日付のない日記

 6月。あの日から、僕と海知はよく一緒に勉強するようになった。オンライン授業であれば、大学に行かなくていいという思い込みは入学して1ヶ月で打破された。なんだかんだ、ほぼ毎日大学に行っている。授業をするためではなくて、仲間と会うために。
 大学生って、人との繋がりが大事とかよく言うが、それは過去問とか答えとかを見せ合える人がいないと落単するという意味だと理解した。海知があの時「写せ」と僕に言ったのは、案外、間違いではないのかもしれないと思い始めたのはこの時期だ。中間テストは海知の持っている過去問がなければ、確実に落単していた。要するに、言葉を選ばなければ、使い捨てみたいな人が必要なんだと思う。そりゃ、仲良い人ができて、協力できればいいが、極論を言えば、仲良くなくたって、過去問さえ手に入れられればそれでいいのだ。僕だって、誰かの使い捨てになる可能性があるのだろう。
 でも、海知はなぜか使い捨てにならない感じがあった。そんな会ってまだ数ヶ月しか経ってないのに、一生関わりのある人なのだろうという確信に近い思いがあった。理由はわからないが、強いて言うなら…信じられないかもしれないが、初回に会って以来、一度も"待ち合わせ"をしたことがないから、というのが僕の答えだ。
「おはよー」
「…お、おはよう」
「そんな驚かなくていいじゃん」
「いや、だって今日も会ったなって思って…」
「ああ…確かに、言われてみれば、そっか」
「もしかしてだけど…海知って、毎日僕のこと探してる?」
 僕は何を聞いているのだろうか。
「いや、そんなことないけど。俺の行くところにいつもいるってだけ」
「そっか…」
 僕はそのまま机に向かい、課題を進めた。空は僕の感情を表すかのようにどんよりとしていた。

 そのまま沈黙は2時間も3時間も続く。特に話すことはない。ただそれだけなのに、むしろ居心地が良かった。今まで僕は沈黙が怖い節があった。この空間がつまらなくないかなとか、そういうのを考えてしまうから。でも、今は全くその逆である。
「そろそろ飯でも食うかー」
「そうだね」
 僕らは財布を持って教室を後にした。


 7月。こんなに時間って早かったっけ?駅から大学まで行く途中にふと思った。前期の授業も残りわずかだった。例の実験の授業も大詰めを迎えている。大きなレポートを出せば、夏休みが待っている。最初は友達がいなくて不安だったけど、今は海知がいるから、頑張れている。そんな気がしていた。
 午前中はバイトをして、昼ごはんを食堂で食べたら実験。今日はあの教室に寄らなかった。どうせ、あとで実験で会えるしな…。そう思ったから、寄らなかった。
 食堂に着き、空いている席を探す。オンライン授業を取っている人が多いせいか、空席はいくらでもある。辺りを見渡していると、窓際の角の席に、見覚えのある姿があった。勝手に足はそちらを向いてしまっている。話しかけずにはいられなかった。
「…おはよう」
「カズ!おはよう!すごいな俺たち!息ぴったりじゃん」
 海知は今日、ここで勉強をしていたようだ。彼はいつも笑顔で僕の方を見てくれる。それが何だか嬉しかった。この偶然が必然になれば…。
「注文しに行った?」
「ううん、まだ」
「行こうぜ」
 勉強道具を片して、僕の手を取った。少し強引さを感じたのだが、嫌ではなかった。ズカズカと注文レーンまで僕を引っ張っていった。
「うわ、今日唐揚げあるじゃん!」
「好きなの?」
「うん、めっちゃ好き!カズは?」
「僕は…生姜焼きかな」
 多分、このレーンで僕たちが1番うるさかったと思う。

「いただきます!」
 海知は思いっきりご飯をかき込んでいる。
「そんなお腹すいていたの?」
「朝ご飯、寝坊して食えなかったんだよ」
 海知は少しむせた。
「そんな急いで食べんのは体に良くないよ」
 僕は思わず微笑んだ。海知の無邪気な一面は少し可愛いと思う時がある。

