4月。桜が散り始めると共に、僕は社会人になった。
新たな場所で、新たな人と出会う。
入社式の会場には、同じ色のスーツを着た人間がずらりと並んでいた。黒、紺、灰色。誰もが似たような髪型で、似たような表情をしている。壇上では役員が会社理念を語っていたが、正直、ほとんど頭に入ってこなかった。
「本日から皆さんは社会人です」
その言葉だけが妙に耳に残った。
大学の頃は、もっと遠い存在だと思っていた。朝起きて、働いて、帰って寝る。それを何十年も繰り返す人たち。子供の頃、父親を見て感じていた“普通の大人”。
気づけば、自分がその側へ立っていた。
研修期間中、僕たちは毎日同じことを繰り返した。名刺交換の練習、メールの書き方、電話応対。学生時代には必要なかった言葉ばかり覚えていく。
「お世話になっております」
「承知いたしました」
「確認いたします」
口に出すたび、自分じゃない誰かになっていく気がした。
「相澤くんって、真面目だよね」
休憩時間、近くにいた同期の女子社員が笑いながら言った。
「そうかな」
「なんかちゃんとしてるというか。落ち着いてるし」
適当に笑って返した。でも、本当は違った。落ち着いているんじゃない。どう振る舞えば“普通”に見えるかを考えているだけだ。
――普通にならないと、生きていけない気もしてさ
今になって、その言葉の重みが分かった気がする。
昼休み、同期たちは食堂で恋愛の話をしていた。
「学生時代の彼女と続いてる?」
「いやー、遠距離無理だった」
「社会人になったら出会い減りそうじゃね?」
そんな会話を聞きながら、僕はカレーを口に運ぶ。味がよくわからなかった。幸いにも、僕には話が振られずに済んだ。
社会人になっても、こういう話題は苦手だ。でも、恋愛をして、結婚して、家庭を持つこと。それが自然な人生設計として話される。それを否定したいわけじゃない。ただ、自分がその輪郭に上手く嵌まる未来が想像できなかった。
――だから、周りの人よりも将来設計が甘くなりがちになる
僕も周りの人みたいに、将来を見据えないといけないのだろうか。
3週間の研修が終わる頃。同期たちは随分、仲良くなっていた。
「今度飲み行こうよ」
「配属前に親睦会やりたいね」
グループチャットの通知が増えていく。
僕もそれなりに会話はした。笑ったし、頷いたし、空気も読んだ。大学1年の頃の僕からしたら、信じられないくらい“普通”に馴染めていたと思う。でも、だからこそ怖かった。
帰宅ラッシュの電車に揺られながら、窓に映る自分を見る。
黒いスーツ。
疲れた顔。
感情の薄い目。
どこにでもいる社会人だった。そんな自分が、急に恐ろしくなった。
――普通になろうとすると、どんどん自分が消える感覚がして
僕も今になって、同じように思っているよ。
配属が決まったのは4月の終わりだった。僕は研究開発部に配属になった。専門職なだけあって、大体は予想していたけど。
配属先のフロアは静かだった。営業部の階とは違って、電話も少ない。パソコンのタイピング音と、空調の音だけが響いている。
「相澤くんだよね?」
声を掛けてきたのは、30代くらいの先輩社員だった。
「今日からよろしく。席こっちな」
「よろしくお願いします」
案内された席に座る。
窓際だった。
外には高速道路が見える。絶景というほどではない。車が流れていくだけの、無機質な景色。
なのに、なぜか少しだけ落ち着いた。
「この部署、夜まで残る人多いから。でも、上がれるときは早く上がっていいからね」
先輩が苦笑する。
「わかりました」
「相澤くんも、そのうち泊まり込みとかあるかもよ」
冗談っぽく言われたその言葉に、胸がざわついた。そんなに残業するんだ…ではなく、僕の頭に浮かぶのは別の光景だった。
その日の帰り道、駅前のコンビニに寄る。スーツ姿の会社員たちが無言で弁当を選んでいた。疲れた顔をして、同じ棚を眺めている。
みんな、本当にこれを望んでいたんだろうか。普通になりたかったのか。それとも、普通にならないと生きていけなかったのか…。
家へ帰り、ネクタイを外してベッドに倒れ込む。あまりにも静かすぎる部屋。引っ越したとはいえ、一人暮らしの部屋は、大学時代とそれほど変わっていない。なのに、自分だけが別人みたいだった。天井を見上げる。
社会人になって、1ヶ月も経っていない。それなのに、学生だった頃がもう随分昔のことみたいに感じた。
――僕が僕として生きることほど、難しいことはない
