会いたくないなんて言われたくなかった。こんな感情を俺は知らない。
スマホのチャット画面を開く。俺はそこまでチャットをしないので、トーク欄自体少ない。その訳は画面をスクロールすればわかる。5年前で止まっているメッセージ。さすがに名前は消えている。でも、トークは消せないのだ。最後のメッセージは俺の”待ってるから”の一言だった…。
俺は高校生の時、昼休みに音楽室に行くのが日課になっていた。窓際のあの椅子に座るあの人に会うために。俺はずっと、あの人のことを忘れられないでいる。
急な雷雨があった、とある夏の昼休み。俺は渡り廊下を歩き、音楽準備室に向かった。
「すいません。遅れてしまって」
「佐々木君さ…最近、提出忘れ多いわよ」
「…すいません」
「次忘れたら、ペナルティあるからね。わかった?」
「はい……失礼しました」
ドアを閉め、ため息をついた。
夏休みまであと数週間。提出物ラッシュで普段の怠惰のしわ寄せがきている。だらしない俺は、先生から指導を受けることが多々ある。その割に、メンタルが強いわけではない。毎回、なんだかんだで引きずってしまうのだ。そんな自分を隠すように、クラスでは空元気で振る舞っている。自分でも自分が嫌いだ。
渡り廊下を歩き切れば、あの自分に戻らなくてはならない。覚悟を決めて大きく息を吸った。
――タララ…
聞いたことのない綺麗な音…俺の足は勝手にそちらを向いていた。
恐る恐る隣の第2音楽室の扉を開いた。誰かがピアノを弾いている。譜面台で顔は見えないが、学ランを着ている誰かなのはわかった。こんな繊細な音を奏でられる男子がこの学校にいたのか…。その音色に引き込まれるように、グランドピアノに近付いて行った。
急に音が止まった。
「誰…?」
「え、あ…ごめん。すごい、綺麗な曲だなって思って…それで…」
譜面台の隙間から覗く目は茶色くて、鋭くて、透き通っている。その視線が俺の心に突き刺さった。手招きされて、俺は彼に近づいた。操り人形のように、足が勝手に動くような、そんな感覚がした。
「名前、教えて」
ピアノのあの椅子に座って上目遣いで見つめられた。その顔は美しく、妖艶な雰囲気を放っていた。
「3組の佐々木海知…。海を知ると書いて、かいち」
「ああ…いつも廊下でうるさくしている集団の1人か…」
「それは言わないでもらって…」
彼は急に俺の肩を掴んだ。俺は体制を崩して咄嗟にピアノに手をつく。ペットボトル1個分の距離にその綺麗な顔があった。
「君は私と同じ目をしている」
瞳孔が開くのがわかった。少し怖くなって、突き放してしまった。
「なんだよ、急に…」
彼は笑っていた。
「5組の相沢香月。香る月の書いてかづき。よろしく」
手を差し出してきたので、なんとなく握り返した。
「…よろしく」
手を握ってわかった。声を聞いた時になんとなく気づいてはいたが、俺とは違うことは本当みたいだ。優しくその柔らかい手を離した。
「あのさ、聞いちゃいけないかもなんだけど…」
「じゃあ、聞かないで」
さっきの笑みはなくなり、ピアノに向かってしまった。
「ごめん…」
「謝る必要ないじゃん、聞いてないんだから」
「そっか…」
不思議な雰囲気を放つ君と俺はまだ話がしたかった。なぜだろうか。君といると、俺は俺でいられる気がした。
「あのさ、さっきの曲…なんて曲?」
「ドビュッシー。アラベスク1番」
「すごい、綺麗だった」
「もう1回弾こうか」
「うん、お願い」
「いいよ」
少し微笑んで、弾き始めた。俺は音楽室の1番前の席に座った。その音はどこか切なくて、響き渡るその1音1音に強いメッセージを感じる、不思議な音色だった。最後の1音が音楽室から消えると静寂になった。
「うまく言葉にできないけど…良い曲だった」
「そう言ってもらえて嬉しい」
その微笑みに俺は不思議なくらい惹きつけられる。
「で、さっき、なんで聞こうとしてた?」
「え?」
「あぁ…あなたなら大丈夫な気がしたから。こっちこそごめん…遮ってしまって」
そうは言われても、きっと聞いてはいけないんだと思う。俺は黙り込んでしまった。それを察するかのように彼は話し出す。
「女の子だよ、私」
「え、あぁ…そうなんだ」
「気になってたんでしょ?ずっと」
「まあ、そう」
「あまり気にしないでいいから」
「他の人にも言ってるの?」
「言ってない…けど、みんな気づいてるよ。私、声高いし、ピアノやってて指細いから、バレバレなんだよね」
「でも、なんで俺には言ってくれたの?」
「あっち、行きたくないんでしょ」
彼女は窓の外の教室棟を指差した。
「まあ…そうかもしれない。なんで、そんなこと聞くんだ?」
「こんな長く私と話す人なんていないから。帰りたくないんだろうなーって思って」
彼女に俺は心を見透かされているみたいだ。
「君も帰りたくないの?」
「うん…ここが1番落ち着くんだよ」
きっと女だと気づかれたくないんだろう。
「勘違いしないでね?私がこの格好をするのは、"あいつら"とは違うぞっていう意思表示。別に男になりたいわけではない」
「そう…なんだ」
やっぱり、俺は彼女の心を何一つ見抜けていないようだ。
「ちょっと来て」
「え…」
彼女は俺の手を掴んでカーテンの奥の窓のところまで引っ張ってきた。窓の外には教室棟があり、所々でカップルが窓際でイチャイチャしているのが見えた。
「私、ああいうのが嫌いなの。だから、女として見られたくなくて、学ラン着ている。声さえ出さなければ、私は男から声かけられることもない」
彼女の目は死んでいた。
「ごめん、じゃあ…俺、話しかけて嫌だったよな」
「最初はね。でも、あなたは私と似ている気がしたから、大丈夫」
「え…それってどういう…」
随分はっきり言う奴だと思った。
チャイムが鳴った。
「私は戻ろうかな…あなたはどうするの?」
「ああ…流石に戻るよ」
彼女はピアノの蓋を閉めた。電気を消して、音楽室から出ようとしている。
「あのさ」
彼女は俺の方を向いた。女子にしてはやや背が高いんだろうが、男にしては小さめなのだと思った。
「香月で良いよ。次から香月って呼んで」
「うん、わかった」
俺らは教室を出て、渡り廊下を歩いた。
「じゃあ、またね…海知」