 昼ご飯を食べ終え、外へ出た。実験室に行かなければならないが、突然の雷雨だった。
「ああ、俺、傘持ってないや」
「すぐ止むでしょ」
 そんなん言っていても仕方ない。僕はそのまま走っていこうとしたが、海知は僕の腕を掴んで引き留めた。
「そんな無視すんなよ」
 海知は急に距離が近くなったりする。それが彼のいいところなのだろうけど、僕はやっぱり慣れない。
「無意味な会話が好きじゃないだけだよ」
「え…」
 海知の顔が固まっているのがわかった。
「あ、ごめん、嫌な思いさせちゃった…?」
「あ、いや、そんなんじゃない」
「そうか、ならよかった」
「やばい、間に合わない!」
 時計を見ると、実験開始まであと5分だった。何でいつも僕たちはこんなにもギリギリを攻めてしまうのだろうか。2人で雨の中、外に飛び出した。


 9月。時間はあっという間に過ぎ去り、もう1年生の半分を過ぎた。夏休みはバイトに明け暮れていて、誰とも遊ぶとかそういうのはなかった。久しぶりに大学に行くと、いつも勉強していたあの305号室は、授業で使われるようになってしまっていた。学生全体の成績の低下が著しく、後期からはオンライン授業から対面授業に切り替えると言い出した教授が増えた。時代の流れに沿って、オンラインでも授業が受けられるようになったと思い込んでいたが、人生そう甘くはないようだ。同時に、会えると確約できる場所が無くなってしまった気がして、少しがっかりした。別の空き教室を探して、海知に知らせよう。そしたらまた会える場所ができる。僕は片っ端から教室のドアを開けていった。
 キャンパスを見渡すと、なんだか人が増えた気がする。そのせいもあってか、空き教室は全然見つからなかった。正確に言うと、空き教室はあるんだけど、違うグループが占領していることが多くて、到底は入れやしなかった。諦めてフリースペースにでも行こうか。最近できた新しい棟を最後に見ることにした。最上階の隅にある教室…ここなら行きにくいし、誰もいないんじゃないか?恐る恐るドアを開けた。ちらっと見た感じ、静かだし、使われてない気がする。教室の奥にも人がいないか確認する。そこには、1人、窓際の席で外を見ている人がいた。でも、僕はそのままこの教室に入った。
「海知もここ見つけたんだ」
 彼はまるで僕を待っていたかのようにこっちを向いた。
「それはこっちのセリフだよ」
「僕もそこ、座っていい?」
「当たり前だろ」
 海知はトントンと隣の席を軽く叩いた。ちょっと悔しかったけど、そのまま座った。
「なんかさ、いい匂いしない?」
「おっ!カズー、気づいちゃったかぁ」
「なんだよ、その言い方」
「じゃーん!ジャスミンの香水。あっさりしてていいでしょ」
「僕もこの匂い好き」
「つける?」
「いいよ、別にー」
 さっきの不安は嘘のように消えた。海知はいつも僕を笑顔にしてくれる。
 後期になっても、海知とは会える気がした。

 授業が始まって1週間が経とうとしている。まだ対面授業には慣れていない。教室の位置も分からずに迷うことが多々ある。今日も無事に教室に辿り着けたことに安堵した。窓際の席について、パソコンを広げる。
「カズ、この授業も取ってたんだ」
「え…」
 僕は目を丸くした。選択の授業もたくさんあるのに、海知とあまりにも授業が被りすぎている。
「なんかさ、俺ら会うことやけに多くない?」
 海知も気づいていたのか。同じ学科だから、よくあることなのか?と思っていたが…そうでもないようだ。お互いに同じことを思っていたのなら、となんか安心した。海知は僕の隣の席に座った。
「ちょっとさ、時間割見せてよ」
「いいけど」
 授業そっちのけで改めてお互いに時間割を見せ合うことにした。
「そんな、バカな」
「そこ!静かにしなさい」
「すいません…」
 無意識に瞳孔が開くのがわかった。僕は思わず声が出てしまった。スマホの画面に映る時間割が全く同じ…それは全ての授業が同じであることを意味している。何も約束していないのに、まさか全く同じだとは予想だにしなかった。なのに、海知はそんなもんだろうと自信満々な顔をしている。何でそんなにノーリアクションでいられるのか、僕には理解できない。
 彼を仲の良い友達としてではなく、その存在自体を意識し始めたのは、多分この頃だろう。
 今日の授業はおかげさまで何も頭に入ってこなかった。


