【短編】冷徹海軍少佐の、世界に一つだけの溺愛

 訝しむように先生は私へ質問を投げてくる。

「いえ。とんでもありません。私と黒崎少佐は職務上の関係だけで、交際はおろか私的(してき)な会話を交わしたことすら一度もありません」
「8歳の颯真にとって、ここは見知った場所でも何でもない。ただ退行前の間柄が形に現れることもある。君はずいぶん颯真に信用されているようだからな」
「私の職能は黒崎少佐に信用されているのかもしれませんが……」

 黒崎少佐に握られている袖口に力を込められたのがわかった。
 わずかに指先が震えている。
 見た目は黒崎少佐のままでも、彼は今8歳の少年なのだ。
 不安でたまらないのかもしれない。

「確かに文書課の鈴原更紗といえば、省内でも評判だからな」
「私のこと、ご存じだったんですか?」
「男だらけの階級社会に、ここまで見目(みめ)がよい女性がいたら、健全な軍人たちが気にならないわけにはいかんだろう。かねてより君の噂は耳に入ってきていたよ」
「……」
「だが、君は堅実な速記係だとも聞こえてくる。女性が仕事で認められるのは容易ではない。相当努力したんだな」

 先生の言葉は私の技能を認めてくれた気がして、胸の奥が熱くなった。

「鈴原くん。颯真のそばにいてやってくれないか?」
「私が、ですか?」
「1週間……いや、颯真の場合は3日……もごまかせないか。明日1日だけ絶対安静が必要だと診断書を上に上げておく。その間、君に颯真の介助をお願いしたい」
「介助って言われましても」
「子どもに戻ったと言っても8歳だから身の回りのことは全て出来るだろう。颯真に寄り添い続けてくれるだけで構わない。文書課には私が根回ししといてやる」
「いえ、私自身の心配をしているわけではなくて」
「軍務局としても、本件を公にするわけにはいかない。それに今、8歳の颯真にとって君だけが頼りみたいだ。頼む」

 戸惑いを隠しながらも、中身だけが8歳になってしまった黒崎少佐へと視線を移す。
 黒崎少佐は私を見てはいなかったけど、その綺麗な横顔から窺える瞳は不安げに揺れていた。
 それでも私の袖を握り締める手だけはずっと離さずにいる。
 私がどう答えるのか恐れているのかもしれない。
 この世に恐怖の対象なんて何ひとつないように常に毅然とした黒崎少佐の見たこともない姿。
 彼は今、黒崎少佐ではなく8歳の少年なのだ。
 ――突き放せる、わけがない。

「はい。かしこまりました」

 先生は当直の軍医と何かしら話し合った後、私の家へと向かってくれた。
 目的は私の両親に「お嬢さんは緊急で泊まり込みの作業が必要になって帰れない」と伝えることと、私が外泊するのに必要なものを運んでもらうため。
 その間に私は黒崎少年と初めて将校用官舎の中へと足を踏み入れていた。
 省庁の裏手に並ぶ将校用の住居で黒崎少佐は普段ここで生活をしている。
 敷地内には西洋風の白亜の漆喰壁の住戸が整然と並列していた。
 私の家より遥かに広い一軒分の居宅に黒崎少佐は一人で住んでいるなんて。
 部外者は立ち入り禁止だけれど、立ち入る際に先生が官舎番に私のことを黒崎少佐の婚約者だと説明して許可が降りている。
 ――黒崎少佐の婚約者……。
 例え偽りでも、その響きだけで気恥ずかしい気持ちに染まってしまう。
 先生が私の家へと向かっている今、官舎には黒崎少佐と二人きり。
 応接間の革張り椅子に並んで座ったまま、私も黒崎少佐も黙っていた。
 圧迫感さえ伴う、沈黙。
 ――何か私から話したほうがいいの?
 黒崎少佐に私から話しかけて失礼にあたらないかしら?
 でも今、黒崎少佐は8歳で……。

「――なんて、呼べばいい?」

 隣の黒崎少佐が静かに言葉を放った。
 それはちゃんと低音の大人の男性の声でも、やっぱり普段よりも柔らかく響く。

「普段は鈴原くんって……」

 言いかけて今は黒崎少佐ではなく、黒崎少年だと思い当たる。
 8歳の子になんて呼ばせたらいいのかしら?
 名字だと固いわよね。

「更紗って、呼んでください」

 8歳の少年がどうしたら不安がなくなるから考えた結果、私はそう答えた。

「――更紗」

 黒崎少佐の美声で私の名前を呼ばれただけ。
 それなのに怖いくらい心音が大きく鳴った。
 
「……はい……」

 妙に胸の辺りが落ち着かない。
 今ここにいるのは外見は黒崎少佐でも8歳の少年……。
 それは理解できていても、普段だったら夜も深くなってきた頃に一緒にいるはずじゃない雲の上の人だ。
 しかも二人きりで。
 意識が全て黒崎少佐に向いてしまうのをどうすることも出来なかった。
 ――だって、距離が近すぎて……。

「……」
「……」

 また黒崎少佐は口を閉ざしてしまった。
 黒崎少佐は医務室で私の服の袖を掴みはしたけれど、意思表示と言えるべきものはそれだけで。
 幼児退行している8歳の黒崎少佐。
 信じがたい話だけど、別人になったわけではないのだから、黒崎少佐は8歳の時から口数が少なかったのだろう。
 それでも私をどう呼んだらいいのか聞いてきたということは彼なりに距離を縮めようとしてくれている。

「就寝されますか?」