日付のない日記

 僕らが会わないと決めてから、2か月。新学期が始まり、2年になった。まだ必修科目があるので、授業は被ってしまうものが多い。会わないと言ったのに…結局、運命には逆らえない。

 ある日の図書館。僕は奥の席へ行き、荷物を置いた。課題の本を探しに本棚を探し回る。あった…少し高い位置に本を見つけた。本を取ろうとすると、本棚の隙間から海知が見えた。同じように本を探しているようだった。でも、何も言わない。
 席に戻ると、海知と目が合った。海知は目を逸らして、図書館から出て行った。僕も何も見なかったことにする。鞄から参考書を取り出し開くと、そこには海知の字でメモが書かれた付箋がまだ貼られていた。

 ある日の食堂。今日のメニューに唐揚げがあった。無意識に頼みそうになる。横を見ると、注文を終えた海知がトレーを持って席に行くのが見えた。そこには唐揚げが乗っていた。
「生姜焼きで」
 注文を終えて、出来上がるを待った。その間に水を取る。
「あ…」
 気づいたときにはコップ2つに水を汲んでいた。
 料理が出来上がるとそのまま席に戻った。
 1人で昼ご飯を食べるとやけに雑音がうるさく聞こえた。
 
 ある日の授業。午後に雨予報が出ているのに、僕はこの日、傘を忘れた。外を見るとまだ雨は降ってなさそうだった。授業が終わり、急いで外に出る。しかし、もうザーザー降りの雨になっていた。
「ちょっと時間潰すか…」
 空き教室を探しに建物に戻ると、傘を持つ海知とすれ違った。前なら海知が当然のように入れてくれた。でも、今は…振り向くと海知はそのまま傘を差して外に出て行った。

 僕たちは時間も場所もバラバラなはずなのに、なぜか同じ場所にいることは多々あった。その度に目が合い、その度に意図的に場所を変えた。まるで、会っていないという事実を捏造するように…。
 自習をする時間も減った気がする。前までは、海知に会うため…に行ってた部分が多かった気がする。でも、今はそんな用事も消えた。その分、バイトを入れる日が増えた。
「相澤君…なんか元気ないわね」
「え、あ…すいません。考え事してて」
「失恋でもした?」
 皿を洗う手が止まった。
「そういうのでは…ないと思うんですが」
「あら、そうなのね。てっきり恋愛の悩みかと思ってたわ」
「…すいません」
 店長はそのまま立ち去った。普段は滅多に話しかけられないのに…。僕は明らかに変化しているんだと思う。
 前の僕なら、今日の問いかけに対してそんなのありえない!と拒絶していたかもしれない。というより、そもそもここまで落ち込むことはないと思う。でも、今日はきっぱり断ることができなかった。


 7月。時間は本当に早いもので、もう前期が終わろうとしている。結局、海知とは2年になって一度も話すことなく、夏休みになってしまいそうだった。どこか名残惜しい自分がいる。いやいや、ダメだ。会ってはいけないと自分に言い聞かせ続けた。
 課題が全然終わらない。課題の難易度や量が1年の時よりも増えた気がする。もし、海知が近くにいたら…スマホを取り出し、チャットを開く。

「電磁気の課題、見せてくれない?」

 あっぶね…。心の声が漏れた。危うく送信ボタンを押すところだった。だから、ダメなんだってば…僕たちは会ってはいけないんだ。メッセージを消してチャット画面を閉じた。
 サークルにも入っていない僕は周りに頼れる人が1人もいない。今更、新しい人と関わる気力もなかった。僕は今までどれだけ…。
 前は聞く人がいた。頼れる人がいた。でも、今は…1人でやるしかなかった。僕は今、フリースペースでパソコンを開いている。


 8月。前期は無事終了。結局、成績は格段に落ちてしまったのだが、落単はせずになんとか乗り切ることができた。1人でもいけるじゃん!とはならなかった。
 僕たちの大学は3年生の後期から研究室が始まる。後期は研究室の選考があるから頑張らないと。成績がないとブラック研究室に入ることになる。それだけは避けたかった。
 バイト帰り、ポケットでスマホが振動した。慌てて取り出したが、ただの天気予報だった。メッセージなんか来るはずない。僕は何をそんなに期待しているというのか。
 スマホを開いては閉じる…これを何度も繰り返してしまう。
「会いたいな…」