 10月。後期の授業にも慣れてきた頃。僕たちは気づけば週5日会う仲になっていた。対面授業が増えた今、僕たちは自習とか、過去問とかのためではなく、授業のために毎日大学に通う羽目になった。周りの学生は対面授業が増えて、テンションが下がっている中、僕は必然的に彼に会えると思うと、億劫だと思っていた日々もなんか少し楽しい気がした。別に何かするわけではないけれど。
 僕たちは授業が全部同じというのもあり、空きコマも含めて、朝から晩まで一緒にいた。空きコマも話したりするのではなく、ただ黙ってお互いに課題をこなすだけ。なんも話していなくても、家族のような関係性というか…居心地がよかった。
 今日も今日とて、朝から晩まで大学にいた。酷使した目と肩が悲鳴を上げている。やることも終わったので、駅に向かうことにした。外に出ると、もう真っ暗だった。歩きながら、海知は僕に聞いた。
「今何時?」
「えっとね…」
 あれ?腕を見ても何もなかった。今日に限って腕時計を忘れた。ポケットに手を突っ込んでスマホを探すが、ない。ああ、鞄に入れたんだった。鞄からスマホを取り出そうとするが、手こずってしまう。恥ずかしい。
「どうした?」
「今日に限って時計忘れたわー」
 やっとのことでスマホを取り出すと、遮るように海知が肩を叩いた。
「見て見て」
 海知が手首を見せる。
「俺も忘れた」
 思わずお互いを見て笑い合った。ほぼ忘れることがないと言っていいくらいの腕時計を同時に忘れるなんて、やっぱ自分達は気が合うんだなと思った。海知は公園の時計を指した。
「もう、8時回ってるわ」
「じゃあ…夜ご飯でも行きますか」
 もしかしたら、明日も明後日も、僕と海知は朝から勉強した後、夜ご飯を食べに行くことになるかもしれない。いや、内心、そうなってほしい。海知といると時間が一瞬に感じる。同じ時間軸で生きているとは思えないほどに。

 今日は韓国料理屋に行った。僕が行きたいと思っていた店だ。店は2階。窓から見えるネオン色に輝く街がきれいに見える。店内はK-POPのMVがあちらこちらで流れていて賑やかだが、静かな客が多く、むしろ心地良い。いわゆる学生歓迎みたいな、居酒屋のような場所は行きたくなかった。
「ここ、なんかいい店」
 海知がボソッとつぶやいたその言葉に僕はこっそり笑った。

「はあ…めっちゃ食ったー」
「ご満悦そうでよかった」
「また来ようよ」
「もちろん」
 僕たちは授業が同じことが合う理由として成り立っている。だからこそ、この日常が当たり前になっている。もし会えない日があったら、僕は…。でも、そうはならない根拠のない自信があった。
「明日来るでもいいよ」
 海知は僕の肩に手を回した。海知が僕に触れて来るときは、嬉しい時。
「それは早すぎ」
 僕は軽くあしらった。ずっとこのまま、この時間が続けばいいのに。ずっと、このまま…。
「また明日…会えるかな」
「そりゃ、会えるだろ。俺たち時間割一緒なんだから」
「あ、そっか」
「何でそんなことわざわざ聞くんだよ」
「いいじゃん、聞いたって」
「ふーん」
「何だよ、その"ふーん"って!」
 ただ歩いているだけなのに、こんなにも楽しいと思ったのは生まれて初めてだ。話しながら歩いていたら、いつの間にか、駅に着いていた。
「早いな…一緒にいると」
「なんか言った?」
「な、なんでもない!じゃあ、また明日ね!」
「おう!じゃあな」
 海知は僕と違う電車なのだが、改札まで送ってくれた。振り向くと、まだ僕を見ている。僕は手を振って駅のホームに向かった。
 心のどこかで特別な何かを感じる。この感情の正体に僕は多分気づいている。でも、気づかないふりをした。僕らの関係に終わりなんて来ない。そう信じたかったから、僕は知らないふりをした。 


