日付のない日記

 10月。今まではお客様扱いだったが、いよいよ本格的に研究が始まった。今まではなんとなく研究室に来ていたけれど、研究をするという目的ができた。それも影響しているのかもしれないが、僕と海知は研究室で一緒になる時間は減り、綺麗にすれ違うようになった。僕が帰宅する夕方ごろに、海知が研究室に来ることが多い。
「海知さ、最近なんでそんないつも遅く来るの?朝型だったじゃん」
「うーん。なんか、こっちの方が調子良いんだよ」
 海知は荷物を置きながらダルそうな声で話した。
「まだ…頭痛いのは治ってないの?」
「うん…まあそんなとこ」
「そっか」
 僕と話す時の海知の顔は少し引き攣って見えた。
「じゃあ、またね」
「うん。また」
 僕たちはいつも隣に居るはずなのに、届かない距離を保っている。やっぱり、近づきすぎるのは良くないのかもしれない。適度な距離感が大事ってよく言うけど、こういうことなのか…。
 

 12月。冬休みは輪番で研究室に泊まり込み、定期観測をするのがこの研究室の伝統のようだ。先輩がそのシフトを組み、貼り出される。
「一緒じゃん」
「…だな」
 張り出されたシフト表を見て思わず向かい合った。久しぶりに海知の顔をしっかり見た気がする。僕と海知は一緒に泊まり込むことになったのだ。

 クリスマス。必然的に恋人がいない者同士がこの日のシフトに入るらしい。それを聞くと、僕たちはうってつけだった。
「だから俺たち、同じシフトなのかー」
 海知は大きな声で話しながら、大学の近くの銭湯に向かった。その隣を僕は歩いた。
 脱衣所で服を脱ぎ、身体を洗う。タオルを頭に乗せて、湯船に浸かった。今日の湯は「月光花(げっこうか)の湯」 らしい。こんなの聞いたことがない。見た目は普通なのに、おしゃれな銭湯だと思った。
「めっちゃ気持ちいいー」
「カズってあまり銭湯行かないの?」
「うん、いつも夜には家帰ってるし…そのまま家で風呂入るし。海知は?」
「俺は結構ここ来るんだよ。夜、1人で研究室泊まること多いから」
 僕は初めて海知が夕方から研究室に来て、そのまま泊まっていることを知った。
「そんな無理したら、また身体壊しちゃうよー」
「大丈夫だよ!夕方から研究室に行くようになってから、頭痛もだいぶ良くなったんだ」
「ならいいけど」
 しばらく沈黙が続いた。銭湯の壁に書かれた絵をじっと見ている。
「なあ」
「ん?」
 海知は僕の顔にお湯をかけた。いたずらを仕掛ける小学生みたいな顔をしている。
「うわ、やめろって」
 海知が笑っているのを久しぶりに見た気がした。
「やっぱいいな、こういうの…」
 僕は思わず声が漏れてしまった。
「なんか言った?」
「なんでもない」
 前を向いて、肩まで湯に浸かった。すごく特徴的な香りがした。甘酸っぱい香りの中に、刺すように感じる、高貴な香り…。バラみたいな匂いがする。
「月光花って知ってる?」
「いや、知らん」
「あそこ、見て」
 海知は壁に掛かっている札を指差した。今日の湯の説明が書かれている。

『月光花とは、夜にだけ咲き、月のように白く輝く「月下香(チューベローズ)」のこと。甘美で幻想的な香りがします』

「夜だけに咲く花ってあるんだね…知らなかった」
「なんかさ…最近の俺みたいじゃね?」
「まあ…確かに」
 自然と笑みが溢れた。
「俺、この香り好きかも」
「僕はもうちょい、あっさりした香りの方が好きかなー」
 そろそろ熱くなってきたので、僕は風呂を出た。追いかけるように海知も風呂から上がった。

