その夜、家に帰ると、やけに部屋が静かに感じた。僕は部屋の電気をつけた。ワンルームの部屋はいつものと何も変わらないはずなのに、妙に広く感じた。鞄を床に置くと同時に、本棚の一番下の段に目が止まる。引っ越してきたときからずっとそこにある段ボール箱。捨てられず、残しておいた、僕のパンドラの箱のようなものだ。大学に入ってからは一度も開けていない。今日の海知との会話で、なんか振り返りたくなった。僕って、どんな人間だったっけ。
僕は段ボールを引き寄せる。少し埃が舞った。蓋を開けると、ノートが何冊も重なっていた。どれも安いただの大学ノート。ただ、思ったことを書くだけにしては、十分すぎるノートだった。一番上のノートを手に取る。ぱらぱらとページをめくった。紙が若干、湿気っている。そこに書かれている文字は、今の僕のよりも少し丸い気がした。いくらか読んでみる。自分で書いたはずなのに、どこか他人の文章みたいに感じた。
深夜1時。なぜかページをめくる手が止まらない。いつもなら、もう寝ている時間だというのに。とあるページを見て、思わず笑ってしまった。当時のクラスメイトに対して、どんなに仲が良くてもこれだけは許せないとか、正義気取りな文言が書かれていた。高校生の自分は、真面目だったのかもしれない。
何冊目かわからないが、なんとなく真ん中のほうのノートを手に取った。
ページをめくる。
そうだ、僕には彼女がいた過去があったんだ。もうすっかり忘れていた。彼女がいたという事実がいかに自分を蝕んでいたのかが、これを読むとよくわかる。
ページをめくる。
世間の普通に足掻き、自分が普通だと思いたいと正当化する文章。まるで”世間の普通”を”自分の普通”で上書きしているようだ。この頃の僕は生きづらかったんだろうな…。
続けて何度もページをめくる。
懐かしい感覚だった。あの頃は、毎日の感情をこうして言葉にしていた。自分を確認するために。こうやって自分を保っていたんだと思う。
ページをめくる。
ふと目が止まった。
――僕は静かな場所が好きだ。こういう場所って安心する。僕が僕でいられるから。今日も1人だったけど、こっちのほうが僕らしいんだと思う。
――窓際の席で外を眺める。ずっと、この時間が続いてくれたらいいのに。ここにいる時間だけは、世界に自分しかいない感じがする。
指先が少し冷たくなった。海知の言葉を思い出す。
「静かな場所好きだよな」
「それこそ、高校で空き教室の窓際の席とかで1人で外をぼーっと眺めながら、弁当食ってたりしてそう」
僕はゆっくり息を吐いた。
こんなにも、僕の高校時代を知っている…一度も伝えたことないのに。偶然、だよな…。海知は、僕とすごく似ているから、僕の好きなものとか、生活習慣とか、想像できただけ。そうだよ、そんなこといくらでもある。小刻みに震える手を握りしめる。
再びページをめくる。
――僕の中身を見てくれる人が現れてくれたらいいのに。
――同じ考えの人間に会ってみたい。
――僕は僕であるために、生きたい。
ページをめくる。
手が止まった。そのページは、他より色が薄く、読み返した形跡があるのか、少し折れ目もついている。僕はその文字を目で追う。
――もし、自分と似た人間が現れたら…同じタイミングで笑う、みたいなことが起きるんだろうか。
喉が少し乾いた。水を一口飲んで、続きを読む。
――僕は住んでいる世界が違いすぎる。
――だからこそ、そんな人が現実で現れたら、それはもう運命だと思う。
僕の手は止まった。ページの端を指で押さえる。見たくないのに、見たい…そんな感覚がした。
次の行。
――もし、自分と似た人間が人が現れたら…
――きっとその人は僕と同じように、窓際の席に座ってくれると思う。
僕はゆっくり顔を上げた。部屋の時計の音だけが聞こえる。大学生になってからの記憶がどっと脳に入ってくる感覚がした。ここまで現実になっていると、もはや怖い気がする。時計の針の音がカチカチと鳴り響く。
最後のページを見る。そこには日記は書かれていなかった。ただ1文だけ、綴られていた。
――もし、そんな人間に出会えたら、絶対に手放すな。