 12月。冬休み前、最後の授業。時計を見ると、12時過ぎ。午前中は確かに空きコマではあるのだが、いつもなら昼前には彼と会えて、数時間勉強をしている時間。なのに…僕はまだ、彼と会えていない。季節は冬。窓がガタガタと音を立てていた。
 やっぱり、僕たちが会えていたのは、偶然だったのかもしれない。305号室で会えたことも、時間割が一緒だったのも、偶然が続いただけ。今思えば、後期は平日、毎日会っていた。そうだよ、時間割が一緒だったとしても、毎日、当たり前のように会えていたことがおかしかったんだ。当たり前すぎて、忘れてた。でも…なぜ、こんなにも、胸が苦しくなるのだろうか。
 僕はあの場所に向かった。今日は授業最終日で休講にしてしまう教授も多いはずだ。あそこなら…もしかしたら。
 3階まで階段を登り、奥の部屋に行く。力の入った手でドアを開ける。でも…誰もいなかった。ここにもいないなら、今日はもう…会えないのかもしれない。僕は窓際の席に座り、パソコンを広げる。いつもなら昼ご飯を食べている時間ではあるが、今日はそういう気分ではなかった。窓の外を見る。窓に降りかかる雨が時々、結晶になって見えた。
 やっぱりここは高校の時のあの教室を彷彿させる。景色が似ているからか、なぜかあの時の感覚を鮮明に思い出すのだ。いつも1人で外を眺めていたあの頃。忘れかけていた感覚が蘇ってくるようだった。

 すっかり昼ご飯を買いに行くタイミングを逃し、結局、そのまま勉強を続けていた。時折、教室のドアが開くたび、期待してしまう。僕はドアが開くと、この教室が空き教室なのか覗く人を反射的に見ていた。そしてその度に、すぐにドアが閉じて、覗いた人は消えて行く。何かオーラが出ているのかもしれない。きっと、僕の目からは殺気めいた何かが出ていたんだと思う。
 時計を見ると午後3時。いまだに1人だ。時計がカチカチと音を立てる。教室が広いだけによく響いていた。流石にお昼でも食べるか…。僕は席を立ち、ドアへ向かった。ドアノブに手をかざすと、ドアが同時に開いた。一瞬、時間が止まった感覚がした。目の前には…見覚えのある顔があった。黒いパーカーのフードを深く被っていて、傍から見たら不審者だ。何か感情を自覚する間もなく、その人は僕に抱きついてきた。
「今日は会えないと思ったー」
 ドアの閉まる音がした。その大きな音が聞こえないくらい、僕の心臓がうるさいことに気づく。パーカーは湿っていて、冷たい。何もできないまま少しして、離れた。その顔はどこか必死そうで、眼差しが熱い。
「今日バイト入れてたんだよ。ごめんな」
「…うん」
「カズはここにいるだろうって思ったんだ」
 同じこと考えてた、なんて恥ずかしくて言えなかった。
「久しぶりに来たけど、やっぱり、俺らと言えばここしかないよな!」
 僕はずっしりと肩を掴まれた。
「もしかして、俺に会いたくなかった?」
「いや、そんなことは…」
 海知は笑顔でこちらを見る。なぜか、反射的に目を逸らしてしまった。自分の意思に反して、目を合わせられない。
「なら、よかった」
 僕はしばらく動けなかった。肩を掴むその手から、重さを感じた。
「よーし!じゃあ勉強するかー」
 しばらくして、その手はやっと僕から離れた。僕の隣の席にどさっと荷物を置く。
「海知…僕、これから…」
「俺、今日ずっとバイトしてたから、昼食べてないんだよね…カズもでしょ?」
「…え、なんで分かるの?」
 海知は笑顔で僕を見る。
「やっぱり!軽食買ってきてるから、これ食べていいよ」
「え、あ、今買いに行こうって思ってたんだけど…」
「嫌か?」
 海知はまっすぐ僕を見ていた。目の奥が黒いというか、吸い込まれそうなその目はまるで別人のようにも感じた。初めてこんなにも目が合ったかもしれない。少し腰が引ける感じがした。
「時間もったいないでしょ?いいよ、これ食べて」
「あ…ありがとう」
 これを偶然といっていいのか、わからなかった。僕はこの人に全て見透かされているのだろうか。心臓の音はうるさいままだ。正直、この鼓動は背反する2つの感情が混ざっているものだと思う。会いたいのに、逃げたい。一緒に居たいのに、離れたい。僕は僕自身の感情に自信が持てなかった。