 外は若干小雨が降っていたので、僕たちは走って研究室に帰った。風呂上がりはあんなに熱かったのに、ちょっと外の風に当たっただけで身体は一気に冷えた。気温は5度まで冷え込んでいる。
 時計を見ると、夜中の0時を回っていた。終電を逃す頃になると、研究室に泊まるという実感が沸く。その空気は昼間とはまるで別物。昼間は賑やかだった部屋も、深夜になると、パソコンのファンの音と、観測データを送信する機械音だけが響く空間に変わる。
 窓の外では雪が降っていた。
「さっきまで雪でもなかったのに」
「……積もりそうだな」
「そうだね」
 気まずいわけではない。でも、研究室でこんなに一緒にいるのも久しぶりだから、無意識によそよそしくなってしまう。今日もそうだけど、なんとなく、最近の海知は、どこか昔と違う気がしていた。僕の日記のようになっていた海知とはまた違う…何かが海知から感じられるのだ。具体的に何とは言えないんだけど、なんとなく。
「カズ、コーヒー飲む?」
「え?あ…飲む」
「ブラックでしょ」
「うん」
「ビンゴ」
 海知が笑った。
 前もこうやって当てられることはあったけれど、なんかテンションが低い気がした。妙に落ち着いたこの感じ…いや、気のせいか。夜までそんなテンション高くいられないよな。
「はい、これ」
「ありがとう」
 紙コップを受け取る。指先が触れた。
「海知、手冷たっ」
「そうかな?カズと変わんないと思うけど…ほら」
 海知は僕の頬に手を当てた。反射的にすぐに手を退けてしまった。いや、おかしい…どう考えても手が冷たすぎる。血が通っていない人のように感じた。胸の奥がざわつく。
「いや、冷たいよ」
「そっか」
 海知はそのまま窓際の席に腰掛けた。窓の外を眺めている。研究室の白い蛍光灯が横顔を照らしていた。
 その光景を見た瞬間、僕は妙な既視感に襲われた。
 窓際。
 静かな部屋。
 外を眺める海知。
 どこかで見たことがある気がするのに、思い出せない。
「……静かだな」
 海知が呟く。
「まあ、夜中だし」
「ここが落ち着くんだよな…」
 海知は窓の外を見たまま続けた。

――タララ……

 海知が急に鼻歌を歌い出した。同時にコーヒーを飲む手が止まった。
 どこかで聞いたことがある。そんな気がした。
「カズ?」
「あ、いや……なんか、その曲」
「え?」
「なんでもない」
 海知は少し首を傾げたあと、また窓の外に視線を戻した。
 雪は静かに降り続いている。
 研究室の時計が、カチ、カチと鳴った。
 その瞬間、微かに音が聞こえた。

――タララ……

「……海知、今なんか聞こえなかった?」
「え?」
「いや……ピアノみたいな音」
 海知は耳を澄ませたあと、小さく笑った。
「何にも聞こえないけど…こんな時間に?こんな場所で?ピアノの音?」
「だよな……」
 でも、確かに聞こえた気がしたんだ。綺麗な音だった。どこか懐かしい、そんな綺麗な音。夢の中で聞いたような…そんな音。
 海知はコーヒーを一口飲んで、ぽつりと言った。
「アラベスク1番」
「って…何の曲?」
「俺の好きな曲ー」
 海知自身も、なぜそんな言葉が出たのかわからないような顔をしている。
 沈黙。
 機械音が響く。耳を澄ますと、やはりその音の隙間から微かに旋律が聞こえる。

 ――タララ……

 僕は胸の奥が妙にざわつくのを感じた。
「海知ってさ」
「ん?」
「昔、ピアノとかやってた?」
「やって…ない」
 不自然な感じで言葉が詰まっていた。その直後に海知は頭を押さえる。
「……っ」
「え、どうした?また頭痛くなったりしてる?」
「いや……最近、俺なんか変なんだよな」
「変?」
「自分じゃない記憶みたいなのが浮かぶ時あって…」
「それってどういう…」
「わかんない。でも、知らない景色が急に浮かぶんだよ」
 海知は急に机に視線を落とした。海知の細い指先が、机を一定のリズムで叩いている。まるで鍵盤みたいに。
「覚えてる?」
「え?」
「夕方の音楽室で聴いてた曲」
 海知の声が僕に話しかけているのに、海知じゃない気がする。
「曲って…どんな?」
 なぜか言葉が出なかった。代わりに、背筋だけが冷えていく。
 海知は顔を上げて、再び窓の外を見ていた。
「カズって経験したことない?誰かの記憶みたいなのが、自分の中にある感じ」
 海知は笑った。その笑い方が、一瞬だけ海知じゃないように見えた。
「独りじゃないって思える感じがするんだよね。自分じゃない誰かになると」
「さっきから何言って…」
 その瞬間…研究室の照明が、一度だけ小さく明滅した。
 心臓が飛び出そうだった。息が荒くなる。
 海知はゆっくりこちらを見た。
 その目は、見たことのある誰か…あの夢で見た殺気めいた人のような気がした。透き通る茶色い綺麗な目。吸い込まれそうなその目の奥は暗闇で満ちている。
 目の前にいるのは海知じゃない。絶対そうだ。僕は目の前の奴の肩を掴んだ。
「海知はどこにいる」
「カズ…何言ってんの?」
「それはこっちのセリフだ」
 僕を睨んでくるその目は、死んでいる。その顔を殴ろうとしたが、できなかった。

