【短編】冷徹海軍少佐の、世界に一つだけの溺愛

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 翌日、私が登庁すると黒崎少佐が元に戻ったと先生が朝から事務室まで来て密やかに教えてくれた。
 朝、先生が黒崎少佐と顔を合わせた時には何事もなかったように、黒崎颯真は黒崎少佐でしかなかったらしい。
 ――黒崎少佐が元に戻った……?
 良かったとは思うけど、8歳に退行していた時の記憶って黒崎少佐に残ってるの?
 手を握ったり、寝巻きを見られたり、寝顔も見られたり、速記文字を教えたり、最後に涙を流した時の話をしたり……。
 黒崎少佐に向かって、立派な軍人になれますなんてことも伝えてしまったり。
 確かに距離が普通よりも近づいていた時間。
 あれを黒崎少佐が覚えていたら……。
 私は少なからず狼狽していた。
 黒板を確認すれば、十時開会の黒崎少佐の会議の速記係は私になっている。
 ――黒崎少佐が私の職務を信用してくれているのは間違いないのよね……。
 動揺していたら会議記録が正確に作成できなくなって黒崎少佐の期待に応えられなくなってしまう。
 私は呼吸を整えた。
 
「――定刻だ。始めよう」

 いつもと同じように黒崎少佐の威厳のある低い声で会議は始まる。
 私はいつもと同じように黒崎少佐が入室してからも速記帳から目を離さなかった。
 だから黒崎少佐を見てはいない。
 けれど、会議室を支配する張り詰めた緊張感や先ほどの声だけで黒崎少佐の権威が伝わってきて。
 ――本当に戻ったんだわ。
 速記記録に集中しながらも、実感していた。
 一時間ほどで会議が終了する。
 部屋から退室していく軍人の方々。
 速記帳を閉じて、私も会議室を出ようと立ち上がろうとした時、

「文書課の君」

 と、男の人の声がかかった。

「はい」

 顔を上げると、話したことのない黒崎少佐の部下である中尉が机越しに立っていた。

「昼時ですし、よろしければ中庭でご一緒しませんか?」

 食事を私と一緒にとらないかと誘われているのだろう。
 稀に今回のようなお声がかかることもあった。

「いえ、私は……」
「――鈴原くん」

 黒崎少佐に声をかけられ、私の体内で心音が主張した。

「今の議事録、出来れば至急確認したい。手が空くようだったら頼めるか?」
「かしこまりました。この後、清書してお持ちいたします」

 要件だけを私に伝えると先に黒崎少佐は退室していく。
 中尉は状況を汲んだようで何も言わずに黒崎少佐の後に続いた。
 まるで何事も……、幼児退行して8歳に戻った時間がなかったように、いつも通り厳格な黒崎少佐。
 やけに自分の鼓動だけが耳についている。
 優先して清書した会議記録を執務室へと届けに来た。
 黒崎少佐の執務室に入れば二人きりの可能性が高い。
 いつもよりも遥かに気持ちが落ち着かなくて、平常心を取り戻すために息を整えてからノックをする。

「――議論の流れも要点も正確だ」

 持参した会議記録に目を通す黒崎少佐は有能で、完全無欠、非の打ち所のない以前と同じ黒崎少佐だった。
 私への接し方も一貫して職務上の線を引かれている関係。

「修正点はございますか?」
「ない。――これで預かる」
「承知いたしました」
「急ぎで仕上げさせて悪かった」
「いえ、問題ありません。失礼いたします」

 小さく会釈して執務室の扉へと向かう。
 これが私と黒崎少佐の本来の距離。
 ――仕事として、それだけで。
 退室しようとした時、

「――世話になった。礼を言う」

 黒崎少佐の声が私の動作を全て停めた。

「……はい」

 黒崎少佐の姿を見られないまま、もう一度、室内へと丁寧に礼をしてから執務室を出る。
 それでも静かな緊張の余韻が身体中にまとわりついていた。
 黒崎少佐が憶えているのか、憶えていないのか、判然としない。
 先生から幼児退行中に私が介助していたと聞かされただけだとも考えられる。
 ――ひどく曖昧で、でも確かめることは出来なくて。
 いつもより事務室までの廊下が長く感じた。