 昼ご飯を食べるのが遅かったからか、いつも通り勉強していたら、夜になっていた。今日も勉強中はほとんど話していない。僕たちの関係性に名前を付けるなら、どうなるのだろうか…。
「今日さ、俺の行きたい店、行ってみてもいい?」
 帰り道、僕たちは駅前のラーメン屋に入った。大学生がよく来る店らしく、店内はやけに賑やかだった。
「ここ、行ってみたかったんだよねー」
 海知がメニューを見ながら言う。ラーメン屋といえば、券売機のイメージだが、ここはどこかファミレス感のある店だった。カウンター席よりも、テーブル席が多いから、どうもラーメン屋っぽくない。
「カズは来たことある?ここ」
「ううん、初めて」
「そっか、ならよかった」
 僕は水を一口飲んだ。
「何にするか決まった?」
「え、あ…うん」
「おっけー。すいません!」
 海知の声はよく通る。声が篭りがちな僕とは対照的だ。店員はその声にすぐに振り向いた。
「とんこつラーメンで、麺はバリカタで」
 慣れた手つきで海知は注文を済ませる。本当に初めてなのか…?
「カズは?」
「え、あ…じゃあ、塩ラーメンの……バリカタで」
 注文を済ませると、海知が肘をついてこちらを見ているのがわかった。その顔はほんのり笑っている。
「なんだよ」
「いや、慣れてなくて可愛いなーって思って」
「そ、そんなことないから」
 思わず水を口に含む。
「カズさ」
 トーンダウンした声で僕に話しかける。どこか、いつもの海知じゃない感じもしなくはない…。言葉で表すのは難しいが、とにかく、何か違うように感じたんだ。
「高校のときってどんな感じだった?」
 突然の質問にむせてしまった。
「っ…急になんだよ」
「なんか、聞きたくなったから」
 まっすぐこちらを見る視線が熱かった。なんで、こんなにも海知の目は真っすぐなのだろうか。
「べ、別に…普通だよ」
 視線に負けて目を逸らす。再度、水を飲んで顔のあたりを冷やす。少し考えてから僕は付け加えた。
「…いや、やっぱ、普通じゃなかったかも」
「どっちだよ」
 水を飲んでいた海知は少しむせて笑った。
「年頃なのに、恋愛とか…そういうの興味なかったし」
「あー」
 海知は急に低い声を発した。頷きながら続ける。
「なんかそんな感じする」
「なんだよ、”そんな感じ”って。ってか、海知こそ、どうなんだよ」
「うーん…」
「お待たせしました!とんこつと塩のバリカタです!」
「ありがとうございます」
「とりあえず、食べよっか」
 麺を啜り、しばらく沈黙になった。少し間が空いてから、海知は言う。ここでの沈黙は、なんだか心地悪い気がした。
「…自分を変えたくないタイプ」
 僕は箸を持つ手を止めた。
「図星か?」
「いや、急に話…。ってか、なんでそう思うんだよ?」
 海知は少し笑ってこっちを見た。
「可愛いな、カズは」
 首元がどこからか熱を発している気がした。
「俺のことだよ」
「え?」
「だから、俺が”自分を変えたくないタイプ”なの」
「ああ…」
「カズか聞いたんじゃん、”海知はどうなんだ”って」
「そっか」
 図星だった。勘違いしてしまったけど、その言葉はやっぱり僕に向けられていた気がして、妙に納得してしまう自分がいた。僕は昔からそうだった。誰かと付き合うことで、自分が上書きされるような感覚が嫌だった。まさか、海知も同じだって思っていいのか?いや、そんなわけ…。でも、図星って…。
「カズってさ」
 海知は続けた。
「付き合うっていう行為っていうの?そういう現実?…ってか、事実?みたいなのがさ、自分を変えちゃうとか、思ったりしない?仮にそうじゃないとしても、自分を変えられるみたいなこと、嫌いそう」
 胸の奥が小さく跳ねる感じがした。同時に変な汗をかいた。
「……」
「実は結構、頑固なところあるもんな」
 僕は何も言えなかった。海知は特に気にする様子もなく、スープを飲んでいる。偶然だろう。そう思うことにした。今日の会話はなんか変な感じがした。
 海知は箸を止めた。
「俺さ、なんか今ちょっと嬉しい」
「…それは、どういう…?」
「いや、あのさ。あんまり信じてもらえないんだけど…俺もさ、恋愛嫌いなんだよな」
 さっきまでの変な汗はどこかへ消えた。出会った時から、そんな気はしていたけど、改めて聞くと、なんだか安心した。
「え…まじ?」
「なんで笑うんだよ」
「なんか、同じ人がいるって嬉しくて」
「俺も、だから嬉しいんだって」
 僕らはこの日、2人だけの秘密ができた。誰にも理解されない、信じてもらえない…変わり者って言われることも多い。でも、僕らなら分かり合える。僕らは何度も分かち合えた喜びで同じタイミングで笑いあった。そんな当たり前のようで、僕らにとっては夢みたいなことができた日だった。
「俺の場合はさ、本当に生まれたときから一度も彼女が欲しいって思ったことなくて。でも、ゲイってわけでもないんだ」
 いつもは笑って話す海知だが、真剣な目つきになった。
「周りの奴らを見ていて、付き合うと別人みたいになるのが気持ち悪いなって、ずっと思ってたんよ」
「わかる」
「高校の時は、彼女がいないことを揶揄われてきたけど、ある人と出会って、自分を強く持って生きようって決めたんだ」
「ある人って…」
「すいません。閉店の時間になります」
「あっ、今出ます」
 話の途中だったが、店を出ることになった。