教室へ戻っていく彼女の後ろ姿にさっきの覇気は感じられなかった。
――あなたは私と似ている気がしたから大丈夫
俺の中でこの言葉がずっと響いている。
翌日。しんどい昼休みがやってくる。
「海知!一緒に飯食おうぜ」
「…あ、ごめん。今日厳しいわ」
「お前また提出物忘れてんのかよー」
「まじごめん」
俺は何の用事もなかったが、あの音楽室に向かった。あいつらと飯を食うくらいなら、俺は奇跡に期待したい。昨日のように音はなかったが、何かあるかもしれないと思い、ドアを開けた。昨日見た、あの後ろ姿が見えた。窓際に座っている。
「香月」
彼女は振り向いた。
「今日も来たんだ」
「うん」
「なんで?」
「なんとなく…じゃ、ダメかよ」
彼女は少し微笑んでいた。
「そういうの、嫌いじゃないよ」
香月は俺に隣に座るように勧めた。香月はここで毎日弁当を食べているらしい。こんなにも落ち着くのは初めてだった。
「あのさ」
「ん?」
「連絡先…交換しない…?」
彼女の目が綺麗なだけに、なんか怖かった。静寂は、時に狂気と化す。言った後で後悔した。
「いや、その、嫌じゃなかったらで全然良いし、そんな俺なんて…」
「いいよ」
「え、ほんと…?」
「ん、これ」
「え…」
彼女はスマホを差し出した。俺は戸惑ってしまった。
「要らないの?」
「いや、いる。ありがとう」
奇跡って起きるものなのか。自分で頼んでおいて、驚きを隠せない。香月のチャットのプロフィール画面を見る。アイコンはピアノの写真で学ラン姿の彼女とはイメージがかけ離れていて、脳がバグりそうだった。
「あ、言っとくけど、私、返信遅いから」
「全然良いよ」
「あと、無意味な会話は無視するから」
「全然良い」
「じゃあ、なんで連絡先欲しいって言うんだよ」
「え…いや、その…また飯食いたいなって…ダメか?」
香月は微笑んでまた俺に顔を近づける。
「やっぱり、海知は私と同じだな」
今日は突き放さなかった。俺の肩に置かれた彼女の手をゆっくりと離す。
「その”私と同じ”って…前から思ってたけど、何なの?」
「気づいてないだけ。いつかわかるよ」
彼女はまたそっぽを向いてしまった。すごく自由な人なんだと思った。俺は後味がすごい悪かった。
「なあ」
彼女は振り向く。
「今日はピアノ弾かないの?」
「なんか今日は気分じゃない」
「そっか…」
チャイムが鳴った。
夏休みが明け、秋になった。俺は毎日音楽室を覗いたが、香月はいる日といない日があるとわかった。彼女はそもそも、学校にもあまり来ないらしい。俺と会えた数日は奇跡みたいなものだ。
「明日は学校来ないのか?」
「また一緒に飯が食いたい」
休み時間にチャットをいくらか送ってみた。
「おい!」
「うわっ、まじびくったわ…」
クラスメイトの男子たちが群がる。
「海知、さては彼女できただろ」
「なわけないだろ」
「じゃあ、今チャットしてたの誰だよー」
「普通に…友達だよ」
「見せてみろって」
「やめろよ」
スマホを取られかけたが、必死で守った。多分、久しぶりにこんなに力を使った気がする。
「最近、昼休みに彼女と飯食ってんだろ」
「別に、そういうんじゃないから」
「海知!お前童貞だって言われてんぞ」
「だからなんだよ」
「男としてのプライドはないのか!」
「別に良いだろ。そういうの」
「え…本気なのか?」
「うるさいな…」
思わず教室を出た。まだ騒いでいるのが聞こえる。
「イケメンなのにもったいないぞーー!」
廊下で叫ぶクラスメイトに俺は呆れてしまった。俺は多分…人とは違うのだろう。
ずっとそうだった。付き合えば触れたくなるとか、抱きたくなるとか、そういう感覚が全くわからなかった。女は嫌いじゃない。告白されたことは何度だってある。でも、付き合った瞬間に、手を繋ぎたいだとか、キスしたいだとか、そういう感覚が俺には理解できなくて、いつもフラれてきた。俺がフラれる時の決まり文句は「私のこと好きじゃないんでしょ」だった。俺の「好き」という気持ちは、世間一般の「好き」とは違うみたいだ。でも、きっとまだ良い人に出逢ってないだけだと俺は思う。
スマホが震えた。
「明日は行こうかな」
香月からのメッセージだった。
「待ってる」
俺は今、どんな思いでこのメッセージを打ったのだろうか…。自分でもよくわからなかった。
翌日。俺は音楽室に行って、香月にクラスメイトに揶揄われた話をした。
「わかるわー」
「女子もそういうことあるの?」
「あるよ。でも、男たちのそういうのとは違うかも」
「というと…」
「佐々木君、ショートカットの子が好きって言ってたから髪切ったの!」
香月が急にこちらを向いた。髪の毛をくしゃくしゃさせている。
「って、言ってたらどう思う?」
急に香月の目は死んだ目に変わった。
「ちょっと、怖いっていうか…気持ち悪いかも」
「ビンゴ。女って、そんなんばっかりだよ」
俺は無意識に頷いていた。
「自分の理想ってさ、誰にでもあると思うんだよ。でも、それって現実と切り離しているから、価値のあるものになる」
「はあ」
「ああだったらいいな、こうだったらいいなって、言葉に出して使い捨てにするとかさ、日記とかに書いてその時の思いとして封印しておくとかさ…そういうのって、現実にならないうちがいいんじゃん」
「まあ、確かに」
「もし、現実と理想の境界線が無くなったら…嬉しい!よりも、怖い…が勝つと思わない?」
「言われてみれば…そう思う」
「でしょー。私から見れば、女の行動って、その”境界線”をなくしているとしか思えないんだよね。もはや凶器だよ」
”あなたも女だろ”と言いたくなったが、やめておいた。
「なんか、それはすごい分かる気がする」
俺は妙に共感してしまった。香月の言うとおりだ。俺が香月に連絡先を聞いて、すんなりOKされてしまったせいで戸惑ったことを思い出す。理想は掲げているくらいがちょうどいいんだと思う。
「ムカつく奴らのその”境界線”、一気に取っ払ってやりたいわ」
「怖いこと言うなよ」
香月の笑顔が怖く感じた。
「冗談だよ、冗談」
若干、安堵している自分がいる気がした。
「私、今なら海知の頭の中、ぜーんぶわかる気がする」
「え」
香月はズカズカと俺に近づき、額を突いた。
「直感って、案外当たるものだよ」