――そんなに大事なんだ…海知のこと

 いつの間にか、僕は押し倒されていた。手首を床に押し付けられて動けない。

――理想ばっかり語ってるお前に、海知は…

 手首を掴んでいた手が僕の首を掴んだ。締め付けられて、息ができない。手をどかそうとする気力も無くなっていた。
 こんな時になって、僕は思う。理想ばっかり語って、自分で何か行動したかと問われても、何もしなかった。海知が話しかけてくれて、こんな僕の側にいてくれた。僕の理想に彼が近づいて行った時、僕だけが逃げた。僕は自分が最低だと思った。このまま死んでしまった方が…いい……かもしれない。
 急に押さえつけられていた手が解き放たれ全体重が僕の上に覆い被さった。そのまま優しく僕は腕に包み込まれる。耳元で啜り泣く声が聞こえた。

――え…

 僕は勢いよく上体を起こす。肩にはブランケットが掛けられていた。
「カズー、おはよ。顔に跡ついてんぞ」
「え、あ…」
 研究室の自分の机で顔を伏せて寝ていたらしい。いやいや、それどころじゃない。時計を見ると夜の10時だった。思わず立ち上がった。服も着替えていない。日中に来ていた服のままだ。
「風呂は?」
「これから行こうって思ってたとこ」
「飯は?」
「俺は食ったけど?」
 どうしよう…何も思い出せない。
「僕…何してた?」
「さっきから何言ってんの?」
「え?」
「俺が研究室に着いた時にはもう寝てたからな…」
「そ、そっか」
「じゃ、銭湯行きますかー」
 海知はスタスタと外へ歩いて行った。僕はその後ろをついていくので精一杯だった。
 やばい、本当に何も思い出せない。

――タララ……

 不意に、海知が鼻歌を歌った。
「その曲…何で」
 僕の声は海知に届いていなさそうだった。多分、何も聞こえていない。
「ね、カズ…理想ってさ」
「え?」
「現実にならないから、いいんだよ」
 僕は息を止めた。
「え…」
 海知は自分が何を言ったのかわかっていないようだった。顔が唖然としている。
「…海知?」
「ん?」
「今の、どういう意味?」
「え?」
 海知は本当に困惑した顔をした。
「今、俺、なんか喋ってた?」
 僕は何も言えなかった。沈黙が数秒。
 外の雪は、まだ静かに降り続いている。空気が冷たく、頰が痛い。世界から音が消えていくみたいに感じた。


 この夜は結局、僕たちは何もなかったように定期観測の作業をした。データを送信して、異常値がないか確認する。何にも難しくない作業だった。なのに、キーボードを打つ指先だけが妙に震えていた。首筋が痛い…触れると、じんわり熱を持っている気がした。
 海知はコンビニで買った肉まんを頬張り「やっぱ、冬はこれだよな」と笑っていて、いつもの海知だった。
「もう寝るわ」
「僕も寝る」
 僕は電気を少し落として、観測用のモニターをぼんやり眺める。外では雪が降り続いていた。研究室は静かなはずなのに、落ち着かなかった。換気扇の低い唸り。サーバーの駆動音。その全部の隙間から、まだあの旋律が流れている気がする。
 視線を上げる。斜め前で眠る海知の横顔が見えた。モニターが微かに照らすその顔は青白く見えた。僕は急に怖くなって、視線を逸らした。
 さすがに、そろそろ寝ようかと、さっき僕の肩に掛けられていたブランケットをもう一度広げた。ふわっと甘い花の匂い…肺の奥がひやりと冷えた。机の下に、潰れた紙コップが落ちていた。拾い上げると、中にコーヒーのシミがあるのがわかった。ぐしゃりと潰れたその縁に、薄く指の跡が残っている。まるで、誰かが強く握り潰したみたいに。僕はそれを見つめたまま、しばらく動けなかった。