正直、日記以外の文を書いた覚えはなかった。でも、これは明らかに僕の筆跡で、僕が僕に向けたメッセージだろう。なのに、思い出せない…思い出せる気もしない。
部屋がやけに静かに感じた。スマホが振動し、机の上で小さく光る。僕は驚いて背筋が反射的に伸びた。冷や汗をかいている。
スマホを見ると、海知からのチャットが1件。画面を開くその手は僅かに震えている。
「今、ふと思ったんだけど」
「カズってさ」
少し間を置いて、さらにもう1件届く。
僕はスマホを持ったまま、しばらく動けなかった。ノートのページは、まだ開いたままだった。
「俺の運命の人だって思うんだよね」
僕は静かにノートを閉じた。大きく息を吸う。なぜだろう…不思議なくらい自然と海知が思い浮かぶ。どんなにページをめくっても、めくっても、まるで海知の言葉そのものを読んでいるようだった。でも、この日記は間違いなく僕が書いたものであり、僕の感情を綴ったものなのだ。なのに…。
――海知の人生は僕が決めてしまっているのではないか
高校時代に描いた理想像が、海知という存在によって現実になっている。これは偶然では片づけられない。手の震えが止まらなかった。僕は慌てて、日記を段ボール箱にしまった。ガムテープで段ボール箱に蓋をし、棚の奥にしまった。
無心で風呂に入った。シャワーに打たれながら考える。海知は一体、何者なのだろうか。恋愛とは違う。けれど、誰よりも一緒にいたいと思える存在。海知といると、無理に自分を変えなくていい。何かに合わせなくてもいい。ただそこにいるだけでいいと思えた。僕がずっと探していた存在。海知がどうであれ、僕の気持ちは変わらない。変えられない。でも、もしこの関係が“普通じゃない形”で成り立っているのだとしたら…。僕が書いたあの日記が、何か関係しているとするならば…。僕はこのまま、海知を好きでいてもいいのだろうか。それとも…。
風呂から上がって、布団に倒れ込んだ。急に寒気を感じて、布団に包まった。今日は寝よう。そのまま、目を瞑り、朝を迎えることにした。
***
「さっきの曲…なんて曲?」
「ドビュッシーのアラベスク1番」
***
「誰?」
僕は目が覚めた。
「夢…か…」
時計を見ると11時になっている。やばい、遅刻する…僕は布団を思いっきり剥いだ。いや、待てよ。もう冬休みか。一度勢いよくベッドから飛び出したが、再び戻ることにした。昨日のことよりも、なぜか夢の中で聞いたピアノの音が鮮明に残っている。昨日のことなんて、そんな深く考えるなと言っているような…浄化される音だったのを覚えている。すごくきれいな曲だった。ドビュッシーのアラベスク1番…曲名を教えてくれたその声がなぜか脳裏に焼き付いている。
――あの人は誰だったんだろう
大晦日。
「年末に出勤ありがとうね」
「いえ」
「相澤君、実家帰らなくてよかったの?」
「両親、旅行に行ってるみたいなので」
「あら、そうなのね」
僕は実家に帰らないことにした。激動の1年を振り返ると、やっぱり思い浮かぶ海知の顔…。せっかく自分の居場所を見つけたのに、否定されてしまう気がした。彼女はできたのか、大学ではうまくやっているのか、成績はどうなのか…質問攻めにされるだろう。その全てに自信をもって答えられる自信はない。だから、帰らないという選択をしたのだ。
年末は時給が良いからバイトに出かけた。実家に帰らないことを心配されるのはもう慣れた。適当に言い訳を話せばいい。
「お疲れさまでしたー」
夕方。誰もいない帰り道を1人でスタスタと歩いた。
家に着き、テレビをつける。そばを茹で、帰り道のスーパーで買った海老天を乗せる。器に盛りつけて、リビングの机に置いた。どのテレビ番組もあんまり面白くない。でも、つけておかないと寂しいから、消すことはしなかった。
「いただきます」
1人で飯を食べるのはやっぱり何か物足りない気がした。
午前0時。新年を迎え、両親から「明けましておめでとう」のチャットが送られてきた。とりあえず既読だけつけておく。返信はせずに、海知のチャットを開く。僕が一番初めに送りたいのは…去年のハイライトは彼ありきだったから。
