【短編】冷徹海軍少佐の、世界に一つだけの溺愛

 苦しげに眉根を寄せ、大粒の汗が黒崎少佐の端正な顔立ちに幾つも浮かんでいる。
 いつも後ろに撫でつけられている前髪が一筋、額にかかっていた。
 常に(たたず)まいから完全無欠の黒崎少佐の想像すらできなかった揺らいだ姿。

「黒崎少佐、とても体調がお悪そうで……」
「――鈴原くん」

 私へ手を伸ばしかけ、黒崎少佐は膝から地面へと崩れ落ちた。

「黒崎少佐!」

 そのまま倒れそうになった黒崎少佐の上半身を慌てて抱き締めるように受け止める。
 私の腕の中で黒崎少佐は苦しげな表情で瞼を閉じていた。

「――重度の過労だな」

 衛生部に内線を入れ、倒れた黒崎少佐を医務室まで運んでもらい、軍医中佐である先生に診てもらった。

「いくら、この若造が有能だからって、司令部は働かせすぎだ。よく今まで無事でいられると思っていた。このまま行けば間違いなく早死にする」
「……」

 確かに黒崎少佐は若くして少佐の地位を与えられるほど優秀で、判断は迅速で的確。
 上官ですら、困った時の指示は黒崎少佐に仰げと頼りにしきるほど。
 私も黒崎少佐の言動に間違いがあることはないと、いつの間にか確定ごとのように信じ込んでいる。

「“これ”の父親とは旧知の仲なんだが、颯真もあいつも二人揃って堅物と堅物だから相性が悪くて……」

 黒崎少佐を託して退庁しようと思っていたけど、話し続ける先生の話を切り上げるわけにもいかず、そのまま耳を傾けていた。
 命に別状がなくて安心したけれど、過労で倒れてしまうほどに職務をこなしていたなんて。
 黒崎少佐が自己管理を怠るとは考えにくいから、それすら越えてしまうほど責務を(まっと)うしていたんだろう。
 目を閉じている黒崎少佐は美しい顔をしていた。
 男性に美しいと表現していいのかわからないけれど、目も鼻も口も……(ひたい)の形でさえ、どれも綺麗で完璧に配置されている。
 黒崎少佐は外見も内面も何もかも完璧だと誰もが思っていて、私もそう思っていた。

「――っ」

 黒崎少佐が目を覚ます。
 天井の照明が眩しいのか、眉を顰め、目を細めながら上半身を起き上がらせていく。
 それだけなのに、なぜか私には違和感が先にきていた。

「おお、颯真は目覚めたか。具合はどうだ?」

 先生が黒崎少佐に話しかける。
 けれど、黒崎少佐はベッドの傍に立つ私を黙って見上げていた。
 先生もすぐに黒崎少佐の異変に気が付いたようで。

「念のため、本人確認させてもらうぞ。お前の氏名と年齢は?」

 先生に質問されている間も黒崎少佐に視線を送られ続け、違和感は更に膨らんでいく。
 いつも、もっと心の底まで見透かされそうなほど、射抜くような強い眼差しなのに。
 そこにいるのは確かに黒崎少佐でも、決定的に何かが違う。

「黒崎颯真。8歳」

 その低い美声は普段と違って、どこか柔らかく鼓膜を振るわせて。
 黒崎少佐から真剣に紡がれた驚くべき回答。
 先生も私も次の言葉を探せず、医務室には重たい沈黙が広がっていた。

「――幼児退行だな」
「幼児退行、ですか?」
「ここにいる黒崎颯真は確かに黒崎颯真だが、自分は8歳だと思っている。恐らく颯真の記憶だけが8歳の時まで巻き戻されてしまったのだろう」

 先生の説明を聞きながらも、にわかには信じられない。
 黒崎少佐の内面だけが8歳になってしまうなんて起こりうるのだろうか?
 でも、確かに黒崎少佐の自然と人が付き従いたくなるような高貴な雰囲気が薄まっている。
 外見は抜きにしても8歳にしては落ち着いているような気もするけど。
 
「悪い冗談ってわけでは……」
「颯真が冗談を言うような性格だと思うか?」
「……思いません」
「冗談だったら、どれだけいいか……」
「いつ治るんでしょうか?」
「何とも言えん。次の瞬間には戻ってるかもしれないし、明日か、一年後か……もしくはずっとこのままってことも」

 黒崎少佐が8歳になったまま?
 容姿は完全に黒崎少佐なのに……。

「どうにか出来ないのでしょうか?」
「見守るしかないだろう。無理に颯真を揺り戻そうとして、精神に異常をきたされたら、それこそ困る」

 先生と私の会話を視線を俯かせて沈黙したまま、黒崎少佐……8歳の黒崎少年は耳を傾けていた。

「いや……でも、どうするか。海軍の技術将校の中身だけ8歳になりました――なんて、海軍省がひっくり返るぞ。絶対に秘匿せねばならん」

 確かに黒崎少佐の内面が子どもに戻りましたなんて、省内に動揺が走る。
 規律を何より重んじる場で、少しの綻びも許されるものではないと。
 誰よりも普段の黒崎少佐が大事にしていることだろう。

「……え?」

 不意に腕の辺りに感じた引っかかり。
 上半身だけをベッド上で起こしている黒崎少佐の手が私の制服の袖を掴んでいた。
 黒崎少佐の視線は下方に向けたまま、何かを訴えるように私の服を握っている。

「――君と颯真は隠密に交際しているのか?」