日付のない日記

 7月。僕は3年生になった。海知と再開して半年くらい。あの日以来、僕たちの間には微妙な空気が流れている。挨拶くらいはするようになった。でも、だからと言って、前みたいに一緒に勉強するとかいうのはなかった。もう会わないと言った手前、今更やっぱり…なんて言えなかった。
 こんな状態のまま、研究室での顔合わせの日が来てしまった。
「相澤和樹です。サークルは入っていません。趣味も特にないです。よろしくお願いします」
 周りを見ればわかる。つまんない奴だな…そう思われている。それでいい。だって、"普通じゃない"僕には何にも魅力なんてないんだから。
「安達(はやて)です!サークルはフットサルです!あ、ちなみに海知と一緒!趣味は…食べることです!よろしくお願いします」
 対してこの安達って奴は、周りを巻き込むムードメーカー。海知もまんざらでもない顔をしている。
「佐々木海知です!サークルは安達と一緒です!趣味は…」
 海知はちらっと僕の方を見たが、僕はすぐに目を逸らした。
「趣味は、音楽鑑賞…ですかね!クラシックとか…よく聴いています」
 思えば、海知の趣味って聞いたことがなかった。
「よろしくお願いします」
 女子達がざわついた。この研究室は理系にしては珍しく、男女比が半々なので、どこか合コンのような雰囲気になりがちである。海知はイケメンだからな…でも、実は訳ありなんだから…なんて、言いたくなった。もちろん、言わなかったけれど。
東美紀(あずまみき)です。よろしくお願いします」
「渡邉沙耶(さや)です。よろしくお願いします。」
 こんな感じで自己紹介が続き、僕と同じ研修室には5人が配属されることになった。
 それぞれテーマを持って研究することになり、研究室に1人1席が与えられた。僕たち3年は端から5人並ぶことになる。
「席の並び順、くじ引きで決めようぜ」
 安達が言うことは絶対だ。実際、彼が何でも引っ張ってくれるので、嫌だという人はいなかった。彼の才能だろう。こういう人がいると何も考えなくていいから楽だ。
「せーのっ!」
「俺3番!」
「私1番…」
「私2番!え!美紀ちゃんの隣!」
「海知は?」
「え、俺は4番…」
「僕は5番…です」
 僕と海知は目が合った。運命というのはなんて意地悪なのだろうか。
「なんかいい感じに決まったな!これで教授に言っとくわ!」
「ありがとう!」
 周りは盛り上がる中、僕の周りだけ微妙な雰囲気が漂っている気がした。

 僕らは研究室に席が与えられてから、毎日行くようになった。もちろん、海知もそこにいる。日常は時に残酷だ。曖昧な関係の僕らはまた毎日会う羽目になった。でも、今回は"必然"である。毎日会っていたあの日々とは別物だ。そこを忘れてはいけない。
「おはよう」
「お、おはよう」
 隣の席の椅子がキシキシと音を立てた。朝の9時。大学生にしては早すぎて、研究室には誰もいない。
「あ…あのさ」
 海知は律儀にこちらを向く。
「その…この前はごめん」
 目を合わせることなく、頭を下げる。
「逃げてたのは…僕の方だったかもしれない」
「この前って、いつの話だよ」
 まともに目を合わせて話したのはいつぶりだろうか。若干、自分の声が震えている気がした。
「いつだっけ」
「半年くらい前の話。忘れかけてたのに、思い出させないでよ」
「それは…ごめん」
「そんな”ごめん”ばっかり言うなよ。でも…あの日は僕も感情的になってたというか…素直になれなかったっていうか…ごめん」
「カズこそ、ごめんって言うなよ」
 僕も無意識に頭を下げていた。同時に、心に詰まっていた何かが取れたような感覚がした。
「なんか、俺、嬉しいよ。もう一度、向き合ってくれて」
「僕…もう、前みたいにならないように、頑張るから…」
「頑張らなくていい。ってか、頑張るもんじゃない」
「でも…僕は…」
「俺がおかしかったら、また言って欲しい。怖かったら、逃げずに伝えて欲しい。俺は、絶対カズの前からいなくなったりしないから」
 海知は僕に小指を出してきた。そのまま頷いて、僕も小指を絡め、約束を交わした。
「おはよー」
 研究室に続々と人が入ってきた。今日はなんだか、いい気分になりそう。

