
「――おはよう。更紗」
もしかしたら元に戻っているかもしれないなんて思ったけれど、名前で呼ばれているし、やっぱり私が職務で接してきた完全無欠の隙なんて一切ない黒崎少佐ではなくて。
前髪が下ろされているから?
寝巻きだから?
寝起きだから?
中身は8歳の少年だから?
距離が近い、どこか無防備な黒崎少佐に朝から心音が騒がしくなった。
「どうして私がベッドで眠っていたんでしょうか?」
「目覚めたら、更紗がベッドに頭だけもたれて座って寝ていたから運んだ」
私は寝ているうちに黒崎少佐を追い出して自分がベッドを占有していたということで。
「申し訳ございません」
記憶にないとは言え、失態だった。
「では、黒崎少佐は?」
「更紗が同じ寝具で男女が眠るのは家族じゃないといけないって言ってたから、寝具から出た」
「え……」
だから私を寝かせて、自分がベッドから出たの?
「――重ね重ね、申し訳ございません」
「どうして更紗が謝る必要がある」
「いえ、私が上官のベッドを占領するなど……」
「女性を尊重するのは当たり前だと教えられてきた」
黒崎少佐にとっては当然の務めだと疑問に感じることもないようだった。
8歳にしては大人びている黒崎少佐の幼少期にも触れているみたいで。
「伝える言葉を誤っていました。ありがとうございます」
口許を緩めて目線を結び合って伝えれば、黒崎少佐の鋭い切れ長の目元だけが和らいだ。
応接間の一角には官舎番が準備してくれていたらしい朝食が二人分と新聞が置かれている。
二人分なのは昨晩、先生が官舎番に説明して私の分まで用意してくれたのだろう。
――私は黒崎少佐の婚約者ってことにされているからだ。
今日は二人揃って先生が配慮してくれた通常勤務不要日になってはいるものの、私は髪を束ねて制服に着替えた。
私服も持ってきてくれたみたいだけれど、制服のほうが仕事だと私情を挟まずにいられる気がして。
――だって、こんなに距離が近い場所で普段と違う黒崎少佐と接していたら、勘違いしそうになる。
黒崎少佐は軍服じゃなくて着流しに着替えたから余計に……。
「イがこれで、ロがこれです」
応接間で私は8歳の黒崎少佐に速記を教えていた。
もしかしたら黒崎少佐は速記文字をご存知なのかもしれないけど、8歳の黒崎少年には初めて触れるものだった。
「これだけで文字を表現出来てるんだ……」
「ええ。だから会議をそのまま記録出来るんです」
「更紗はすごいね」
黒崎少佐は私に笑いかけてくれる。
満面の笑みって感じではないけれど、自然と口もとが緩むような自然体のもの。
滅多にどころか黒崎少佐が笑っているところなんて一度たりとも見たことがなくて。
8歳の黒崎少佐が8歳らしくなってきた気がする。
昨日から幼児退行したって、口振りも態度も大人びていたから。
それは私に心を許してくれているからだと思っていていいのかしら……。
「更紗は泣くことってある?」
肩同士が触れない間合いで、速記文字を教えながら隣に並んで座っていると、黒崎少佐から質問された。
「どうされました?」
「疑問に思ったんだ。更紗って落ち着いていて泣きそうにないから」
「私も涙を流すことはあります……が、最近はないかもしれません」
「最近って?」
「……10年ほど、思い当たりません」
「やっぱり泣いてないんだ……」
「泣かないことが強さではありません。強い人が自分の弱さを出すことも弱さではないと思っています」
「……」
黒崎少佐はひととき沈黙を守った後、
「10年前、更紗は何で泣いたの?」
と、続けて質問してきた。
「私が14歳……なので正確には11年前ですね。様々な事情があって生まれ育った場所を離れなければならなくなったんです。それで、この街の近くに家族でやってきました」
父の工場が閉鎖して、売らなければいけなくなって。
「仕方のないことだと受け入れていました。受け入れてはいたんですが、二度とここに戻れはしないんだと、どうしても寂しさが勝ってしまって。離れる日の前日、図書館で勉強しながら、涙が止まらなくなりました」
私はずいぶん深い眠りに就いていたようだった。
髪を優しく梳かれている感覚が心地よくて、
「ん……」
覚醒して視界が光を取り込んでいく。
寝覚めから切れ長の鋭く美しい瞳が私を映し込んでいて。
「……黒崎少佐、おはようございます……」
慌てて上半身を起こす。
繋がれたままの手。
それとは反対側の黒崎少佐の長い指先が私の髪に触れている。
――ああ、そうだわ。
私は内面だけ8歳の黒崎少佐の介助を頼まれて……。
どうして私がベッドに眠っていて黒崎少佐がベッドに腰かけてるの?