「明けましておめでとう」
送信ボタンを押すと、同時に同じ文言が送られてきた。
「同時じゃん!」
「本当だね」
唐突に”運命”という言葉がよぎった。やっぱり、彼は僕の…。
「もしかして、実家帰ってない民だったりする?」
「する」
「実はさ…俺もなんだよ」
僕は思わず辺りを見渡した。どこかに監視カメラでもついているのだろうか。海知がすぐそこにいる気がする。背筋が凍るような感覚がした。
1月。授業が始まった。と言っても、数週間もすれば、後期が終わり、春休みが来る。大学生は人生の夏休み…そういわれる理由がわかった気がした。
「カズ、おはよー」
「おはよう」
海知は相変わらず、僕の隣に座る。ただ、なんかテンションが低い気がした。
授業が終わっても、海知は上の空のような感じで、外を眺めていた。珍しい…いつもはとんでもない集中力で課題をこなしているのに。
「海知、授業終わったよ」
「ああ、そっか…飯でも行くか?」
立ち上がる海知の裾を掴んだ。とっさに振り向いた彼の顔はどこか引きつっていた。
「なあ海知…なんかあったか?」
僕はご飯を食べながら話を聞くことにした。
「あのさ、最近すごく頻繁にチャットしてくる人がいて、ストレスなんだよ」
チャットを見せてもらったが、毎日一方通行の無意味なチャットがずらっと送られてきている。海知はすべて無視しているが、内容的に、この人が海知に恋をしているのは一瞬でわかった。僕は恋愛が嫌いすぎるがゆえに、こういうアンテナは鋭いのだ。いわゆる”恋愛体質な女”って感じで、一般的な男ならすぐに落とされてしまうような、小悪魔的な女のように見えた。
「なんでこんなに送られてくると思う?」
「海知のことが好きだからじゃない?」
「俺こんなに無視しているのに?」
「うん」
海知は自分が好かれていることにも気づいていなかった。
「この人、俺のサークルの後輩なんだ。この前、付き合ってくださいって言われて、どこに?って言ったら、怒られてしまって…」
「それさ、告白されてるじゃん」
「え?そうなの?」
まさか告白されていることにも気づいていないなんて、初めて見た。こんな人。
「海知はそれで、どうしたいの?」
答えはわかっている。でも、胸はざわざわした。
「付き合ったりはしないよ」
「そっか」
「自分を変えたくない」
海知が何気なく言ったその言葉…。
「上書きされるみたいで嫌なんだよ…恋愛って」
視界が揺れた。僕が日記に書いた言葉…一言一句、同じものが出て来るなんて、思ってもいなかった。
「1回経験してみても…いいんじゃない」
「え?」
「あ、いや、やっぱ何でもない」
僕は少し動揺していた。理解者がいるのは嬉しい。でも、その言葉はちょっと聞きたくなかった…かもしれない。
家に帰り、ソファに深く腰掛けた。髪の毛を手でかき上げ、遠くを見つめる。今日の海知の言葉が頭の中でぐるぐるしている。やっぱりおかしい気がする。出会ってすぐの頃の一致は、まだ説明がついた。価値観が似ているとか、考え方が近いとか、そういう言葉で誤魔化せた。
でも、新年のチャットといい、今日の会話といい…今までのそれとは違う。僕が高校の頃に感じていた違和感や言葉を、なぞるみたいに、少し遅れて、でも正確に。まるで、僕の過去を、誰かが読みながら再現しているように見えた。それだけにとどまらず、もはや僕の行動が追われていて、やがていつか一致してしまうんじゃないかという怖さまである。
もし、本当にそうだとしたら。偶然なんかじゃなくて、必然だとしたら…海知は、僕の同志じゃない。
息が浅くなる。僕に、近づいてきている。いや…僕に、なろうとしている気がする。日記に書いた言葉が、現実の人間として目の前に現れているんじゃない。逆だ。現実の人間が、僕の中の言葉に、合わせてきている。
考えれば考えるほど、背筋に冷たいものが走る。
――このまま一緒にいたら、どうなる?
海知は、どこまで“僕”になってしまうのだろうか。もし仮に、僕と完全に一致する日が来てしまったら…僕はどうなる?