さっきまでの笑顔は怖かったのに、今の香月の顔は美しく、透明感があった。
「直感って…」
「まーだ、気づいてないの?私は出会った時から、私たちは同類だって、同じ世界に住む人間だって思ってるんだけど」
胸が疼く感じがした。何でだろう…香月に全てを見透かされている感じがする。そんな疑問が沸き上がるうちに、クラスメイトに揶揄われまくって傷ついた心はどこかへ消え去った気がした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
客観的に見たら、成り立っていない会話かもしれない。でも、僕たち2人には通じている。2人だけがわかる世界…香月が言う”同じ世界”って、こういうことなのだろうか。
僕はこの音楽室がこんなにも心地が良いとは思ってもいなかった…あなたと会うまでは。
冬休みまであと数日。音楽室に行くと、香月がいた。窓際の席で二人…弁当を食べながら他愛もない話をする。この時間が俺にとって、1日の中で1番有意義な時間だった。夏から一体、何度会ったのだろうか。いつの間にか、当たり前に会える関係性になってしまった気がする。
「海知ってさ、めちゃくちゃモテまくってるの、自覚ないでしょ?」
「そんな、俺なんかが…」
「私のクラスの女子が言ってたよ~。佐々木君、かっこいいって」
「いや…そうかな」
「ピンと来てないんでしょ」
「そりゃ…まあ」
「実際、私から見ても、イケメンだし、運動できるし、頭も良いし…完璧人間!って感じだけど。できないことないでしょ」
「そんなことないよ」
「じゃあ、何ができないの?」
「テストの点は良くても、提出物忘れがちだし。香月と会ったのだって、音楽の課題出し忘れて、先生の所に行った帰りだったし。俺、みんなが思ってる以上にだらしないよ?なのに、テストの点取っていくから、先生から見たら、うざい奴だと思うし…」
「随分ネガティブだね。あとは?」
「いや、そう言われても…」
香月はまっすぐ僕を見ていた。何かを言えと俺を目で脅している。口が勝手に開く。
「あと…多分なんだけど…俺、恋愛ができない」
「やっと白状した」
「え?」
いつの間にか、彼女の顔が俺のすぐ近くにあった。
「私はその言葉をずっと待っていた」
「ちょっと近いって」
「私と一緒」
彼女はまた微笑んだ。距離ができて、彼女は再び話始める。
「私ね、来世は男になりたいの」
「なんで?」
「上書きされたくないから」
「はあ」
「女って弱いから。何でも上書きされちゃうんだよ」
「それってどういう意味?」
「私は私でいたいのに、男が近づくと、その人のものになってしまう気がして…それが死ぬほど嫌いなんだ。自分が自分でいることほど難しいこと…ないから」
なんとなく、わかる気がした。俺がフラれてきたのは香月の言う”上書き”ができなかったからだ。この女を自分のものにしたいって男なら思うだろうっていう固定概念に俺も苦しめられてきた。彼女も俺と立場は違えど、同じように苦しんでいるんだ。香月は再び窓の外を見ている。
「だからね、来世は男になって、上書きされることなく、私は私として…”自分”として生きたい」
「でも、男になったらさ、上書きしないといけなくなるかもよ?」
「上書きする側ならいい。私を壊されることはないから」
「確かに…そうかもしれない」
「でしょ」
きっと、香月は自分の人生において、受け身でいたくないんだと思う。俺はそんな彼女を尊敬する。
俺が恋愛に向いてないことを明確にしてくれたのは、間違いなく香月だ。彼女がいなければ、俺はいつまでも傷つき、無意識に誰かを傷つけていたのかもしれない。
俺は今、窓の外を眺めている。
冬休みが明けて、授業が始まった。俺はいつも通り、あの音楽室に向かった。
「香月ー」
返事はなかった。きっと、今日は学校に来ていないのだろう。
スマホのチャット画面を開く。
「明日学校来る?」
「久しぶりに香月のピアノが聴きたい」
チャットを打った。そういえば、香月のピアノは出会ったあの夏に聴いて以来、ずっと聞いていない。でも、あの音色はずっと俺の中で響き続けている。不思議なほど、鮮明に。
ポケットの中でスマホが振動した。
「考えとく」
この時の俺の顔はどんな表情だっただろうか。俺は香月にどんな感情を抱いていたのだろうか。
翌日、音楽室に行っても、香月は来なかった。この時の俺はどうしても香月に会いたかったんだろう。スマホを取り出し、チャットを打った。
「待ってるから」
よく考えてみれば、いつもなら、白黒はっきりした返答しか、彼女は送っていなかった。なのに、この日は濁しているのが文面から伝わってくる。何か悩んでいることでもあったのだろうか。俺は待つことしかできなかった。
学校が終わり、どっと疲れが出た。香月と1週間に1回でも会えたら、俺は俺らしくいられたんだと思う。香月と出会ってから、周りに馴染むことよりも、自分らしく生きることに焦点を当てられていた。俺にとっての幸せはこういうことだったんだと思う。
重い足取りで家に帰り、靴を脱ぎ捨て、手を洗う。リビングで鞄を下ろし、テレビをつけた。珍しく俺の町がニュースで取り上げられていた。大体こういう田舎が取り上げられるときは、よくないことが起こった時だ。俺はそのニュースをただ茫然と眺めていた。
時刻は18時。山奥の映像と見覚えのある名前のテロップ。警察がブルーシートを広げながら山奥から出てくる映像が流れる。俺は息ができなかった。
その場で膝から崩れ落ちる。そのまま顔を床に伏せ、嗚咽が止まらない。嘘だ。信じたくない。誰か嘘だと言ってくれ。でも、どんなに顔を抓っても、痛い。これは紛れもない現実で、受け入れなくてはならない事実だと諭す。母が俺を心配してくれたであろう声が聞こえた。正直、ほとんど何を言ってくれたのかはわからなかった。
そのまま僕はしばらく動けなかった。この日の夜はまともに飯を食うこともできなかった。
気が付いたらベッドの上で朝になっていた。身体は重く、起きられない。でも、行かなければならないという謎の義務感が働き、無理矢理、身体を起こした。この日、俺は高校生活で初めて遅刻をした。目は腫れていて、ほとんど開かなかった。
「海知ー、寝坊って珍しくね?」