入社してから早1ヶ月。僕は始めて出張に行くことになった。研究職特有の立会検査で、結構出張にはよく行くみたいだった。入社当初に想像していた生活とは違っている気がする。
そんな出張も今日で最終日。時計を見ると16時。予定の時間よりも1時間早く駅に着いた。行きの新幹線はギリギリで駆け込んでしまっただけ、帰りは気が楽だった。仕事は問題なく終わったし、あとは帰るだけだ。駅ビルの中を歩きながら、電光掲示板を確認する。発車までまだ時間がある。どこかで時間を潰そうと思って、適当にエスカレーターを上がった。上がった先は、飲食店が並ぶフロアだった。
どこも似たような店に見える。どこでもいいはずなのに、なぜか足が止まらない。少し奥まで歩いて、角を曲がったところで、ようやく立ち止まった。理由はわからない。ただ、直感的にここだと思った。ガラス張りのラーメン屋。店内をなんとなく覗く。その瞬間、呼吸が止まった。
――なんで…
頭の中でそう思ったのに、声にはならなかった。あり得ない。窓際の席に、見覚えのある横顔があった。ここは、地元でも、大学でもなく、仕事で来ただけの、たまたまの場所だ。それでも、そこにいる。紛れもない現実だった。彼を見ると、何でこんなにも思いが溢れてきてしまうのだろうか。
彼は箸を持つ手を止めて、ふと顔を上げる。
目が合った。時間が、少しだけ止まった感じがした。
「……カズ?」
先に、名前を呼ばれた。
「……なんでいるの」
窓越しで何も聞こえてないけれど、口で何を言っているのか分かる。
「それ、俺の台詞」
前にもこんな感じのくだりがあった気がする。海知は少しだけ笑っていた。どこか懐かしい感じがする。
店に入る理由なんてなかったはずなのに、気づいたらドアを開けていた。店員に案内されるまでもなく、海知の隣に座る。
「出張?」
「うん。そっちは?」
「同じ」
会話が、短く続く。でも、それで十分だった。だって、こうして会えていることですら、奇跡なんだから。メニューを開いたまま、何も見ていないことに気づく。それどころじゃない。
「……決まんないの?」
「あぁ…うん」
「じゃあ、俺と同じのにする?」
なぜか、それでいいと思った。注文を済ませて、また沈黙が落ちる。周りはそれなりに賑わっているのに、僕たちのいるこの辺だけ少し静かに感じる。
「あのさ」
海知が口を開いた。
「今日、約束してたっけ」
「してない」
「だよな」
少しだけ間があって、
「でも、会えた」
その言い方が、やけに引っかかった。偶然、と言えばそれで終わるはずなのに。まるで、会うことが分かっていたかのような眼差しと、熱量を感じた。
「卒業の時の予想は当たってただろ」
「なんか、そんな話もしたな」
窓越しに散る桜を見て、鮮明に思い出した。北に行くほど桜が満開になるのが遅いのだ。
「こういうのさ…何回目だっけ」
「さあ」
数えたことはない。初めてじゃないことだけは、はっきりしている。偶然ってこんなにも続くものなのだろうか。
料理が運ばれてきても、しばらく手をつけなかった。湯気が上がっている。
その向こうで、海知の顔が少しだけ歪む。輪郭が、揺れているように見える。瞬きをすると元に戻った。
「カズ」
「ん?」
「俺さ」
沈黙が続いた。
「……いや、なんでもない」
そう言って、箸を手に取った。つられて、同じように箸を持つ。一口食べても、味がよくわからなかった。そんなことよりも、僕は昔の光景を思い出すのにエネルギー使ってしまうのだ。無意識に、でも、それを願って。
食事を終えて、店を出る。どちらからともなく、同じ方向に歩き出す。
「新幹線?」
「うん」
「俺も」
改札の前で立ち止まる。
ここで、別れるはずだった。本来なら。
「…どの新幹線?」
「18時10分発の東京行き」
「え、俺も同じなんだけど…」
それだけで終わるはずだったのに、足が動かない。海知も、同じだった。少しだけ間が空く。人の流れが、二人の横を通り過ぎていく。
「指定席?」
「指定席だな」
駅のホームまで降りて、指定席の車両まで歩いて行った。ずっと同じ方向を歩いている。
「まさかだけど、5号車?」
「一緒…だな…」
そのまま座席に向かうが、列まで同じだった。
「嘘…」
「じゃないよ」
普通じゃあり得ない。でも、現実に起きている。
そのまま隣に座った。しばらく何も言葉が出てこなかった。出張先で偶然会って、同じ新幹線で、同じ車両で、同じ列で、隣の席になる確率なんて、どれくらいあるんだろう。いや、そんなことより…僕は、この座席を“知っていた”気がした。