そういえば、今日、海知のことが好きな女がいるって話していたよな…。海知は僕みたいに付き合ってみてやっぱり無理だと思ったタイプではない。もしかしたら、これをきっかけに、何か変わるかもしれない。もしそうなったら…僕なんかいらないってなってしまうのだろうか。考えれば考えるほど、涙が出そうになった。
そして気づいた。どの道を選んでも、僕は…
――海知といるべきではない
2月。今日で大学1年が終わる。すべての授業が終わり、教室には海知と2人だけ。
「海知…ちょっと話してもいい?」
「なんだよ急に」
やっぱり話せない…。
「結局、あの女の人とはどうなったの?」
「ああ…なんか諦めてくれなくて…」
しばらく静寂になった。
「付き合うことになった」
「え…嘘」
僕の中で、感情が抑えきれなかった。この前、付き合わないって言ったのに。でも、僕の思いに反することはいいことなんだ。そしたら僕は、この先どうなって…。悲しさ、恐怖、苛立ち…それに背反する、嬉しさ、安堵、喜び…すべての矛先が海知に向いてしまい、どうしようもなかった。さっきまでは出てこなかった言葉がすんなりと出てきてしまう。
「もう、会うのは最後にしよう」
「え?なんで?」
「ずっと思ってたことだから」
「そ、そんな冗談…俺には通じないからな」
「僕は本気だよ」
彼のことを見つめる。僕は一緒にいてはいけないんだ。このまま話してもきっと何も動かない気がした。
僕は立ち上がり、早歩きで教室の出口に向かった。振り返るな。ここで振り返ったら、もう…。
「え?ちょっと待って」
僕の腕を咄嗟に海知が掴む。
「何だよ、離して」
僕らの間を隙間風が通る。
「俺さ、なんかカズに変なことしたか?」
「いや…何もしてないよ」
僕は海知の手を振り解き、早歩きで前に進み出した。人の多い廊下を突き進む。
「じゃあ、何でだよ」
「海知は僕と一緒に居たらダメなんだよ」
自分の声が荒がっているのがわかった。通行人の視線が痛い。
「どういうこと?俺はこの先もずっと、カズと一緒にいたい」
「海知はまだ普通になれるから」
「別に普通にならなくても良いよ」
「でも…」
「カズ!」
海知が僕の前を塞いだ。両肩を抑えられ、壁に押し付けられた。その力の強さに動揺する。
「どうした?なんか嫌なことでもあったのか?」
「僕は、海知を変えてしまっている」
「さっきから何言ってんだよ…。俺は!」
「本当なんだよ。こんな僕と会って、僕が描いた理想像に海知がどんどん一致していっていて…怖いんだよ。僕とずっと一緒にいて、 海知の未来を僕が描いてしまっているような気がして…」
「それは違う」
海知は僕の頬に手を触れ、目を逸らした僕の顔を強制的に戻す。
「俺はカズと同じように、恋愛はできない。同じような人に会いたかったのは、俺もそうだ」
「でも、結局、彼女できただろ。まだ普通になれる」
「いや、俺の中では彼女って感じじゃない。だって…恋愛って自分を」
海知がこれから言おうとしていることがわかる。だってその言葉…僕のだから。
「上書きされるみたいだから、嫌なんだろ。だから、彼女とは恋愛関係じゃないって言いたいんだろ。傍から見たらカップルかもしれないけど、自分の中ではそうじゃないって、言いたいんだろ?」
「え…」
やっぱりそうだ。少し目線を上げると、海知の目が見開いているのがわかった。
「怖いよな…」
僕の言葉は海知の言葉。海知の言葉は僕の言葉。なのに、海知は微笑んでいる。
「いや、カズってやっぱり俺の気持ちなんでもわかるんだなって」
海知に抱き寄せられるのがわかった。僕の目からは涙がこぼれている。なんで…怖いのに、安心してしまうこの感覚。一緒に居たいのに、離れたいこの気持ち。
「僕は、海知のこと、全然わかんない!」
海知の腕の中で藻掻いた。
「俺は、カズに会えてよかったって思ってるよ」
嬉しいのに、嫌だ。優しいのに、怖い。海知は再び僕の頬に手を当てた。すごい冷たい。この手がこの世に本当にあるものなのかと不安になった。
「カズは何も悪いことしてないよ」
頬に当たる冷たい手に僕は手を重ねた。そのまま下に下ろし、両手で握った。
「海知にとって僕は…何なの?」
「俺の1番の理解者」
「それは、本当にそう思って…」
「もちろん。で、俺もまたカズの理解者」