「うん」
「どうしたんだよ、その顔」
「…」
俺は素通りするのが精一杯だった。相槌を打てただけ、褒めてほしい。
正直、いつも俺に絡んでくる奴らも引いてたと思う。こんな時にまで、自分のことよりも周りのことを考えてしまうのは、きっと、受け身で生きているからなんだろう。
昼休みは音楽室に行った。あの席に香月が座っていてほしい、あのピアノの音が聴きたい、香月と話したい、香月の話が聴きたい…もう絶対に叶うことのないことに期待してしまう。でも、ドアを開けても、誰もいない空虚な空間が広がっているだけだった。香月の座っていた席に座る。チャットの画面を見ると、既読がついていた。俺は結局、待つことしかできていなかったんだな。窓の外を眺めると、雨が降っていた。その雨に誘われるように、俺も涙を流した。
その後、香月の話は誰の話題にも上がることなく、消え去った。彼女がいかに周りと馴染まずに、自分らしく生きようとしたか…風のように消え去った現実が、香月の生き様を思い知らさせる。
――これが、俺の忘れられない人との話だ。
俺は大学生になった。高校時代の自分とはおさらばして、自分らしく、堂々と生きると決めた。俺の憧れの人がそう教えてくれたから。
「相澤和樹さん、いますかー」
電磁気学の授業。初っ端から指名されるなんて、可哀想な…いや、待てよ。聞き覚えのある響きを感じて、オンライン授業の参加者を見漁った。自分が衝動的になっているのがわかる。血眼になって探すと、「相澤和樹」という漢字は違うが、同姓同名の人を見つけた。学年チャットを慌てて見ると、やはり同じ名前がある。同じ学年の同じ学科に、この人はいるんだ。こんな運命的なことがあるかとまた根拠のない期待をしてしまった。
「こんばんは。同じ学科の佐々木海知です。突然のご連絡すいません。電磁気学取ってますよね?僕も取っているのですが、みんな課題をやっていなくて…もし、課題終わっているなら、一緒に答え合わせしませんか?返信待っています。」
来なかったらそこまでだ…。勝手に友達追加して、突然こんなチャットを送って…何してんだ俺は。
もう後悔したくなくて、必死だったと思う。今思えば、ぶっ飛んだことをしてしまった気がする。
「カズさ高校のときってどんな感じだった?」
「急になんだよ」
「なんか、聞きたくなったから」
一緒にいればいるほど、カズは香月の来世なんじゃないかと思ってしまうのだ。
「普通じゃなかったかも」
「どっちだよ」
「年頃なのに、恋愛とか…そういうの興味なかったし」
「なんかそんな感じする」
どことなく、似てるんだよ…香月に。
「カズってさ静かな場所好きだよな」
「まぁ…そうだね」
「それこそ、高校で人いない教室とかで1人で弁当食ってたりしてそう」
カズが黙り込んだ時、やっぱりそうなんだと思った。多分、俺はカズのことを見透かせる。見えすぎて、怖くなる。まるで自分の記憶の一部のように、カズの思っていることがわかる。
――何でこんなにもカズのことを全部わかるのだろうか。
この日。俺は香月に言われたことを思い出した。あの時の彼女が言った言葉が蘇る。
――私、今なら海知の頭の中、ぜーんぶわかる気がする
今の俺は、正しくこの時の彼女の状態だと思う。この時、気づいたんだ。俺はきっと、カズのことを人として好きなんだと…。
「うっ…」
多分、この辺りからだと思う。俺が片頭痛になったのは。
あの日のカズの目は死んでいたのを覚えている。何か悪いことでもしてしまっただろうか…。
「うっ…」
また頭が痛んだ。
「カズ?カズ!」
「あ、ごめん」
カズにとって、俺は初めての同志だったのかもしれない。共感してくれる人に会えたのは嬉しい。それを教えてくれたのは、香月なんだと思う。だから、カズは…。
「じゃ、また明日」
「うん」
この日、俺はカズと話している時、頭が痛かった。寄生虫がいるんじゃないんかって思うくらい電撃が走るような痛さを何度か感じた。僕の目も死んでしまっていた瞬間があったかもしれない。
電車に乗ると、窓に自分の顔が映る。でも、その顔はなぜか自分ではない気がした。
「カズってさ」
また無意識にチャットを打っている自分がいる。心のどこかで、カズに嫌われていないか、心配していたかもしれない。聞いてしまえば何でも分かる。なのに…。
「やっぱり何でもない」
何も聞くな。なんかそう言われている気がしてしまった。自分の意志と行動が一致しない…俺は俺でいるということがこんなにも難しいなんて、思いもしなかった。
――私は私として…自分として生きたい
今の俺の頭には、この言葉が巡っている。
「もう、会うのは最後にしよう」
「え、なんでそんな…」
「ずっと思ってたことだから」
「そんな冗談、俺には通じないからな」
「僕は本気だよ」
急に立ち上がるカズを無意識に追っていた。やっぱり頭が痛む感じがした。でも、そんなことはどうでもよかった。ここで逃げたら、また…あの時みたいに。
「俺さ、なんかカズに変なことしたか?」
「いや…何もしてないよ」
腕を振り解き、逃げようとするカズを俺は逃がさなかった。
「じゃあ、何でだよ」
「海知は僕と一緒に居たらダメなんだよ」
「俺はカズと一緒に居たい」
必死だった。だって、また目の前からいなくなったら…俺は。
「海知はまだ普通になれるから」
「別に普通にならなくても良いよ」
普通じゃなくていいと、俺をこの世界に連れ戻してくれたのは、カズじゃないか。
「僕は、海知を変えてしまっている」
さっきから、何を言っているんだ…カズがなんだか別世界に行ってしまうような感覚がした。
――直感って、案外当たるものだよ
胸がざわついた。
「本当なんだよ。こんな僕と会って、僕が描いた理想像に海知がどんどん一致していっていて…怖いんだよ。僕とずっと一緒にいて、 海知の未来を僕が描いてしまっているような気がして…」
違う。そんなはず…ない。
俺は自分の考えに自信が持てなかった。唐突に、香月の顔が浮かぶ。
――自分の理想ってさ、誰にでもあると思うんだよ。でも、それって現実と切り離しているから、価値のあるものになる
――もし、現実と理想の境界線が無くなったら…嬉しい!よりも、怖い…が勝つと思わない?