 昼過ぎになると、研究室の空気は少し緩む。安達が「アイス買いに行く人~!」と騒ぎ始めるのが合図だ。
「俺ガリガリ君」
「私はパピコー」
「東さん毎回それじゃん」
 そんな会話を聞きながら、僕はパソコンに向かっていた。
「和樹は?」
「…いいよ」
「またそうやって遠慮するー」
 安達は僕の腕を強引に引っ張った。
「おい」
 同期の目が行けと言っている。
「ほら、行くぞ!」
 そう言ってみんなで研究室を出ていった。

 コンビニから帰ってくると急に静かになる。隣の椅子がまたキシキシと音を立てている。
「カズ」
「ん?」
 海知がアイスを食べながら僕に話しかけてきた。
「最近、ちゃんと飯食ってるか?」
「食べてるよ」
「嘘。今日まだそのアイスしか食ってない」
「なんで知ってるの」
「見てたから」
 その返答に、一瞬だけ呼吸が止まりそうになった。海知は何にもなかったかのようにモニターに視線を戻し、キーボードを打ち始める。悔しい…けど、少し嬉しいのも、嘘じゃない。
「何があっても、飯はちゃんと食わないと」
 海知はコンビニで買ったスコーンを僕に渡した。
「あげる」
「あ、ありがとう」

 こうして1日過ぎていき、また次の日の朝を迎える。

「おはよう」
「おはよー」
「なあ海知、そこ僕の席なんだけど」
「いいじゃん、ここ充電器あるから便利だし」
「うん…まあ別にいいけど」
 時々、僕たちは席を交換することも多々あった。勝手に海知が僕の席に座っているから仕方なく、だけど。口角が上がるのを手で隠す。
「なあ、2人ってさ、ずっと仲良いの?」
 海知が昼寝しているタイミングでで安達が隣に来た。
「うん…まあ」
「へー、やっぱそうなんだ」
 馴れ馴れしく、僕に近づいてきた。
「どうしたんだよ、急に」
「いや俺さ、海知に聞かれたことあるんだよ。和樹がどこの研究室行きそうかーって」
「え、そんなことあったの?」
「うん、でもさー。結局、そういうのって人伝(ひとづて)に聞くの、良くないじゃん?だから、俺が海知を一緒の研究室に誘ったの」
 正直、驚いた。海知がそこまで気にしていたのか?というのもだが、僕たちが再開したのは"偶然"だったことに驚いた。
「そうだったんだ…」
「そう!で、まさか一緒になるなんて思ってなかったから、俺、めっちゃびっくりして。そうやってさ、席交換ちゃったりとかもして…」
「いや、これは…朝、海知の方が早く来てて、僕の席に座ってるから、仕方なく…」
「ほんと?」
「本当だよ」
 安達は僕の肩を組んだ。耳元で小さな声で話す。
「もしかしてだけど。2人ってさ、付き合ってる?」
「そ、そんなわけ!」
 耳が熱くなるのを感じた。別に付き合いたいとは思っていないが、そう見えていることに猛烈に恥ずかしさを覚えた。
「ごめんごめん、冗談だって!それくらい、仲良いなって思っただけだよ」
 安達に肩をポンポンと叩かれた。横を見ると、海知はまだ昼寝をしていた。さっき頭が痛いと言っていた。僕はそっと海知の肩にブランケットをかけておいた。蛍光灯の白い光が、海知の長いまつ毛を薄く照らしていた。

――綺麗だな。

 そう思った瞬間、胸の奥がざわつく。ん?海知ってこんな感じだったっけ。もっと別の、知らない誰かを見ている気がした。
「タラ、ラ……」
「びっくりした…」
 急に寝言を話し出したので思わず息を止めた。どこかで聞いたことがあるような旋律だった。

 これが、僕らの新しい日常である。


 8月。ゼミ合宿の日が来た。今年は女子大生と合同だということで、周りの奴らは喜んでいたが、僕は嫌で嫌で仕方なかった。ゼミくらい、慣れ親しんだ環境でやればいいのに。なんでわざわざ他校の人…しかも、女を呼ぶんだよ。多分、海知も同じことを思っている…はず。
 昼は全員の研究の中間発表を聞く。3年生はまだ研究を始めて時間が経っていないので、ただ話を聞いて、感想文を書くという退屈な時間を過ごした。しかも、女子大との合同なだけに、時間がとてつもなく長い。
 横を見ると海知は寝ていた。
「おい、起きろよ」
 少しゆすったのだが、びくともしなかった。教授と目が合った。そいつを起こせと言っているようだった。僕は海知の足を思いっきり踏んだ。
「痛っ!」
 周りの視線が一気に集まる。
「…すいません」
 海知はきょとんとして、そのまま前を向いた。ああ…とても空気が悪い。