僕は静かに手を離した。
「ただ、俺は親から孫の顔を見たいと急かされているし、長男だし…。いつかは、親孝行のためにとか言って、上書きしないといけない日は来ると思う。でもな、そんな俺でも俺でいられるために、カズとはこれからも…会いたい」
海知の目を見る。
「何が言いたいかって…」
大きく息を吸った。息を吐き、改めて話し出す。
「俺は…カズがいないと、俺じゃない」
言葉の重さがのしかかる。重くなれば重くなるほど、猛烈にここから逃げたくなった。
「ごめん…僕はもう海知とは会いたくない」
一瞬、海知と目を合わせて、僕は立ち去った。
外に出ると、雪が降っていた。冬の空気が頬を凍らせる。涙が暖かく感じた。
背後で扉が開く音がした気がして、反射的に振り返りそうになる。でも、振り返ったら終わる気がした。
きっと僕は、また海知のところへ戻ってしまう。あの冷たい手に触れた瞬間の安心感を、もう知ってしまったから。でも、それじゃダメなんだ。海知のために、僕は…。
雪の粒が大きくなってきた気がする。吐いた息は白く、澄んだ空気の中に溶けていった。
僕は段ボールを引き寄せる。少し埃が舞った。蓋を開けると、ノートが何冊も重なっていた。どれも安いただの大学ノート。ただ、思ったことを書くだけにしては、十分すぎるノートだった。一番上のノートを手に取る。ぱらぱらとページをめくった。紙が若干、湿気っている。そこに書かれている文字は、今の僕のよりも少し丸い気がした。いくらか読んでみる。自分で書いたはずなのに、どこか他人の文章みたいに感じた。
深夜1時。なぜかページをめくる手が止まらない。いつもなら、もう寝ている時間だというのに。とあるページを見て、思わず笑ってしまった。当時のクラスメイトに対して、どんなに仲が良くてもこれだけは許せないとか、正義気取りな文言が書かれていた。高校生の自分は、真面目だったのかもしれない。
何冊目かわからないが、なんとなく真ん中のほうのノートを手に取った。
ページをめくる。
そうだ、僕には彼女がいた過去があったんだ。もうすっかり忘れていた。彼女がいたという事実がいかに自分を蝕んでいたのかが、これを読むとよくわかる。
ページをめくる。
世間の普通に足掻き、自分が普通だと思いたいと正当化する文章。まるで”世間の普通”を”自分の普通”で上書きしているようだ。この頃の僕は生きづらかったんだろうな…。
続けて何度もページをめくる。
懐かしい感覚だった。あの頃は、毎日の感情をこうして言葉にしていた。自分を確認するために。こうやって自分を保っていたんだと思う。
ページをめくる。
ふと目が止まった。
――僕は静かな場所が好きだ。こういう場所って安心する。僕が僕でいられるから。今日も1人だったけど、こっちのほうが僕らしいんだと思う。
――窓際の席で外を眺める。ずっと、この時間が続いてくれたらいいのに。ここにいる時間だけは、世界に自分しかいない感じがする。
指先が少し冷たくなった。海知の言葉を思い出す。
「静かな場所好きだよな」
「それこそ、高校で空き教室の窓際の席とかで1人で外をぼーっと眺めながら、弁当食ってたりしてそう」
僕はゆっくり息を吐いた。
こんなにも、僕の高校時代を知っている…一度も伝えたことないのに。偶然、だよな…。海知は、僕とすごく似ているから、僕の好きなものとか、生活習慣とか、想像できただけ。そうだよ、そんなこといくらでもある。小刻みに震える手を握りしめる。
再びページをめくる。
――僕の中身を見てくれる人が現れてくれたらいいのに。
――同じ考えの人間に会ってみたい。
――僕は僕であるために、生きたい。
ページをめくる。
手が止まった。そのページは、他より色が薄く、読み返した形跡があるのか、少し折れ目もついている。僕はその文字を目で追う。
――もし、自分と似た人間が現れたら…同じタイミングで笑う、みたいなことが起きるんだろうか。
喉が少し乾いた。水を一口飲んで、続きを読む。
――僕は住んでいる世界が違いすぎる。
――だからこそ、そんな人が現実で現れたら、それはもう運命だと思う。
僕の手は止まった。ページの端を指で押さえる。見たくないのに、見たい…そんな感覚がした。
次の行。
――もし、自分と似た人間が人が現れたら…
――きっとその人は僕と同じように、窓際の席に座ってくれると思う。