 9月。大学2年、後期が始まった。後期からは必修科目がなく、選択科目しかない。普通なら、同じ学科の人と授業が被ることも少なくなってくる。意図的に合わせなければ、一緒になることはない。いやいや、何を考えているんだ、僕は…。
「やばっ!」
 僕は2限の授業のために走り出した。

***

「カズ…」
 今日も避けられた。どこへ行くにも、カズがいないか、無意識に探してしまう。
 もう前期の時からずっと避けられている。目が合うたびに、カズは俺の前から姿を消す。いつか、また前の状態に戻れるだろうって、また笑い合えるだろうって思うのに…こんなにも頑なに、ずっと距離を置かれるのは…俺が待つことしかできていないからなのかもしれない。
「ねえ、海知くん」
「どうした?」
「どうした?じゃないよ。さっきからずっと私の話聞いてくれない」
「…ごめん」
「海知くん…私たち、別れようか」
「え、なんで?」
「私以外に好きな人、いるんでしょ?」
「いや、そんなことは…」
 はっきりと”いない”とは言えなかった。反論する余地もなく、彼女は目の前から去っていった。
 彼のことを思う度、頭が痛むのも、もう離れた方が良いと誰かが言っているようだった。
 最近は頭も痛くなることが少なくなった気がする。そりゃそうか、カズと会ってないから。俺の中に潜むその想いに意味はないということなのかもしれない。それもまた、心のどこかで悲しくなる自分がいるのだ。
 もう、この頃には彼女にフラれたことなんて、微塵も記憶に残っていなかった。


 11月。俺は研究室の選択を迫られている。
 冬休み前までに、希望の研究室を書いて提出するように教授から言われた。締め切りまであと1ヶ月を切っている。正直、こだわりはなかった。
「海知〜、研究室どこにすんだよ」
「ちょっとまだ迷ってる」
「珍しい…海知こういうのいつも即決だったじゃん」
「まあ…ちょっとね」
 俺が大学に来る意味とは何なのか。ふと考えた。
「なあ、安達…ちょっといいか?」
 安達は同じサークルで同じ学科の友達だ。俺のことをまあまあ知っている。
「”相澤和樹”ってやつ、いるだろ?あいつがどこの研究室行きたいか、知ってるか?」
「いや。知らんけど…なんで?」
「あ、あいつ頭良いから、どの研究室が人気になりそうかの目安になると思って!」
「なるほど~確かにそうかもな!でも、俺、あいつのことあんまり知らないし…」
「学籍番号近いだろ?どっかの授業で聞いてみてくれないか?」
「うん…まあいいけど。話せたらな!」
「聞いてくれたら焼肉おごるから!」
「まじ?それは前向きに検討する!」
「ありがとう」
 変な汗をかいた。俺は何に必死になっているんだろうか。自分でも自分がよくわからなかった。

***

 1月。冬休みが明けて、研究発表の日が来た。順番が近づくにつれて、鼓動が早くなるのを感じた。名前が呼ばれると、研究室のメンバーが書かれた紙が渡される。

「20A003 相澤和樹」

 僕はその紙を受け取り、静かに席についた。ここに僕が残りの学生生活を共に過ごす仲間の名前が書かれている。震える手でその紙を開いた。
「終わった…」
 見間違えるはずがない名前に思考が停止してしまった。