 夜は全員でバーベキューをした後、宴会場で飲み会がある。この時間が僕はものすごく苦手だった。飲み物は酒しかなく、喉が渇いた状態で飲むとすぐに酔いが回った。全員がいい感じに酔ってきた頃、急に合コンのような雰囲気になる。男子は女子に囲まれ、もはやキャバクラ状態だ。特に、安達なんかはトークが上手いだけあって、まだ3年だというのに、すごい人気だった。
「相澤君って、どんな人がタイプなのー?」
「まあ…優しい人、ですかね」
「えー!意外なんだけど~」
 ああ…もう全員安達の方に行ってくれ…。
「ちょっと相澤君借りますー」
 同期の渡邉さんがビールを片手に話しかけてきた。僕の救世主。
「ねえねえ、相澤くん。佐々木君見てない?」
「え?」
「いろいろ探しに行ったんだけど、どこにもいなくて…」
「まじ?ちょっと探してくるよ」
 この場から逃げられてラッキー!なんて小さい感情で、とにかく心配だった。僕は無心で海知を探しに外へ出た。真っ暗で街頭もなく、何も見えない。スマホのライトをつけた。夜は門が封鎖され、セミナーハウスから外へは出られないようだ。流石に、門の外へは出ていないだろう。運動場の裏、ベンチ、フロント…どこを探してもいなかった。流石に心配になり、電話をかけるが、出なかった。彼がいるとするなら…もしかして。僕は3階の男子部屋に向かった。
 この時間はみんな宴会場に行っていて、部屋には誰もいない。廊下はとても静かだった。305号室のドアに手を掛け、中に入った。
 窓のカーテンは開けられていて、月明かりが差し込んでいる。月明かりの照らす先…彼は上半身裸でシャツを頭にかけて机の上で項垂れていた。
「何してんだよ。服着て」
「……」
 海知は何もしようとしなかった。項垂れたままだ。
「ほら、起きて」
 無理やり起こさせると、目が充血しているのが分かった。酔っているのもあるだろうが、それだけではない気がした。そのまま服を着させて、水を飲ませる。
「落ち着いたか?」
 黙ったままだった。今にも泣きそうな顔をしている。
「…カズ…こっち、来て」
 彼は僕を隣の席に誘導した。僕は彼の隣に座る。すると、僕の肩に頭を乗せ、話し始めた。さっきの様子とは一転しているように感じた。
「やっぱり、俺…恋愛とか無理だわ」
 僕は黙って頷いた。
「なんであんなにさ、恋バナで盛り上がってさ、恋人いない人は人権ないみたいな言い方するの」
「うん」
「なんでさ、俺みたいな人間はさ、欠陥品みたいな風になっちゃうの」
「うん」
「なんでさ…」
 海知の心の叫びを聞いていると、忘れ去っていたあの違和感が蘇る。やっぱり、彼の発する”言葉”は、僕の過去の”言葉”そのものなのだ。でも、そんなのどうでもよかった。彼がここまで弱っているのを見るのは初めて見た。どんなに偶然が続いても、どんなに僕の日記みたいになっても、僕が海知を大事だと思うこの気持ちは変わらない。あの時、海知は僕を見離さないでいてくれた。だから、今日は…。
「俺さ、やっぱりカズと…」
「それ以上、言わないで」
「だって」
「それ以上…言わないで。わかってるから」
 彼は僕に抱きついてきた。
「ごめん…。ありがとう」
 何に対して謝ったのだろうか。僕の中ですごく引っかかっている。
 海知はもう話すのも辛そうな感じがした。この環境がキャパオーバーだったのかもしれない。海知って、見た目以上に繊細だから。
「海知…甘えていいのは、今日だけだからな」
 海知は僕の腕の中で泣いていた。窓の外で満月が輝いている。


 扉が開く音がした。渡邉さんだった。
「相澤君…電話しても出ないから心配になっちゃったよ…」
「あ、ごめん…」
「佐々木君、大丈夫だった?」
「頭が痛いみたいで…最近、片頭痛が酷いって言ってたから」
「お酒飲んだから良くなかったのかしら」
「多分、そんな感じだと思う」
「そっか…とりあえず、見つかってよかった」
 僕は海知をベッドに寝かせた。こぼれ落ちる涙を隠すように拭き、布団を被せた。

 2日目はほとんどの人が二日酔いで口数が少なく、平和に終わった。
 こうしてゼミ合宿は無事に終わり、平凡な日常へと戻ったのだ。