逆だったはずなのに。
「――おはよう。更紗」
もしかしたら元に戻っているかもしれないなんて思ったけれど、名前で呼ばれているし、やっぱり私が職務で接してきた完全無欠の隙なんて一切ない黒崎少佐ではなくて。
前髪が下ろされているから?
寝巻きだから?
寝起きだから?
中身は8歳の少年だから?
距離が近い、どこか無防備な黒崎少佐に朝から心音が騒がしくなった。
「どうして私がベッドで眠っていたんでしょうか?」
「目覚めたら、更紗がベッドに頭だけもたれて座って寝ていたから運んだ」
私は寝ているうちに黒崎少佐を追い出して自分がベッドを占有していたということで。
「申し訳ございません」
記憶にないとは言え、失態だった。
「では、黒崎少佐は?」
「更紗が同じ寝具で男女が眠るのは家族じゃないといけないって言ってたから、寝具から出た」
「え……」
だから私を寝かせて、自分がベッドから出たの?
「――重ね重ね、申し訳ございません」
「どうして更紗が謝る必要がある」
「いえ、私が上官のベッドを占領するなど……」
「女性を尊重するのは当たり前だと教えられてきた」
黒崎少佐にとっては当然の務めだと疑問に感じることもないようだった。
8歳にしては大人びている黒崎少佐の幼少期にも触れているみたいで。
「伝える言葉を誤っていました。ありがとうございます」
口許を緩めて目線を結び合って伝えれば、黒崎少佐の鋭い切れ長の目元だけが和らいだ。
応接間の一角には官舎番が準備してくれていたらしい朝食が二人分と新聞が置かれている。
二人分なのは昨晩、先生が官舎番に説明して私の分まで用意してくれたのだろう。
――私は黒崎少佐の婚約者ってことにされているからだ。
今日は二人揃って先生が配慮してくれた通常勤務不要日になってはいるものの、私は髪を束ねて制服に着替えた。
私服も持ってきてくれたみたいだけれど、制服のほうが仕事だと私情を挟まずにいられる気がして。
――だって、こんなに距離が近い場所で普段と違う黒崎少佐と接していたら、勘違いしそうになる。
黒崎少佐は軍服じゃなくて着流しに着替えたから余計に……。
「イがこれで、ロがこれです」
応接間で私は8歳の黒崎少佐に速記を教えていた。
もしかしたら黒崎少佐は速記文字をご存知なのかもしれないけど、8歳の黒崎少年には初めて触れるものだった。
「これだけで文字を表現出来てるんだ……」
「ええ。だから会議をそのまま記録出来るんです」
「更紗はすごいね」
黒崎少佐は私に笑いかけてくれる。
満面の笑みって感じではないけれど、自然と口もとが緩むような自然体のもの。
滅多にどころか黒崎少佐が笑っているところなんて一度たりとも見たことがなくて。
8歳の黒崎少佐が8歳らしくなってきた気がする。
昨日から幼児退行したって、口振りも態度も大人びていたから。
それは私に心を許してくれているからだと思っていていいのかしら……。
「更紗は泣くことってある?」
肩同士が触れない間合いで、速記文字を教えながら隣に並んで座っていると、黒崎少佐から質問された。
「どうされました?」
「疑問に思ったんだ。更紗って落ち着いていて泣きそうにないから」
「私も涙を流すことはあります……が、最近はないかもしれません」
「最近って?」
「……10年ほど、思い当たりません」
「やっぱり泣いてないんだ……」
「泣かないことが強さではありません。強い人が自分の弱さを出すことも弱さではないと思っています」
「……」
黒崎少佐はひととき沈黙を守った後、
「10年前、更紗は何で泣いたの?」
と、続けて質問してきた。
「私が14歳……なので正確には11年前ですね。様々な事情があって生まれ育った場所を離れなければならなくなったんです。それで、この街の近くに家族でやってきました」
父の工場が閉鎖して、売らなければいけなくなって。
「仕方のないことだと受け入れていました。受け入れてはいたんですが、二度とここに戻れはしないんだと、どうしても寂しさが勝ってしまって。離れる日の前日、図書館で勉強しながら、涙が止まらなくなりました」