 もう夜の11時を回っていた。夜の空気が冷たく感じる。横並びで駅に向かって歩く。時々、彼の手が僕に触れる。その手はものすごく冷たかった。けど、握って温めようとか、少女漫画みたいな…そういう勇気は僕にはなかった。
「さっきの話の続きだけど、ある人って…」
「カズってさ」
 僕の問いかけは海知の言葉でかき消された。
「静かな場所好きだよな」
「まぁ…そうだね」
「ごめんな、今日の店、うるさくて」
「ううん、全然」
 ゆったりとした足取りで歩き続ける。若干、僕のほうが海知より後ろを歩く。
「それこそ、高校で空き教室の窓際の席とかで1人で外をぼーっと眺めながら、弁当食ってたりしてそう」
 足が止まりそうになった。
「……」
 海知は前を向いたまま歩いている。僕は聞いた。
「なんでそう思うの」
 海知は少し首を傾げる。
「うーん、なんか…そういう顔してる」
「顔?」
「うん」
 海知は笑って僕の手を握った。
「カズの手、あったかい」
 冷え切ったその手は思った以上に細い気がした。僕はその手を握り返した。
「カズっていつも、窓際座って外見てるじゃん?なんとなく、昔から外を見る癖あったのかなーって思ってさ。今日も、勉強飽きて外見てただろ…違う?」
「そう…かも」
「やっぱり!俺すごくね?カズのこと、なんでもわかっちゃうわ」
「すごいな…」
 僕の頭には目の前とは別の光景が浮かんでいた。

 高校三年の冬。
 三階の空き教室。
 窓際の席。
 誰もいない教室で、1人で弁当を食べていた昼休み。

 海知の言葉からなぜこんなにも鮮明に過去の記憶が蘇るのだろうか。僕の過去を海知は知らないはずなのに…。
「カズ?カズ!」
「あ、ごめん」
 いつの間にか駅に着いていた。多分、ぼーっと脳死で歩いていたんだと思う。
「じゃ、また明日」
「うん」
 改札を抜けて振り返ると、海知はまだそこに立っていた。手を軽く振っている。僕も小さく振り返した。

 電車に乗り、席に座る。
 窓に自分の顔が映る。
 もう1人の自分と見つめ合っているようだ。

――海知は、どうして僕に話しかけてきたんだろう。

 あの最初に会った日。電磁気学の課題。僕の名前を知っていた。履修も知っていた。そして…305号室。どうしてあそこだったんだろう。あの頃は空き教室なんてたくさんあった。別に、どこでもよかったはずだ。今思えば、彼は窓際の席に座っていた。そしてその席は、僕がよく座る席になった。
 電車が揺れる。僕はスマホを取り出した。海知とのチャット画面を開く。一番上までスクロールした。

最初のメッセージ。

こんばんは。
同じ学科の佐々木海知です。
電磁気学取ってますよね?

 普通なら、何も疑う余地のない文章だが、ふと、思った。この人は、どうやって僕を見つけたんだろう。同じ学科だとは言っても、オンライン授業だったし、顔も名前もほとんど知らないはずなのに。意識していないと、ピンポイントで辿り着くことなんて…。
 電車の窓に映る自分の顔が、少しだけ強張っていた。スマホが震える。海知からメッセージだった。

「カズってさ」

 続けて送られてくる。

「やっぱ、なんでもない。また明日会えたらいいね!」

 僕の指が止まった。胸の奥が、少し冷たくなる。どこかこの先に続く言葉を聞きたくないと思ってしまう自分がいた。なんでもない、でよかった。うん、それでいい。