【短編】冷徹海軍少佐の、世界に一つだけの溺愛

 黒崎少佐に質問すると、言葉の代わりに視線で応答される。

「私は先生を待っていますので、先に寝ていてください」

 私の自宅から先生がそろそろ戻ってくる頃だ。
 軍医中佐である先生が直々に私の両親に説明したのなら、お父さんもお母さんも心配はしていないだろう。

「寝る前にお風呂、入りたいですよね。少しお時間をいただいてしまいますが、浴室に行って準備してきま……」
「――待って」

 立ち上がった私を引き留めるように黒崎少佐が手を握ってきた。

「痛っ……」

 反射的に動いてしまったんだろう。
 握られた手の力が思いのほか強くて熱くて、思わず顔を顰めてしまった。

「すまない」

 8歳の少年が成人している黒崎少佐の身体をうまく使いこなせず想像以上に力が加わってしまったのだと思う。
 それでも黒崎少佐は私の手を握る力は緩めても離しはしてくれなくて。

「……」

 無言のまま、私の手を握って、床に視線を落としている。
 甘えない……というより甘えられない。
 もしくは甘え方がわからない――そんな幼少期を過ごしていたのかもしれない。
 今の8歳の黒崎少佐にとって、ここは知っている場所でも何でもなく、見知らぬ場所に見知らぬ人と一緒にいて。
 いつもの黒崎少佐に比べたら距離が近すぎるのに……離れてはいけない気がしていた。

「では、一緒にやりましょう」

 握られた手はそのままに、黒崎少佐の正面へ回り、しゃがみ込んで、視線を合わせる。
 黒崎少佐のどこか頼りなげな瞳は彼の内面が本当に8歳に戻っていると教えてくれていた。
 彼を安心させるように微笑めば、驚いたように目を(みは)る。
 その後に黒崎少佐は小さく頷いた。
 浴槽に水を満たして、焚口に薪を組んで火をつける。
 次第に煙のにおいが充満してきて、焚口の奥で火が爆ぜる音と光が響き渡った。

「きれい……」

 私がぱち、ぱちと乾いた音を立て続ける焚口の赤い炎に見惚れていると、隣から視線を感じた。
 黒崎少佐が私を見つめていて、視線が合ったのと同時に逸らされる。
 ――私の顔を見られていたのかしら。
 何だか、妙に胸がざわついてしまう。
 多くの言葉を交わさないまま、二人で作業して。
 黒崎少佐は手際が良かった。
 8歳に記憶が巻き戻っても身体は覚えているのだろう。
 普段から自分で沸かしているんだと推し量られた。

「こんなところにいたのか?」

 お湯が適温になった頃、先生が戻ってきて風呂場へと顔を出した。
 ようやく黒崎少佐と2人きりじゃなくなることに、どことなく安心してしまう。
 でも、生じた余白が何だか物足りなくて。
 黒崎少佐がお風呂に入っている間、これから帰宅しようとしている先生を見送るために玄関にいた。

「自宅にご足労いただいたようで、ありがとうございます」
「いや、君に無理を言っているのは、我々軍務局のほうだ。良いご両親じゃないか。君が魅力的な女性に育った理由がわかったよ。颯真のほうは……」

 黒崎少佐が元に戻ったのか聞かれているとわかり、私は静かに首を振る。

「明日中には颯真が戻ってくれるといいのだが……」
「そうですね。黒崎少佐が8歳になってしまったのはわかるのですが、子どもらしくないといいますか、普段の黒崎少佐と違うのはわかっても、平均的な8歳の子と違うように見えまして」

 私に言いたいことがあるのに限界まで我慢しているように見える。
 不安や心細さを見せないようにしているけど、いざ私が離れようとすると手を握って引き留めてきたり……。
 ――黒崎少佐の手が熱くて、大きくて……。

「君の家に向かって歩いている間に考えていたんだが、8歳というのはちょうど颯真の母親が病で亡くなった時期だ」
「……黒崎少佐のお母さまはお亡くなりになられているんですか?」
「颯真の父親は知っているだろう?」
「黒崎中将ですよね? もちろん、お目にかかったことはないのですが……」
「さよう。そして颯真の祖父は明治初期に海軍創設へ関わった士官だ。もう亡くなっているが、維新を経験しているからこそ理念へのこだわりは並大抵ではなかった。颯真は昔から厳格な祖父の元で軍人になるために教育されてきたと言っても過言ではない。そんな颯真を優しく包んでやっていたのは母親だったから」

 家系からして黒崎少佐にどれだけの重圧がかかっていたのだろう。
 私には……ううん、誰の目にも完璧に映る黒崎少佐は完璧しか許されない立場だったのかもしれない。

「颯真は唯一、安心して子どもでいられる場所を母を亡くしたことで失った。憶測に過ぎないが、颯真が8歳に戻ったのはその辺りも絡んでいるのかもしれない」

 先生は明日も顔を出すと言って、内面だけ8歳の黒崎少佐を私に託して帰宅していった。

「――更紗……」

 玄関の扉を眺めていた私に背後から黒崎少佐の声がかかる。
 振り返った先には藍色の寝巻きを身に纏った黒崎少佐の姿。
 帯紐が雑に結ばれていて、水が床に滴り落ちているくらいに黒い髪の毛が濡れている。
 急いで浴室から出てきたのだろう。
 私がいなくなったと焦ったのかもしれない。

「風邪をひいてしまわれます」