【短編】冷徹海軍少佐の、世界に一つだけの溺愛

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「今日の速記係、会議3つ担当ですか?」

 事務室内にある黒板。
 本日の会議予定と速記係担当者の一覧が掲示されている。
 午前の会議一本と午後の会議二本、全てに「鈴原」と書かれていた。

「鈴原さんには人手不足で負荷をかけてばかりだ。速記できる人の需要と供給が見合ってないよ」

 文書課主任の中年男性は申し訳なさそうに言った。
 速記技術者の需要は高い。
 国会、新聞社、官庁……人手は常に足りていない状態だと耳に入る。
 だから手に職を着けられるよう、女学校を卒業してすぐに働くのではなく、長期的な利をとって実務学校に進学した。
 お父さんも工場が廃業になって働き口探しには苦労していたから、大賛成してくれていた。
 
「問題ありません。お引き受けいたします」
「最後の会議だけ黒崎少佐から急ぎで清書を仕上げてほしいって言われてるんだ。今日は退庁が遅くなってしまうと思うけど、鈴原さん平気そう?」
「差しつかえありません」

 業務で私の帰宅が遅くなることは珍しいことでも何でもない。
 お父さんもお母さんも承知してくれている。
 今日、私が速記を担当するのは全て黒崎少佐の会議だ。
 黒崎少佐こそ、いったいどれだけの責任と職務を抱えているのか私には検討もつかない。
 技術将校だから前線に出ることはないけれど、艦も軍略も全て頭に入っているだろう。
 ――私が考えることではないか。
 私はただ業務を正確にこなすことのみ。
 私が上官任命で重要会議の速記係を担当することが多いのは事実だけれど、黒崎少佐の専属速記として指名されているわけではない。
 午前の会議は1時間ほどで終わった。
 今の会議は白熱し紛糾していて、速記帳に並ぶ記号も必然と増える。
 
「――発言は一人ずつ」

 それでも黒崎少佐の低い冷静な声が放たれると、誰もが瞬時に口を閉じる。
 ずっと速記帳に目線を落としていても、その光景がありありと脳裏に浮かんだ。
 省内の廊下を歩いていると、前方から黒崎少佐が歩いてくる。
 歩き方や立ち姿まで死角がない。
 立ち止まって、黒崎少佐が通り過ぎるまで頭を下げる。
 そのまま通り過ぎていくのを待っていたのに、

「――鈴原くん」

 私の前で歩みを止め、低い美声が降ってきた。

「はい」

 頭を上げると、黒崎少佐の鋭い切れ長の瞳と視線が交差する。
 ――背、高い……。
 いつもは執務室で着席している黒崎少佐に書類を届けていたから、並んで立つと目線をこんなに上げなければならないのかと実感した。

「先ほどの会議、発言が錯綜していたが」
「特に問題ありません。全て発言者まで記録できています」

 確かに黒崎少佐が場を鎮めるまで、熱量の上がった人間が重なるように幾つも言葉を投げあっていた。
 神経が昂るのも無理はないと心得ている。
 ここで決まったことが大日本帝国の戦局さえ左右しうるのだ。
 そんな中でも常に冷静沈着な黒崎少佐に少しもブレはないのだけれど。

「――さすがだな」
「ありがとうございます。でも、職務ですので」

 私に気を遣われているのだろう。
 廊下で私に声がかかるのはめずらしい。
 私に速記係を任せられている会議のことだから職務上の会話だと言われてしまえばそれまでだけれど。
 
「――午後の会議も頼む」
「はい」

 規則正しい靴音を鳴らし、黒崎少佐は歩き去った。
 ――今日は長い一日になりそう。
 私は速記帳を胸の前で握り締め、事務室へと戻った。

 三本目の会議が終わり、会議室を出た時には庁舎内に人影はまばらになっていた。 
 四角い窓は夜闇に黒く塗り潰されている。
 今から清書して、黒崎少佐に提出して……。
 ――あと、一頑張り。
 事務室に戻ると文書課主任しか残っておらず、私と二人分、万年筆の筆先を紙に走らせる音だけが響いていた。

「鈴原さん。もう終わりそう?」

 背後から主任の声がかかる。

「はい。後はインクが乾くのを待つだけです」
「そうか。こんな時間まですまないね。相変わらず、鈴原さんは美しい字で丁寧な会議録を作るね。正確性も随一だと評判だよ。あの黒崎少佐から修正が入らずに即決裁されるのは鈴原さんしかいない」
「ありがとうございます。あとは私も黒崎少佐に提出するだけですので」
「じゃあ悪いけど失礼するね。帰り道には気をつけるように」
「はい……」

 主任が退庁し、一人きりになった事務室。
 会議録のインクも完全に乾いたし、黒崎少佐にお持ちしよう。
 会議録を入れた封書を手に持ち、事務室から廊下に出た。

「……え」

 薄暗くなった廊下の壁に制服を着た男性が寄りかかっていた。

「どうされました?」

 急いで、男性の前に回り込んで駆け寄る。

「――黒崎少佐?」