「20A021 佐々木海知」

 彼のことを無意識に凝視していた。彼はすぐに紙を見て、席に着く前に足が止まった。ほんの一瞬、視線がぶつかる。彼の目がわずかに揺れた気がした。けれど、それだけだった。何事もなかったかのように、海知は席に戻った。
「海知!俺と一緒だな!」
 いつも海知と一緒にいる奴の声が聞こえた。安達、という奴らしい。紙にもその名前が書かれていた。
「おう!よろしくな!」
 聞き覚えのある声が聞こえる。以前と何も変わらないその声は、どこか遠くから聞こえてくるようで、うまく現実と結びつかない。淀みがなく、整いすぎているその声…。胸の奥がざわつくのはなぜだろうか。僕はしばらく、この場から動けなかった。周りの人がいなくなっていく。全員に紙が行き渡り、この後は自由解散みたいだった。
「久しぶり」
 背中越しに声が落ちた。振り返るべきか、一瞬迷う。でも、迷った時点で、答えは出ていたんだと思う。ゆっくりと振り向くと、そこには、あの海知がいた。真後ろの席にいる彼が妙に遠く感じた。
「……久しぶり」
 1年ぶりの再会。やっとの思いでそれだけ返す。海知は少しだけ笑った。見慣れていたはずのその表情が、わずかに違って見える。
「研究室…一緒だな」
「うん」
「よろしくな」
 僕は窓の外を眺めた。心を無にする。
「カズ、やっぱり変わってないな」
 急に僕に触れようとしてきたので、咄嗟に避けた。彼を見ると、胸の奥が小さく揺れる感じがする。何も言い返せなかった。“変わってない”のは、どっちなんだろうと思ったから。
「海知は……」
 言いかけて、言葉を飲み込む。変わった、とは言えなかったし、変わっていないとも思えなかった。
「ずっと、探してた」
 先に落とされた彼の一言に、呼吸が止まる。思わず顔を上げると、海知はまっすぐこちらを見ていた。
「会わないようにしてたのにさ。結局、会っちゃうんだよな、俺たち。探さなくても、会えるんだよ」
 どこか楽しそうに言うその声に、背筋が冷えた。
「……いや、偶然だよ」
 自分でも驚くほど、声が冷たくなった。無意識に彼に背を向けている。
「そう思わないと、困るんだ」
 近づいてくる彼とは距離を取らなければいけない。身体が勝手に判断していた。
 後ろに下がるが、机にぶつかってしまった。
「俺は、やっぱりカズといたい」
 間を置かずに返ってきた言葉は、あまりにもまっすぐだった。逃げ場がない。
「僕は、海知を壊したくない」
 気づけば、そう口にしていた。海知の表情が、一瞬だけ止まる。
「壊れるわけないだろ」
 小さく笑う海知がいた。その笑い方に、知らない違和感が混じる。
「やっと見つけたのに…そんなこと言うなよ」
 その一言が、やけに引っかかった。海知はこんな風に言うだろうか。だってさっき、探さなくても会えるって…。
 今までは感じたことのなかった"嫌味"のようなものを感じた。
「……ごめん。やっぱりこれ以上は、だめだ」
 僕は視線を逸らしたまま言う。
「なんでだよ」
「海知が、海知じゃなくなる前に、僕は…」
 静かに落とした言葉は、自分でも驚くほどはっきりしていた。海知はしばらく何も言わなかった。何かが揺れた気がした。けれど、それはすぐに消えた。
「それでもいい」
 迷いのない声だった。だからこそ、怖かった。
「カズが俺のことをどう思ってるのか、わからないけど、俺は俺だから。自分の選択は自分で責任を取る」
 無意識に立ち上がり、気づけば廊下に出ていた。少し遅れて、扉が開く音がする。
「なあ、カズ!」
 腕が掴まれた。あの時よりも強く、痛かった。
「ずっと言おうと思ってたけど、お前おかしいよ」
「え…」
 頭が真っ白になった。さっきの彼の笑顔はそこになかった。
「カズのせいで俺が変わってるとか言ってるけどさ、俺から見れば、そっちが別人になったみたいに見えるよ…出会った時のカズはこんなんじゃなかった」
「何…言ってるの?」
 ここまで本気な海知は初めて見た。同時に、さっきの”嫌味”なんかじゃなく、純粋な気持ちがあふれているのがわかった。ここまで本気だと、もう、自分の行動に何一つ自信を持てなかった。
「俺も怖かったんだよ…カズが俺の…俺の憧れの人にすごく似てきている気がして…」
「それは…どういう…」
「その人はもうこの世にはいない。でも、カズを見ていると、なぜかその人が思い浮かんでくる」
 背筋が凍るような感覚がした。前に何度か感じた感覚と似ている気がする。
「俺もだけど、自分が変わったのかって、気づけるもんじゃないと思うんだ」
 彼は少し目を逸らす。
「だから、俺が何が言いたいかって…」
 海知が僕の腕を掴むその手は、もうすっかり緩んでいた。
「勝手に決めんなよ」
 彼の真剣な眼差しが僕を突き刺した。僕は頷くことしかできなかった。僕が海知が変わっていくのが怖かったように、彼もまた僕が変わっていくように見えていたのなら…。
「わかった」
 海知は僕の腕から手を離した。
「ちょっと僕たち、深く関わりすぎたのかもな」
 しばらく沈黙が続いた。
「前みたいにいつも一緒にとは言わない。でも…離れないで」
 振り返らないように、僕はその場を離れた。
「そう言えば、彼女とはどうなったの?」
「そんなの、とっくに別れた」
「そっか…」
 僕は彼の顔を見ることなく、そのまま離れた。

――僕たちは、どう変わってしまったのだろうか