僕はゆっくり顔を上げた。部屋の時計の音だけが聞こえる。大学生になってからの記憶がどっと脳に入ってくる感覚がした。ここまで現実になっていると、もはや怖い気がする。時計の針の音がカチカチと鳴り響く。
最後のページを見る。そこには日記は書かれていなかった。ただ1文だけ、綴られていた。
――もし、そんな人間に出会えたら、絶対に手放すな。
正直、日記以外の文を書いた覚えはなかった。でも、これは明らかに僕の筆跡で、僕が僕に向けたメッセージだろう。なのに、思い出せない…思い出せる気もしない。
部屋がやけに静かに感じた。スマホが振動し、机の上で小さく光る。僕は驚いて背筋が反射的に伸びた。冷や汗をかいている。
スマホを見ると、海知からのチャットが1件。画面を開くその手は僅かに震えている。
「今、ふと思ったんだけど」
「カズってさ」
少し間を置いて、さらにもう1件届く。
僕はスマホを持ったまま、しばらく動けなかった。ノートのページは、まだ開いたままだった。
「俺の運命の人だって思うんだよね」
僕は静かにノートを閉じた。大きく息を吸う。なぜだろう…不思議なくらい自然と海知が思い浮かぶ。どんなにページをめくっても、めくっても、まるで海知の言葉そのものを読んでいるようだった。でも、この日記は間違いなく僕が書いたものであり、僕の感情を綴ったものなのだ。なのに…。
――海知の人生は僕が決めてしまっているのではないか
高校時代に描いた理想像が、海知という存在によって現実になっている。これは偶然では片づけられない。手の震えが止まらなかった。僕は慌てて、日記を段ボール箱にしまった。ガムテープで段ボール箱に蓋をし、棚の奥にしまった。
無心で風呂に入った。シャワーに打たれながら考える。海知は一体、何者なのだろうか。恋愛とは違う。けれど、誰よりも一緒にいたいと思える存在。海知といると、無理に自分を変えなくていい。何かに合わせなくてもいい。ただそこにいるだけでいいと思えた。僕がずっと探していた存在。海知がどうであれ、僕の気持ちは変わらない。変えられない。でも、もしこの関係が“普通じゃない形”で成り立っているのだとしたら…。僕が書いたあの日記が、何か関係しているとするならば…。僕はこのまま、海知を好きでいてもいいのだろうか。それとも…。
風呂から上がって、布団に倒れ込んだ。急に寒気を感じて、布団に包まった。今日は寝よう。そのまま、目を瞑り、朝を迎えることにした。
***
「さっきの曲…なんて曲?」
「ドビュッシーのアラベスク1番」
***
「誰?」
僕は目が覚めた。
「夢…か…」
時計を見ると11時になっている。やばい、遅刻する…僕は布団を思いっきり剥いだ。いや、待てよ。もう冬休みか。一度勢いよくベッドから飛び出したが、再び戻ることにした。昨日のことよりも、なぜか夢の中で聞いたピアノの音が鮮明に残っている。昨日のことなんて、そんな深く考えるなと言っているような…浄化される音だったのを覚えている。すごくきれいな曲だった。ドビュッシーのアラベスク1番…曲名を教えてくれたその声がなぜか脳裏に焼き付いている。
――あの人は誰だったんだろう
大晦日。
「年末に出勤ありがとうね」
「いえ」
「相澤君、実家帰らなくてよかったの?」
「両親、旅行に行ってるみたいなので」
「あら、そうなのね」
僕は実家に帰らないことにした。激動の1年を振り返ると、やっぱり思い浮かぶ海知の顔…。せっかく自分の居場所を見つけたのに、否定されてしまう気がした。彼女はできたのか、大学ではうまくやっているのか、成績はどうなのか…質問攻めにされるだろう。その全てに自信をもって答えられる自信はない。だから、帰らないという選択をしたのだ。
年末は時給が良いからバイトに出かけた。実家に帰らないことを心配されるのはもう慣れた。適当に言い訳を話せばいい。
「お疲れさまでしたー」
夕方。誰もいない帰り道を1人でスタスタと歩いた。
家に着き、テレビをつける。そばを茹で、帰り道のスーパーで買った海老天を乗せる。器に盛りつけて、リビングの机に置いた。どのテレビ番組もあんまり面白くない。でも、つけておかないと寂しいから、消すことはしなかった。
「いただきます」
1人で飯を食べるのはやっぱり何か物足りない気がした。
