***
職務を粛々と務める日々が続き、気が付けば日没が遅くなってきた。
黒崎少佐とは職務での関わりのみ。
私から、あの出来事に触れることも、黒崎少佐から触れられることもない。
「――今回も正確だ。鈴原くんらしいな」
「ありがとうございます」
その日も黒崎少佐の執務室に会議記録を持参し終える。
事務室に戻って、弁当箱を広げると、もう食べ終えたのか市野さんが私のそばまで足を進めてきた。
「鈴原さん、軍務局から内務局付きになるって話はどうなったの?」
「……え?」
「鈴原さんが優秀だから内務局が引き抜きしたがってるって以前から話が出てたらしいわよ」
「……存じませんでした」
「え、そうなの? 上が止めてたって聞いたけど」
それだけ告げると、私から何も引き出せないと思ったのか市野さんは自席へと帰って行った。
同じ庁舎内とはいえ、軍務局とは棟が異なるし内務局区画には滅多に足を向けることはない。
私が内務局付けになれば軍務局関係者と関わることは、ほぼ消滅するだろう。
――黒崎少佐と職務上の接点もなくなる……。
真偽不明の情報に振り回されるわけにはいかなかった。
正式な人事が降りてこないということは考えても仕方ないということ。
終業間際、事務室で私は業務の一つである書類の整理を行なっていた。
今、取り扱っているのは人事関連の回付書面。
『現在の会議運営に不可欠な人員として現任者の継続使用を要す』
見覚えのある美しい文字で書かれた署名。
――黒崎颯真
その文書で私は市野さんに言われたことの背景を理解した。
「先ほどの会議記録をお持ちいたしました」
例によって、黒崎少佐の執務室に清書した会議記録を提出しに来た。
いつもと同じように黒崎少佐は厳かに目を通し始める。
「――申し分ないな。このまま受け取る」
「はい。ありがとうございます」
いつもと同じように退室して事務室に戻る。
特に私の異動の件に話題が及ぶこともなく、似たような日々は繰り返された。
その日、軍務局次長に議事録の内容について呼び出しを受けて機密部分の削除要請に答えていたら、窓の外は暗がりが支配していた。
事務室に戻ると、照明は消されていて1人も残っていない。
私が最後かと必要最小限の照明だけつけて、荷物をまとめていた。
「――鈴原くん」
「黒崎少佐」
「まだ残っていたのか?」
「はい。先ほどまで次長に呼び出されていまして」
「……そうか」
黒崎少佐が事務室まで足を向けることは今までないと言い切ってもいいほどに初めてのこと。
「別の人間が担当した会議記録だが修正事項がある。明日で構わないから文書課の担当者に直してもらいたい」
「かしこまりました。いったん私がお預かりして明日引き継ぎます」
「悪いが頼む」
「はい」
黒崎少佐から封書を受け取る。
人の消えた事務室は物音ひとつしなくて。
耳に痛いほどの静けさがただただ広がっていた。
「――鈴原くんの内務局への異動の件は、いずれ正式に確認が来る」
今まで触れられなかった領域に静かに踏み込まれて、心臓がきゅっと縮まったような感覚が走る。
「その時は自分の希望を伝えるといい」
黒崎少佐が私の職能を評価しているのは知っている。
それでも私の気持ちを尊重してくれようとする姿勢が見られていて。
――8歳の黒崎少佐もそうだった……。
「……私は、まだこの場所でお役に立ちたいと考えています」
内務局への引き抜きは栄転だと呼ばれるもの。
今回の話は客観的な自分への評価として全く嬉しくないかと言われれば嘘になる。
でも、私はまだここで学びたいと強く思ってしまっていた。
「――わかった」
黒崎少佐は一言だけ、そう告げた。
他に何の言葉も足さず、それだけ。
――私、黒崎少佐との繋がりがなくなるのが怖いのだわ。
理由が仕事上のものだけだとは説明がつかないほどに。
でも、私の本音を黒崎少佐に悟られるわけにはいかなかった。
何よりも規律を重んじる黒崎少佐に失望されてしまいそうで。
「――失礼いたします」
これ以上一緒にいたら、黒崎少佐に私情まで見透かされてしまうような気がして、返事を待たずに一礼して事務室を先に出る。
逸る鼓動が私の歩調も急かしていた。