背筋が凍る感覚があった。
――ムカつくやつらのその境界線、一気に取っ払ってやりたいわ
そんなこと…あるわけ…。俺は確信が持てなかった。
カズと一緒に居たい。それは事実だ。でも、それが良いとは言い切れなかった。
雪の中、歩いていく後ろ姿をじっと眺めることしかできなかった。俺はまた、同じことをしてしまったのかもしれない。
スマホのチャット画面を開く。俺はそこまでチャットをしないので、トーク欄自体少ない。その訳は画面をスクロールすればわかる。5年前で止まっているメッセージ。さすがに名前は消えている。でも、トークは消せないのだ。最後のメッセージは俺の”待ってるから”の一言だった…。
俺は高校生の時、昼休みに音楽室に行くのが日課になっていた。窓際のあの椅子に座るあの人に会うために。俺はずっと、あの人のことを忘れられないでいる。
急な雷雨があった、とある夏の昼休み。俺は渡り廊下を歩き、音楽準備室に向かった。
「すいません。遅れてしまって」
「佐々木君さ…最近、提出忘れ多いわよ」
「…すいません」
「次忘れたら、ペナルティあるからね。わかった?」
「はい……失礼しました」
ドアを閉め、ため息をついた。
夏休みまであと数週間。提出物ラッシュで普段の怠惰のしわ寄せがきている。だらしない俺は、先生から指導を受けることが多々ある。その割に、メンタルが強いわけではない。毎回、なんだかんだで引きずってしまうのだ。そんな自分を隠すように、クラスでは空元気で振る舞っている。自分でも自分が嫌いだ。
渡り廊下を歩き切れば、あの自分に戻らなくてはならない。覚悟を決めて大きく息を吸った。
――タララ…
聞いたことのない綺麗な音…俺の足は勝手にそちらを向いていた。
恐る恐る隣の第2音楽室の扉を開いた。誰かがピアノを弾いている。譜面台で顔は見えないが、学ランを着ている誰かなのはわかった。こんな繊細な音を奏でられる男子がこの学校にいたのか…。その音色に引き込まれるように、グランドピアノに近付いて行った。
急に音が止まった。
「誰…?」
「え、あ…ごめん。すごい、綺麗な曲だなって思って…それで…」
譜面台の隙間から覗く目は茶色くて、鋭くて、透き通っている。その視線が俺の心に突き刺さった。手招きされて、俺は彼に近づいた。操り人形のように、足が勝手に動くような、そんな感覚がした。
「名前、教えて」
ピアノのあの椅子に座って上目遣いで見つめられた。その顔は美しく、妖艶な雰囲気を放っていた。
「3組の佐々木海知…。海を知ると書いて、かいち」
「ああ…いつも廊下でうるさくしている集団の1人か…」
「それは言わないでもらって…」
彼は急に俺の肩を掴んだ。俺は体制を崩して咄嗟にピアノに手をつく。ペットボトル1個分の距離にその綺麗な顔があった。
「君は私と同じ目をしている」
瞳孔が開くのがわかった。少し怖くなって、突き放してしまった。
「なんだよ、急に…」
彼は笑っていた。
「5組の相沢香月。香る月の書いてかづき。よろしく」
手を差し出してきたので、なんとなく握り返した。
「…よろしく」
手を握ってわかった。声を聞いた時になんとなく気づいてはいたが、俺とは違うことは本当みたいだ。優しくその柔らかい手を離した。
「あのさ、聞いちゃいけないかもなんだけど…」
「じゃあ、聞かないで」
さっきの笑みはなくなり、ピアノに向かってしまった。
「ごめん…」
「謝る必要ないじゃん、聞いてないんだから」
「そっか…」
不思議な雰囲気を放つ君と俺はまだ話がしたかった。なぜだろうか。君といると、俺は俺でいられる気がした。
「あのさ、さっきの曲…なんて曲?」
「ドビュッシー。アラベスク1番」
「すごい、綺麗だった」
「もう1回弾こうか」
「うん、お願い」
「いいよ」
少し微笑んで、弾き始めた。俺は音楽室の1番前の席に座った。その音はどこか切なくて、響き渡るその1音1音に強いメッセージを感じる、不思議な音色だった。最後の1音が音楽室から消えると静寂になった。
「うまく言葉にできないけど…良い曲だった」
「そう言ってもらえて嬉しい」
その微笑みに俺は不思議なくらい惹きつけられる。
「で、さっき、なんで聞こうとしてた?」
「え?」
「あぁ…あなたなら大丈夫な気がしたから。こっちこそごめん…遮ってしまって」
そうは言われても、きっと聞いてはいけないんだと思う。俺は黙り込んでしまった。それを察するかのように彼は話し出す。
「女の子だよ、私」
「え、あぁ…そうなんだ」
「気になってたんでしょ?ずっと」
「まあ、そう」
「あまり気にしないでいいから」
「他の人にも言ってるの?」
「言ってない…けど、みんな気づいてるよ。私、声高いし、ピアノやってて指細いから、バレバレなんだよね」
「でも、なんで俺には言ってくれたの?」
「あっち、行きたくないんでしょ」
彼女は窓の外の教室棟を指差した。
「まあ…そうかもしれない。なんで、そんなこと聞くんだ?」
「こんな長く私と話す人なんていないから。帰りたくないんだろうなーって思って」
彼女に俺は心を見透かされているみたいだ。
「君も帰りたくないの?」
「うん…ここが1番落ち着くんだよ」
きっと女だと気づかれたくないんだろう。
「勘違いしないでね?私がこの格好をするのは、"あいつら"とは違うぞっていう意思表示。別に男になりたいわけではない」
「そう…なんだ」
やっぱり、俺は彼女の心を何一つ見抜けていないようだ。
「ちょっと来て」
「え…」
彼女は俺の手を掴んでカーテンの奥の窓のところまで引っ張ってきた。窓の外には教室棟があり、所々でカップルが窓際でイチャイチャしているのが見えた。
「私、ああいうのが嫌いなの。だから、女として見られたくなくて、学ラン着ている。声さえ出さなければ、私は男から声かけられることもない」
彼女の目は死んでいた。
「ごめん、じゃあ…俺、話しかけて嫌だったよな」
「最初はね。でも、あなたは私と似ている気がしたから、大丈夫」
「え…それってどういう…」
随分はっきり言う奴だと思った。
チャイムが鳴った。
「私は戻ろうかな…あなたはどうするの?」
「ああ…流石に戻るよ」
彼女はピアノの蓋を閉めた。電気を消して、音楽室から出ようとしている。
「あのさ」
彼女は俺の方を向いた。女子にしてはやや背が高いんだろうが、男にしては小さめなのだと思った。
「香月で良いよ。次から香月って呼んで」