午前0時。新年を迎え、両親から「明けましておめでとう」のチャットが送られてきた。とりあえず既読だけつけておく。返信はせずに、海知のチャットを開く。僕が一番初めに送りたいのは…去年のハイライトは彼ありきだったから。
「明けましておめでとう」
送信ボタンを押すと、同時に同じ文言が送られてきた。
「同時じゃん!」
「本当だね」
唐突に”運命”という言葉がよぎった。やっぱり、彼は僕の…。
「もしかして、実家帰ってない民だったりする?」
「する」
「実はさ…俺もなんだよ」
僕は思わず辺りを見渡した。どこかに監視カメラでもついているのだろうか。海知がすぐそこにいる気がする。背筋が凍るような感覚がした。
1月。授業が始まった。と言っても、数週間もすれば、後期が終わり、春休みが来る。大学生は人生の夏休み…そういわれる理由がわかった気がした。
「カズ、おはよー」
「おはよう」
海知は相変わらず、僕の隣に座る。ただ、なんかテンションが低い気がした。
授業が終わっても、海知は上の空のような感じで、外を眺めていた。珍しい…いつもはとんでもない集中力で課題をこなしているのに。
「海知、授業終わったよ」
「ああ、そっか…飯でも行くか?」
立ち上がる海知の裾を掴んだ。とっさに振り向いた彼の顔はどこか引きつっていた。
「なあ海知…なんかあったか?」
僕はご飯を食べながら話を聞くことにした。
「あのさ、最近すごく頻繁にチャットしてくる人がいて、ストレスなんだよ」
チャットを見せてもらったが、毎日一方通行の無意味なチャットがずらっと送られてきている。海知はすべて無視しているが、内容的に、この人が海知に恋をしているのは一瞬でわかった。僕は恋愛が嫌いすぎるがゆえに、こういうアンテナは鋭いのだ。いわゆる”恋愛体質な女”って感じで、一般的な男ならすぐに落とされてしまうような、小悪魔的な女のように見えた。
「なんでこんなに送られてくると思う?」
「海知のことが好きだからじゃない?」
「俺こんなに無視しているのに?」
「うん」
海知は自分が好かれていることにも気づいていなかった。
「この人、俺のサークルの後輩なんだ。この前、付き合ってくださいって言われて、どこに?って言ったら、怒られてしまって…」
「それさ、告白されてるじゃん」
「え?そうなの?」
まさか告白されていることにも気づいていないなんて、初めて見た。こんな人。
「海知はそれで、どうしたいの?」
答えはわかっている。でも、胸はざわざわした。
「付き合ったりはしないよ」
「そっか」
「自分を変えたくない」
海知が何気なく言ったその言葉…。
「上書きされるみたいで嫌なんだよ…恋愛って」
視界が揺れた。僕が日記に書いた言葉…一言一句、同じものが出て来るなんて、思ってもいなかった。
「1回経験してみても…いいんじゃない」
「え?」
「あ、いや、やっぱ何でもない」
僕は少し動揺していた。理解者がいるのは嬉しい。でも、その言葉はちょっと聞きたくなかった…かもしれない。
家に帰り、ソファに深く腰掛けた。髪の毛を手でかき上げ、遠くを見つめる。今日の海知の言葉が頭の中でぐるぐるしている。やっぱりおかしい気がする。出会ってすぐの頃の一致は、まだ説明がついた。価値観が似ているとか、考え方が近いとか、そういう言葉で誤魔化せた。
でも、新年のチャットといい、今日の会話といい…今までのそれとは違う。僕が高校の頃に感じていた違和感や言葉を、なぞるみたいに、少し遅れて、でも正確に。まるで、僕の過去を、誰かが読みながら再現しているように見えた。それだけにとどまらず、もはや僕の行動が追われていて、やがていつか一致してしまうんじゃないかという怖さまである。
もし、本当にそうだとしたら。偶然なんかじゃなくて、必然だとしたら…海知は、僕の同志じゃない。
息が浅くなる。僕に、近づいてきている。いや…僕に、なろうとしている気がする。日記に書いた言葉が、現実の人間として目の前に現れているんじゃない。逆だ。現実の人間が、僕の中の言葉に、合わせてきている。
考えれば考えるほど、背筋に冷たいものが走る。
――このまま一緒にいたら、どうなる?
海知は、どこまで“僕”になってしまうのだろうか。もし仮に、僕と完全に一致する日が来てしまったら…僕はどうなる?