職務を粛々と務める日々が続き、気が付けば日没が遅くなってきた。
黒崎少佐とは職務での関わりのみ。
私から、あの出来事に触れることも、黒崎少佐から触れられることもない。
「――今回も正確だ。鈴原くんらしいな」
「ありがとうございます」
その日も黒崎少佐の執務室に会議記録を持参し終える。
事務室に戻って、弁当箱を広げると、もう食べ終えたのか市野さんが私のそばまで足を進めてきた。
「鈴原さん、軍務局から内務局付きになるって話はどうなったの?」
「……え?」
「鈴原さんが優秀だから内務局が引き抜きしたがってるって以前から話が出てたらしいわよ」
「……存じませんでした」
「え、そうなの? 上が止めてたって聞いたけど」
それだけ告げると、私から何も引き出せないと思ったのか市野さんは自席へと帰って行った。
同じ庁舎内とはいえ、軍務局とは棟が異なるし内務局区画には滅多に足を向けることはない。
私が内務局付けになれば軍務局関係者と関わることは、ほぼ消滅するだろう。
――黒崎少佐と職務上の接点もなくなる……。
真偽不明の情報に振り回されるわけにはいかなかった。
正式な人事が降りてこないということは考えても仕方ないということ。
終業間際、事務室で私は業務の一つである書類の整理を行なっていた。
今、取り扱っているのは人事関連の回付書面。
『現在の会議運営に不可欠な人員として現任者の継続使用を要す』
見覚えのある美しい文字で書かれた署名。
――黒崎颯真
その文書で私は市野さんに言われたことの背景を理解した。
「先ほどの会議記録をお持ちいたしました」
例によって、黒崎少佐の執務室に清書した会議記録を提出しに来た。
いつもと同じように黒崎少佐は厳かに目を通し始める。
「――申し分ないな。このまま受け取る」
「はい。ありがとうございます」
いつもと同じように退室して事務室に戻る。
特に私の異動の件に話題が及ぶこともなく、似たような日々は繰り返された。
その日、軍務局次長に議事録の内容について呼び出しを受けて機密部分の削除要請に答えていたら、窓の外は暗がりが支配していた。
事務室に戻ると、照明は消されていて1人も残っていない。
私が最後かと必要最小限の照明だけつけて、荷物をまとめていた。
「――鈴原くん」
「黒崎少佐」
「まだ残っていたのか?」
「はい。先ほどまで次長に呼び出されていまして」
「……そうか」
黒崎少佐が事務室まで足を向けることは今までないと言い切ってもいいほどに初めてのこと。
「別の人間が担当した会議記録だが修正事項がある。明日で構わないから文書課の担当者に直してもらいたい」
「かしこまりました。いったん私がお預かりして明日引き継ぎます」
「悪いが頼む」
「はい」
黒崎少佐から封書を受け取る。
人の消えた事務室は物音ひとつしなくて。
耳に痛いほどの静けさがただただ広がっていた。
「――鈴原くんの内務局への異動の件は、いずれ正式に確認が来る」
今まで触れられなかった領域に静かに踏み込まれて、心臓がきゅっと縮まったような感覚が走る。
「その時は自分の希望を伝えるといい」
黒崎少佐が私の職能を評価しているのは知っている。
それでも私の気持ちを尊重してくれようとする姿勢が見られていて。
――8歳の黒崎少佐もそうだった……。
「……私は、まだこの場所でお役に立ちたいと考えています」
内務局への引き抜きは栄転だと呼ばれるもの。
今回の話は客観的な自分への評価として全く嬉しくないかと言われれば嘘になる。
でも、私はまだここで学びたいと強く思ってしまっていた。
「――わかった」
黒崎少佐は一言だけ、そう告げた。
他に何の言葉も足さず、それだけ。
――私、黒崎少佐との繋がりがなくなるのが怖いのだわ。
理由が仕事上のものだけだとは説明がつかないほどに。
でも、私の本音を黒崎少佐に悟られるわけにはいかなかった。
何よりも規律を重んじる黒崎少佐に失望されてしまいそうで。
「――失礼いたします」
これ以上一緒にいたら、黒崎少佐に私情まで見透かされてしまうような気がして、返事を待たずに一礼して事務室を先に出る。
逸る鼓動が私の歩調も急かしていた。