「うん、わかった」
俺らは教室を出て、渡り廊下を歩いた。
「じゃあ、またね…海知」
教室へ戻っていく彼女の後ろ姿にさっきの覇気は感じられなかった。
――あなたは私と似ている気がしたから大丈夫
俺の中でこの言葉がずっと響いている。
翌日。しんどい昼休みがやってくる。
「海知!一緒に飯食おうぜ」
「…あ、ごめん。今日厳しいわ」
「お前また提出物忘れてんのかよー」
「まじごめん」
俺は何の用事もなかったが、あの音楽室に向かった。あいつらと飯を食うくらいなら、俺は奇跡に期待したい。昨日のように音はなかったが、何かあるかもしれないと思い、ドアを開けた。昨日見た、あの後ろ姿が見えた。窓際に座っている。
「香月」
彼女は振り向いた。
「今日も来たんだ」
「うん」
「なんで?」
「なんとなく…じゃ、ダメかよ」
彼女は少し微笑んでいた。
「そういうの、嫌いじゃないよ」
香月は俺に隣に座るように勧めた。香月はここで毎日弁当を食べているらしい。こんなにも落ち着くのは初めてだった。
「あのさ」
「ん?」
「連絡先…交換しない…?」
彼女の目が綺麗なだけに、なんか怖かった。静寂は、時に狂気と化す。言った後で後悔した。
「いや、その、嫌じゃなかったらで全然良いし、そんな俺なんて…」
「いいよ」
「え、ほんと…?」
「ん、これ」
「え…」
彼女はスマホを差し出した。俺は戸惑ってしまった。
「要らないの?」
「いや、いる。ありがとう」
奇跡って起きるものなのか。自分で頼んでおいて、驚きを隠せない。香月のチャットのプロフィール画面を見る。アイコンはピアノの写真で学ラン姿の彼女とはイメージがかけ離れていて、脳がバグりそうだった。
「あ、言っとくけど、私、返信遅いから」
「全然良いよ」
「あと、無意味な会話は無視するから」
「全然良い」
「じゃあ、なんで連絡先欲しいって言うんだよ」
「え…いや、その…また飯食いたいなって…ダメか?」
香月は微笑んでまた俺に顔を近づける。
「やっぱり、海知は私と同じだな」
今日は突き放さなかった。俺の肩に置かれた彼女の手をゆっくりと離す。
「その”私と同じ”って…前から思ってたけど、何なの?」
「気づいてないだけ。いつかわかるよ」
彼女はまたそっぽを向いてしまった。すごく自由な人なんだと思った。俺は後味がすごい悪かった。
「なあ」
彼女は振り向く。
「今日はピアノ弾かないの?」
「なんか今日は気分じゃない」
「そっか…」
チャイムが鳴った。
夏休みが明け、秋になった。俺は毎日音楽室を覗いたが、香月はいる日といない日があるとわかった。彼女はそもそも、学校にもあまり来ないらしい。俺と会えた数日は奇跡みたいなものだ。
「明日は学校来ないのか?」
「また一緒に飯が食いたい」
休み時間にチャットをいくらか送ってみた。
「おい!」
「うわっ、まじびくったわ…」
クラスメイトの男子たちが群がる。
「海知、さては彼女できただろ」
「なわけないだろ」
「じゃあ、今チャットしてたの誰だよー」
「普通に…友達だよ」
「見せてみろって」
「やめろよ」
スマホを取られかけたが、必死で守った。多分、久しぶりにこんなに力を使った気がする。
「最近、昼休みに彼女と飯食ってんだろ」
「別に、そういうんじゃないから」
「海知!お前童貞だって言われてんぞ」
「だからなんだよ」
「男としてのプライドはないのか!」
「別に良いだろ。そういうの」
「え…本気なのか?」
「うるさいな…」
思わず教室を出た。まだ騒いでいるのが聞こえる。
「イケメンなのにもったいないぞーー!」
廊下で叫ぶクラスメイトに俺は呆れてしまった。俺は多分…人とは違うのだろう。
ずっとそうだった。付き合えば触れたくなるとか、抱きたくなるとか、そういう感覚が全くわからなかった。女は嫌いじゃない。告白されたことは何度だってある。でも、付き合った瞬間に、手を繋ぎたいだとか、キスしたいだとか、そういう感覚が俺には理解できなくて、いつもフラれてきた。俺がフラれる時の決まり文句は「私のこと好きじゃないんでしょ」だった。俺の「好き」という気持ちは、世間一般の「好き」とは違うみたいだ。でも、きっとまだ良い人に出逢ってないだけだと俺は思う。
スマホが震えた。
「明日は行こうかな」
香月からのメッセージだった。
「待ってる」
俺は今、どんな思いでこのメッセージを打ったのだろうか…。自分でもよくわからなかった。
翌日。俺は音楽室に行って、香月にクラスメイトに揶揄われた話をした。
「わかるわー」
「女子もそういうことあるの?」
「あるよ。でも、男たちのそういうのとは違うかも」
「というと…」
「佐々木君、ショートカットの子が好きって言ってたから髪切ったの!」
香月が急にこちらを向いた。髪の毛をくしゃくしゃさせている。
「って、言ってたらどう思う?」
急に香月の目は死んだ目に変わった。
「ちょっと、怖いっていうか…気持ち悪いかも」
「ビンゴ。女って、そんなんばっかりだよ」
俺は無意識に頷いていた。
「自分の理想ってさ、誰にでもあると思うんだよ。でも、それって現実と切り離しているから、価値のあるものになる」
「はあ」
「ああだったらいいな、こうだったらいいなって、言葉に出して使い捨てにするとかさ、日記とかに書いてその時の思いとして封印しておくとかさ…そういうのって、現実にならないうちがいいんじゃん」
「まあ、確かに」
「もし、現実と理想の境界線が無くなったら…嬉しい!よりも、怖い…が勝つと思わない?」
「言われてみれば…そう思う」
「でしょー。私から見れば、女の行動って、その”境界線”をなくしているとしか思えないんだよね。もはや凶器だよ」
”あなたも女だろ”と言いたくなったが、やめておいた。
「なんか、それはすごい分かる気がする」
俺は妙に共感してしまった。香月の言うとおりだ。俺が香月に連絡先を聞いて、すんなりOKされてしまったせいで戸惑ったことを思い出す。理想は掲げているくらいがちょうどいいんだと思う。
「ムカつく奴らのその”境界線”、一気に取っ払ってやりたいわ」
「怖いこと言うなよ」
香月の笑顔が怖く感じた。
「冗談だよ、冗談」
若干、安堵している自分がいる気がした。
「私、今なら海知の頭の中、ぜーんぶわかる気がする」
「え」
香月はズカズカと俺に近づき、額を突いた。
「直感って、案外当たるものだよ」
