【短編】冷徹海軍少佐の、世界に一つだけの溺愛

 私が勤務しているのは海軍省 軍務局 文書課。
 入庁して、もう5年目になる。
 私の仕事は主に省内で行われる会議を記録する速記係。
 会議に同席し、速記帳に記録。
 終了後に速記帳を確認しながら会議記録をまとめて清書して、公文書もしくは準公文書として完成させる。
 仕事柄、軍事機密に触れたり、緊張感の高まる場面に居合わせることも多い。
 それでも、私はただ最終的に会議の内容を文字を使って書面へと再現するだけ。
 発言権はなく、一切の感情を排除して臨めるこの仕事にやりがいを持っていた。

「――ただいま」

 建付けの悪い玄関の引き戸を開ける。
 職場から歩いて30分。
 朽ちかけて、外気温と変わらないほど風を通す木造の平屋。
 それが今の私の家だった。

「おかえりー。更紗(さらさ)

 お母さんが私を玄関まで出迎えてくれる。

「――寒かったでしょ? お仕事お疲れさま」
「平気。お父さんは?」
「今日もまだ仕事で帰っていないわ。更紗も疲れただろうし、着替えておいで」
「うん」

 外套の下に身に纏っているのは身体のラインが出ない紺青のふくらはぎすら覆う洋装のワンピース。
 これが事務方の女性職員の制服。
 退庁する時よりも、帰宅して制服を脱いで初めて今日の仕事が完了する気がした。
 着替えて、居間に足を踏み入れると、お母さんが内職で刺繍糸でレース編みを作っている。
 何枚も積み上げられていて、今日も家事をしながら黙々と作業していたことがうかがえた。

「お父さんの帰りを待っている間、私も手伝うね」
「いいのよ。更紗は速記の仕事で疲れているでしょ? 休んでいなさい」
「ううん。こういうコツコツやれる作業、好きだから」

 お母さんの隣に座り、針刺しから刺繍針を一本、指で摘まんで抜き取った。

「……ごめ……更紗、ありがとう」

 謝罪をお礼に切り替えたお母さんの声が少し震えている。
 ――お父さんもお母さんも悪くないから、謝らないでほしい。
 私があの時、伝えたことを覚えてくれているんだろう。
 雨風をやっと凌げる程度のこの家屋で部屋の中央の囲炉裏(いろり)が冷えた身体を温めてくれた。

「ただいまー」

 お父さんの元気な声が小さな家中に響き渡る。
 立ち上がろうとした時には、すでに居間に入ってきていた。

「おー! 部屋の中、あったけえな。生き返る」
「お父さん、おかえりなさい。お疲れさま」
「おっ、更紗。今日はお前のほうが早いのか?」
「今日は定刻で上がれたわ」
「お父さんも、更紗も、すぐに晩ご飯のしたくしますね」

 お父さんが帰宅すると一気に家の中が賑やかになる。
 お父さんの顔は真っ黒に(すす)で汚れている。
 今日の現場も大変だったんだろう。
 小さな卓袱(ちゃぶ)台を三人で囲った。
 麦飯に魚の干物に大根と里芋の味噌汁。
 定番と言えるべき、夕食の献立。

「更紗も、もう25歳になったよな。良い相手はいないのか?」
「――いないわ」

 お父さんからの探りに正直に答える。

「更紗は母さんに似て別嬪(べっぴん)だから、海軍の帝国軍人様から、たくさん声がかかるだろう?」
「一度もないわ。それに海軍省は規律を重んじる場所なの。私は仕事をしに職場へ行っているだけ」

 その回答には少し嘘も混じっているけれど。

「母さんは若い頃、町一番の器量よしの女で男はみんな母さんに憧れたもんだ。父さんは高い競争率を勝ち抜いて母さんと結婚出来たんだよ」
「昔の話はいやですよ。あの頃に比べたら、ずいぶん私も老け込みましたから」
「俺が苦労をかけたからな」
「そうですよ。おかげさまでこんなボロ家に引っ越して、内職までしなくちゃいけなくなって肩こりが治らないわ」

 内容は深刻なのに、お父さんもお母さんも曇り一つなく明るく笑っている。
 そんな両親が私は誇りだった。
 元々お父さんは部品の加工業務を担当する町工場を経営していた社長。
 お父さんは2代目で従業員が2人いて、切り盛りは小さいながらも順調だった。
 私が14歳の頃、従業員の一人が会社の資金を着服して行方をくらませてしまった。
 その人は私の祖父が社長だった時代から経理全般を任せられていた熟練者。
 そこから資金繰りも経営も立ちいかなくなり、もう一人の従業員には円満に辞めてもらい、工場は閉鎖。
 自分たちの生活水準を落として借金してでも、もう一人の従業員に賃金の未払いは発生させず、退職金も多めに出し、取引先への支払も滞らせなかった。

「何か理由があったんだろう。これまで、ずいぶんお世話になったからな」

 と、お父さんもお母さんも会社のお金を持ち逃げした人を責めることもなければ恨み言も言わなかった。
 お父さんの知り合いの伝手(つて)で働き口を見つけてもらい、生まれ育った場所から遠く離れた今の家へと引っ越した。
 以前の工場兼自宅は土地と建物も含めて高値で売却できたみたいだけれど、借金を全て返済できるまでにはいたらず。
 生活環境ががらりと変わってしまい、お父さんもお母さんも私に対して申し訳なさそうに謝られたことがあったけれど、私は謝る必要はないと伝えている。
 女学校卒業後に実務学校へと進学させてくれ、速記の技術を身に着け、今の職場に従事することが出来ているのはお父さんとお母さんのおかげ。
 どんな逆境だって二人は鬱々とすることがなく、常に明るくて、私はそんな両親が誇り。
 私の給金は全て自宅にいれているから、きっと借金の返済の足しに回してくれているはず。
 少しでもお父さんとお母さんに恩返しをしたい気持ちが占めていて、結婚どころか男の人と交際することすら考えられなかった。