そういえば、今日、海知のことが好きな女がいるって話していたよな…。海知は僕みたいに付き合ってみてやっぱり無理だと思ったタイプではない。もしかしたら、これをきっかけに、何か変わるかもしれない。もしそうなったら…僕なんかいらないってなってしまうのだろうか。考えれば考えるほど、涙が出そうになった。
そして気づいた。どの道を選んでも、僕は…
――海知といるべきではない
2月。今日で大学1年が終わる。すべての授業が終わり、教室には海知と2人だけ。
「海知…ちょっと話してもいい?」
「なんだよ急に」
やっぱり話せない…。
「結局、あの女の人とはどうなったの?」
「ああ…なんか諦めてくれなくて…」
しばらく静寂になった。
「付き合うことになった」
「え…嘘」
僕の中で、感情が抑えきれなかった。この前、付き合わないって言ったのに。でも、僕の思いに反することはいいことなんだ。そしたら僕は、この先どうなって…。悲しさ、恐怖、苛立ち…それに背反する、嬉しさ、安堵、喜び…すべての矛先が海知に向いてしまい、どうしようもなかった。さっきまでは出てこなかった言葉がすんなりと出てきてしまう。
「もう、会うのは最後にしよう」
「え?なんで?」
「ずっと思ってたことだから」
「そ、そんな冗談…俺には通じないからな」
「僕は本気だよ」
彼のことを見つめる。僕は一緒にいてはいけないんだ。このまま話してもきっと何も動かない気がした。
僕は立ち上がり、早歩きで教室の出口に向かった。振り返るな。ここで振り返ったら、もう…。
「え?ちょっと待って」
僕の腕を咄嗟に海知が掴む。
「何だよ、離して」
僕らの間を隙間風が通る。
「俺さ、なんかカズに変なことしたか?」
「いや…何もしてないよ」
僕は海知の手を振り解き、早歩きで前に進み出した。人の多い廊下を突き進む。
「じゃあ、何でだよ」
「海知は僕と一緒に居たらダメなんだよ」
自分の声が荒がっているのがわかった。通行人の視線が痛い。
「どういうこと?俺はこの先もずっと、カズと一緒にいたい」
「海知はまだ普通になれるから」
「別に普通にならなくても良いよ」
「でも…」
「カズ!」
海知が僕の前を塞いだ。両肩を抑えられ、壁に押し付けられた。その力の強さに動揺する。
「どうした?なんか嫌なことでもあったのか?」
「僕は、海知を変えてしまっている」
「さっきから何言ってんだよ…。俺は!」
「本当なんだよ。こんな僕と会って、僕が描いた理想像に海知がどんどん一致していっていて…怖いんだよ。僕とずっと一緒にいて、 海知の未来を僕が描いてしまっているような気がして…」
「それは違う」
海知は僕の頬に手を触れ、目を逸らした僕の顔を強制的に戻す。
「俺はカズと同じように、恋愛はできない。同じような人に会いたかったのは、俺もそうだ」
「でも、結局、彼女できただろ。まだ普通になれる」
「いや、俺の中では彼女って感じじゃない。だって…恋愛って自分を」
海知がこれから言おうとしていることがわかる。だってその言葉…僕のだから。
「上書きされるみたいだから、嫌なんだろ。だから、彼女とは恋愛関係じゃないって言いたいんだろ。傍から見たらカップルかもしれないけど、自分の中ではそうじゃないって、言いたいんだろ?」
「え…」
やっぱりそうだ。少し目線を上げると、海知の目が見開いているのがわかった。
「怖いよな…」
僕の言葉は海知の言葉。海知の言葉は僕の言葉。なのに、海知は微笑んでいる。
「いや、カズってやっぱり俺の気持ちなんでもわかるんだなって」
海知に抱き寄せられるのがわかった。僕の目からは涙がこぼれている。なんで…怖いのに、安心してしまうこの感覚。一緒に居たいのに、離れたいこの気持ち。
「僕は、海知のこと、全然わかんない!」
海知の腕の中で藻掻いた。
「俺は、カズに会えてよかったって思ってるよ」
嬉しいのに、嫌だ。優しいのに、怖い。海知は再び僕の頬に手を当てた。すごい冷たい。この手がこの世に本当にあるものなのかと不安になった。
「カズは何も悪いことしてないよ」
頬に当たる冷たい手に僕は手を重ねた。そのまま下に下ろし、両手で握った。
「海知にとって僕は…何なの?」
「俺の1番の理解者」
「それは、本当にそう思って…」
「もちろん。で、俺もまたカズの理解者」
僕は静かに手を離した。
「ただ、俺は親から孫の顔を見たいと急かされているし、長男だし…。いつかは、親孝行のためにとか言って、上書きしないといけない日は来ると思う。でもな、そんな俺でも俺でいられるために、カズとはこれからも…会いたい」
海知の目を見る。
「何が言いたいかって…」
大きく息を吸った。息を吐き、改めて話し出す。
「俺は…カズがいないと、俺じゃない」
言葉の重さがのしかかる。重くなれば重くなるほど、猛烈にここから逃げたくなった。
「ごめん…僕はもう海知とは会いたくない」
一瞬、海知と目を合わせて、僕は立ち去った。
外に出ると、雪が降っていた。冬の空気が頬を凍らせる。涙が暖かく感じた。
背後で扉が開く音がした気がして、反射的に振り返りそうになる。でも、振り返ったら終わる気がした。
きっと僕は、また海知のところへ戻ってしまう。あの冷たい手に触れた瞬間の安心感を、もう知ってしまったから。でも、それじゃダメなんだ。海知のために、僕は…。
雪の粒が大きくなってきた気がする。吐いた息は白く、澄んだ空気の中に溶けていった。