さっきまでの笑顔は怖かったのに、今の香月の顔は美しく、透明感があった。
「直感って…」
「まーだ、気づいてないの?私は出会った時から、私たちは同類だって、同じ世界に住む人間だって思ってるんだけど」
胸が疼く感じがした。何でだろう…香月に全てを見透かされている感じがする。そんな疑問が沸き上がるうちに、クラスメイトに揶揄われまくって傷ついた心はどこかへ消え去った気がした。
「ありがとう」
「どういたしまして」
客観的に見たら、成り立っていない会話かもしれない。でも、僕たち2人には通じている。2人だけがわかる世界…香月が言う”同じ世界”って、こういうことなのだろうか。
僕はこの音楽室がこんなにも心地が良いとは思ってもいなかった…あなたと会うまでは。
冬休みまであと数日。音楽室に行くと、香月がいた。窓際の席で二人…弁当を食べながら他愛もない話をする。この時間が俺にとって、1日の中で1番有意義な時間だった。夏から一体、何度会ったのだろうか。いつの間にか、当たり前に会える関係性になってしまった気がする。
「海知ってさ、めちゃくちゃモテまくってるの、自覚ないでしょ?」
「そんな、俺なんかが…」
「私のクラスの女子が言ってたよ~。佐々木君、かっこいいって」
「いや…そうかな」
「ピンと来てないんでしょ」
「そりゃ…まあ」
「実際、私から見ても、イケメンだし、運動できるし、頭も良いし…完璧人間!って感じだけど。できないことないでしょ」
「そんなことないよ」
「じゃあ、何ができないの?」
「テストの点は良くても、提出物忘れがちだし。香月と会ったのだって、音楽の課題出し忘れて、先生の所に行った帰りだったし。俺、みんなが思ってる以上にだらしないよ?なのに、テストの点取っていくから、先生から見たら、うざい奴だと思うし…」
「随分ネガティブだね。あとは?」
「いや、そう言われても…」
香月はまっすぐ僕を見ていた。何かを言えと俺を目で脅している。口が勝手に開く。
「あと…多分なんだけど…俺、恋愛ができない」
「やっと白状した」
「え?」
いつの間にか、彼女の顔が俺のすぐ近くにあった。
「私はその言葉をずっと待っていた」
「ちょっと近いって」
「私と一緒」
彼女はまた微笑んだ。距離ができて、彼女は再び話始める。
「私ね、来世は男になりたいの」
「なんで?」
「上書きされたくないから」
「はあ」
「女って弱いから。何でも上書きされちゃうんだよ」
「それってどういう意味?」
「私は私でいたいのに、男が近づくと、その人のものになってしまう気がして…それが死ぬほど嫌いなんだ。自分が自分でいることほど難しいこと…ないから」
なんとなく、わかる気がした。俺がフラれてきたのは香月の言う”上書き”ができなかったからだ。この女を自分のものにしたいって男なら思うだろうっていう固定概念に俺も苦しめられてきた。彼女も俺と立場は違えど、同じように苦しんでいるんだ。香月は再び窓の外を見ている。
「だからね、来世は男になって、上書きされることなく、私は私として…”自分”として生きたい」
「でも、男になったらさ、上書きしないといけなくなるかもよ?」
「上書きする側ならいい。私を壊されることはないから」
「確かに…そうかもしれない」
「でしょ」
きっと、香月は自分の人生において、受け身でいたくないんだと思う。俺はそんな彼女を尊敬する。
俺が恋愛に向いてないことを明確にしてくれたのは、間違いなく香月だ。彼女がいなければ、俺はいつまでも傷つき、無意識に誰かを傷つけていたのかもしれない。
俺は今、窓の外を眺めている。
冬休みが明けて、授業が始まった。俺はいつも通り、あの音楽室に向かった。
「香月ー」
返事はなかった。きっと、今日は学校に来ていないのだろう。
スマホのチャット画面を開く。
「明日学校来る?」
「久しぶりに香月のピアノが聴きたい」
チャットを打った。そういえば、香月のピアノは出会ったあの夏に聴いて以来、ずっと聞いていない。でも、あの音色はずっと俺の中で響き続けている。不思議なほど、鮮明に。
ポケットの中でスマホが振動した。
「考えとく」
この時の俺の顔はどんな表情だっただろうか。俺は香月にどんな感情を抱いていたのだろうか。
翌日、音楽室に行っても、香月は来なかった。この時の俺はどうしても香月に会いたかったんだろう。スマホを取り出し、チャットを打った。
「待ってるから」
よく考えてみれば、いつもなら、白黒はっきりした返答しか、彼女は送っていなかった。なのに、この日は濁しているのが文面から伝わってくる。何か悩んでいることでもあったのだろうか。俺は待つことしかできなかった。
学校が終わり、どっと疲れが出た。香月と1週間に1回でも会えたら、俺は俺らしくいられたんだと思う。香月と出会ってから、周りに馴染むことよりも、自分らしく生きることに焦点を当てられていた。俺にとっての幸せはこういうことだったんだと思う。
重い足取りで家に帰り、靴を脱ぎ捨て、手を洗う。リビングで鞄を下ろし、テレビをつけた。珍しく俺の町がニュースで取り上げられていた。大体こういう田舎が取り上げられるときは、よくないことが起こった時だ。俺はそのニュースをただ茫然と眺めていた。
時刻は18時。山奥の映像と見覚えのある名前のテロップ。警察がブルーシートを広げながら山奥から出てくる映像が流れる。俺は息ができなかった。
その場で膝から崩れ落ちる。そのまま顔を床に伏せ、嗚咽が止まらない。嘘だ。信じたくない。誰か嘘だと言ってくれ。でも、どんなに顔を抓っても、痛い。これは紛れもない現実で、受け入れなくてはならない事実だと諭す。母が俺を心配してくれたであろう声が聞こえた。正直、ほとんど何を言ってくれたのかはわからなかった。
そのまま僕はしばらく動けなかった。この日の夜はまともに飯を食うこともできなかった。
気が付いたらベッドの上で朝になっていた。身体は重く、起きられない。でも、行かなければならないという謎の義務感が働き、無理矢理、身体を起こした。この日、俺は高校生活で初めて遅刻をした。目は腫れていて、ほとんど開かなかった。
「海知ー、寝坊って珍しくね?」
「うん」
「どうしたんだよ、その顔」
「…」
俺は素通りするのが精一杯だった。相槌を打てただけ、褒めてほしい。
