【短編】冷徹海軍少佐の、世界に一つだけの溺愛

 
 彼が入室しただけで電流を帯びたように室内の空気がひりついた。
 すでに着席している誰もが無意識に呼吸を整える。
 耳に痛いほど、静まり返った会議室。
 けど、私が記録するのは空気ではない。
 目の前に広げられた帳面は速記帳。
 だから、私は速記帳に目線を落としたまま、顔は上げなかった。
 ――海軍省技術会議、午前十一時開会。
 今日、私が速記を任されている会議。
 ――海軍少佐 黒崎(くろさき)颯真(そうま)
  顔を上げなくても、椅子の引かれた静かな音と、より引き締まった空気感で黒崎少佐が席についたのがわかった。

「――定刻だ。始めよう」

 1秒すら狂わず、黒崎少佐の低く場を掌握する声で会議は開会した。
 私が今ここで任されていることはただ一つ。
 会議を正確に記録すること。
 速記を使って内容を即時に書き取る。
 後で会議を再現できるほど、沈黙や間も含めて記録しておく。
 だから私は会議の間、速記帳から視線を外すことはない。
 感情は不要、ただの記録装置。
 会議が終了し、文書課の事務室で会議記録を清書した私は黒崎少佐の執務室の扉の前に立っていた。
 ノックを3度繰り返す。

「――はい」

 声色ですら威信が宿る黒崎少佐から扉越しの返答。

「文書課の鈴原(すずはら)です。本日の会議記録を持参いたしました」
「――入れ」

 黒崎少佐の冷徹な低い美声を合図に戸の把手(はしゅ)に伸ばした指先が少し震えていて、緊張を自覚した。
 広い執務机の上に整然と積まれた大量の書類と、壁一面に貼られた大きな海図。
 黒崎少佐は中央で公務の真っ只中だったのだろう。
 背もたれの高い椅子に背筋を伸ばして座ったまま、一枚の文書を手にしていた。
 私は室内を進み執務机越しに黒崎少佐の前に立つ。

「本日の会議記録です。ご確認をお願いいたします」

 持参した封書を両手で差し出すと、

「――早いな」

 と、黒崎少佐は封筒ではなく私の顔を観察するように見上げた。
 黒崎少佐の怜悧な切れ長の鋭い瞳に私が映る。
 理知的で整った顔立ちは美しく、漂う気品に威厳。
 年齢に似合わぬ階級の重さは濃紺の軍服に肩章の太い金線の上に一条の細い線が明示していた。
 ただ、それがなくても黒崎少佐が完全無欠であることは、その隙の無い整った身なりや無駄のない所作からも語らずとも滲み出ている。

「お急ぎとのことでしたので、私が持参いたしました」

 黒崎少佐は私から封筒を受け取ると、開封して中の文書に目を通し始めた。
 心音が少しざわめく。
 黒崎少佐は判断が速く、そこに誤りがあることはないからだ。

「――今回も正確だ」

 一通り目を通し、低音で評価が下される。
 黒崎少佐から高く評されているのだとわかり、

「ありがとうございます」

 と、頭を下げた。

「鈴原くんには至急で対応させて悪かった」
「いえ、職務ですので」
「――下がっていい」
「はい」

 黒崎少佐は無駄な言葉を遣わないと知っていたから、一礼して素直に退室する。
 事務室に戻り、自席に着くなり、ひとつ在職年数が上の補助係の市野(いちの)さんが私の席の近くまでやってきた。

「どうだった? 黒崎少佐」

 丸く柔らかそうな頬を緩め、市野さんが私に問いかけてくる。
 その瞳には好奇心がありありと語られていた。

「普通は文書課を経由して届く会議記録を、わざわざ自分の執務室まで鈴原さんに届けさせたんでしょ?」
「お急ぎだったようです」
「でも、結構な頻度であるわよね。鈴原さんが直接、公文書(こうぶんしょ)を少佐に持参すること」
「黒崎少佐は抱えている仕事が多いので、優先順位上の問題かと思います」
「確かに少佐が私情を挟むタイプには思えないけど。鈴原さんは黒崎少佐と公務以外の話をされないの?」
「一度もありません」

 私の返答がつまらないのか、市野さんは唇を尖らせる。

「若くして海軍少佐。上官ですら厄介な案件は少佐に回して指示をあおぐほどの有能。おまけにあの完璧なまでの美男子で凛々しい容姿。憧れないわけにはいかないわよね」
「……」
「しかも、少佐のお父様はあの艦隊司令長官も経験した黒崎中将よ。例外なく本道を歩いてきたお方で本当に素敵だわ。お近づきになれるものならなりたいと普通の婦女子だったら誰もが思うもの」
「仕事のうえで、黒崎少佐を尊敬はしていますけれど、それだけです」
「鈴原さんって仕事が確かな美人って評判だけど少し変わってるわよね。鈴原さんを気にかけている省内の軍人様たちが多いって聞いているけれど、殿方に興味ないの?」
「……定刻ですので、先に下がらせていただきます」
「……さようなら、鈴原さん」

 市野さんの話を切り上げ、私は椅子にかけていた外套と鞄を手に持ち、退庁した。