正直、いつも俺に絡んでくる奴らも引いてたと思う。こんな時にまで、自分のことよりも周りのことを考えてしまうのは、きっと、受け身で生きているからなんだろう。
昼休みは音楽室に行った。あの席に香月が座っていてほしい、あのピアノの音が聴きたい、香月と話したい、香月の話が聴きたい…もう絶対に叶うことのないことに期待してしまう。でも、ドアを開けても、誰もいない空虚な空間が広がっているだけだった。香月の座っていた席に座る。チャットの画面を見ると、既読がついていた。俺は結局、待つことしかできていなかったんだな。窓の外を眺めると、雨が降っていた。その雨に誘われるように、俺も涙を流した。
その後、香月の話は誰の話題にも上がることなく、消え去った。彼女がいかに周りと馴染まずに、自分らしく生きようとしたか…風のように消え去った現実が、香月の生き様を思い知らさせる。
――これが、俺の忘れられない人との話だ。
俺は大学生になった。高校時代の自分とはおさらばして、自分らしく、堂々と生きると決めた。俺の憧れの人がそう教えてくれたから。
「相澤和樹さん、いますかー」
電磁気学の授業。初っ端から指名されるなんて、可哀想な…いや、待てよ。聞き覚えのある響きを感じて、オンライン授業の参加者を見漁った。自分が衝動的になっているのがわかる。血眼になって探すと、「相澤和樹」という漢字は違うが、同姓同名の人を見つけた。学年チャットを慌てて見ると、やはり同じ名前がある。同じ学年の同じ学科に、この人はいるんだ。こんな運命的なことがあるかとまた根拠のない期待をしてしまった。
「こんばんは。同じ学科の佐々木海知です。突然のご連絡すいません。電磁気学取ってますよね?僕も取っているのですが、みんな課題をやっていなくて…もし、課題終わっているなら、一緒に答え合わせしませんか?返信待っています。」
来なかったらそこまでだ…。勝手に友達追加して、突然こんなチャットを送って…何してんだ俺は。
もう後悔したくなくて、必死だったと思う。今思えば、ぶっ飛んだことをしてしまった気がする。
「カズさ高校のときってどんな感じだった?」
「急になんだよ」
「なんか、聞きたくなったから」
一緒にいればいるほど、カズは香月の来世なんじゃないかと思ってしまうのだ。
「普通じゃなかったかも」
「どっちだよ」
「年頃なのに、恋愛とか…そういうの興味なかったし」
「なんかそんな感じする」
どことなく、似てるんだよ…香月に。
「カズってさ静かな場所好きだよな」
「まぁ…そうだね」
「それこそ、高校で人いない教室とかで1人で弁当食ってたりしてそう」
カズが黙り込んだ時、やっぱりそうなんだと思った。多分、俺はカズのことを見透かせる。見えすぎて、怖くなる。まるで自分の記憶の一部のように、カズの思っていることがわかる。
――何でこんなにもカズのことを全部わかるのだろうか。
この日。俺は香月に言われたことを思い出した。あの時の彼女が言った言葉が蘇る。
――私、今なら海知の頭の中、ぜーんぶわかる気がする
今の俺は、正しくこの時の彼女の状態だと思う。この時、気づいたんだ。俺はきっと、カズのことを人として好きなんだと…。
「うっ…」
多分、この辺りからだと思う。俺が片頭痛になったのは。
あの日のカズの目は死んでいたのを覚えている。何か悪いことでもしてしまっただろうか…。
「うっ…」
また頭が痛んだ。
「カズ?カズ!」
「あ、ごめん」
カズにとって、俺は初めての同志だったのかもしれない。共感してくれる人に会えたのは嬉しい。それを教えてくれたのは、香月なんだと思う。だから、カズは…。
「じゃ、また明日」
「うん」
この日、俺はカズと話している時、頭が痛かった。寄生虫がいるんじゃないんかって思うくらい電撃が走るような痛さを何度か感じた。僕の目も死んでしまっていた瞬間があったかもしれない。
電車に乗ると、窓に自分の顔が映る。でも、その顔はなぜか自分ではない気がした。
「カズってさ」
また無意識にチャットを打っている自分がいる。心のどこかで、カズに嫌われていないか、心配していたかもしれない。聞いてしまえば何でも分かる。なのに…。
「やっぱり何でもない」
何も聞くな。なんかそう言われている気がしてしまった。自分の意志と行動が一致しない…俺は俺でいるということがこんなにも難しいなんて、思いもしなかった。
――私は私として…自分として生きたい
今の俺の頭には、この言葉が巡っている。
「もう、会うのは最後にしよう」
「え、なんでそんな…」
「ずっと思ってたことだから」
「そんな冗談、俺には通じないからな」
「僕は本気だよ」
急に立ち上がるカズを無意識に追っていた。やっぱり頭が痛む感じがした。でも、そんなことはどうでもよかった。ここで逃げたら、また…あの時みたいに。
「俺さ、なんかカズに変なことしたか?」
「いや…何もしてないよ」
腕を振り解き、逃げようとするカズを俺は逃がさなかった。
「じゃあ、何でだよ」
「海知は僕と一緒に居たらダメなんだよ」
「俺はカズと一緒に居たい」
必死だった。だって、また目の前からいなくなったら…俺は。
「海知はまだ普通になれるから」
「別に普通にならなくても良いよ」
普通じゃなくていいと、俺をこの世界に連れ戻してくれたのは、カズじゃないか。
「僕は、海知を変えてしまっている」
さっきから、何を言っているんだ…カズがなんだか別世界に行ってしまうような感覚がした。
――直感って、案外当たるものだよ
胸がざわついた。
「本当なんだよ。こんな僕と会って、僕が描いた理想像に海知がどんどん一致していっていて…怖いんだよ。僕とずっと一緒にいて、 海知の未来を僕が描いてしまっているような気がして…」
違う。そんなはず…ない。
俺は自分の考えに自信が持てなかった。唐突に、香月の顔が浮かぶ。
――自分の理想ってさ、誰にでもあると思うんだよ。でも、それって現実と切り離しているから、価値のあるものになる
――もし、現実と理想の境界線が無くなったら…嬉しい!よりも、怖い…が勝つと思わない?
背筋が凍る感覚があった。
――ムカつくやつらのその境界線、一気に取っ払ってやりたいわ
そんなこと…あるわけ…。俺は確信が持てなかった。
カズと一緒に居たい。それは事実だ。でも、それが良いとは言い切れなかった。
雪の中、歩いていく後ろ姿をじっと眺めることしかできなかった。俺はまた、同じことをしてしまったのかもしれない。