新幹線は走り出し、窓の外が流れていく。その景色を見ながら、思う。どこまでが偶然で、どこからが必然なのか、もうわからない。僕たちが出会ったあの頃の感覚が蘇る。ただ一つわかるのは、隣にいるのが、海知だということ。それだけだった。
東京駅に着き、さらに電車に乗って家に帰る。僕も海知も都内に就職し、新居に引っ越した。どこかは教えてくれなかったけど。
「帰るか…」
「うん」
僕らは乗り換え改札に向かった。
「え、海知もこの電車?」
「そうだけど…」
改札に入ったあとは流石に別れると思っていた。なのに、どこまでも同じなのだ。
「カズも最寄り…北千住?」
「…そうだけど」
もしかして…何となく、このあとの展開が読めてしまう。それが現実なら、僕たちは…。
「海知、どこ住んでんの」
「あれ?言ってなかったっけ?」
「聞いてない」
「そっか」
海知は少し笑った。
「カズなら言わなくても、わかると思うけど」
いつの間にか自分の家に着いていた。
「カズの家、ここでしょ?俺はこっち」
ここまで来ると、もはや驚きもしなかった。だって、僕は海知の…。
空を見上げると、きれいな満月だった。
昔は、“理想の誰か”を探していた。
彼もきっと、そうだった。
だから、僕たちは出会った。
……いや。
本当に、そうなのだろうか。
僕たちはただ、“誰か”が残した日記の続きを読んでいただけなのかもしれない。
日付も、終わりも書かれていない、誰のものかもわからない、日記を。
そして、今もまだその続きを生きている。
新たな場所で、新たな人と出会う。
入社式の会場には、同じ色のスーツを着た人間がずらりと並んでいた。黒、紺、灰色。誰もが似たような髪型で、似たような表情をしている。壇上では役員が会社理念を語っていたが、正直、ほとんど頭に入ってこなかった。
「本日から皆さんは社会人です」
その言葉だけが妙に耳に残った。
大学の頃は、もっと遠い存在だと思っていた。朝起きて、働いて、帰って寝る。それを何十年も繰り返す人たち。子供の頃、父親を見て感じていた“普通の大人”。
気づけば、自分がその側へ立っていた。
研修期間中、僕たちは毎日同じことを繰り返した。名刺交換の練習、メールの書き方、電話応対。学生時代には必要なかった言葉ばかり覚えていく。
「お世話になっております」
「承知いたしました」
「確認いたします」
口に出すたび、自分じゃない誰かになっていく気がした。
「相澤くんって、真面目だよね」
休憩時間、近くにいた同期の女子社員が笑いながら言った。
「そうかな」
「なんかちゃんとしてるというか。落ち着いてるし」
適当に笑って返した。でも、本当は違った。落ち着いているんじゃない。どう振る舞えば“普通”に見えるかを考えているだけだ。
――普通にならないと、生きていけない気もしてさ
今になって、その言葉の重みが分かった気がする。
昼休み、同期たちは食堂で恋愛の話をしていた。
「学生時代の彼女と続いてる?」
「いやー、遠距離無理だった」
「社会人になったら出会い減りそうじゃね?」
そんな会話を聞きながら、僕はカレーを口に運ぶ。味がよくわからなかった。幸いにも、僕には話が振られずに済んだ。
社会人になっても、こういう話題は苦手だ。でも、恋愛をして、結婚して、家庭を持つこと。それが自然な人生設計として話される。それを否定したいわけじゃない。ただ、自分がその輪郭に上手く嵌まる未来が想像できなかった。
――だから、周りの人よりも将来設計が甘くなりがちになる
僕も周りの人みたいに、将来を見据えないといけないのだろうか。
3週間の研修が終わる頃。同期たちは随分、仲良くなっていた。
「今度飲み行こうよ」
「配属前に親睦会やりたいね」
グループチャットの通知が増えていく。
僕もそれなりに会話はした。笑ったし、頷いたし、空気も読んだ。大学1年の頃の僕からしたら、信じられないくらい“普通”に馴染めていたと思う。でも、だからこそ怖かった。
帰宅ラッシュの電車に揺られながら、窓に映る自分を見る。
黒いスーツ。
疲れた顔。
感情の薄い目。
どこにでもいる社会人だった。そんな自分が、急に恐ろしくなった。
――普通になろうとすると、どんどん自分が消える感覚がして
僕も今になって、同じように思っているよ。
配属が決まったのは4月の終わりだった。僕は研究開発部に配属になった。専門職なだけあって、大体は予想していたけど。
配属先のフロアは静かだった。営業部の階とは違って、電話も少ない。パソコンのタイピング音と、空調の音だけが響いている。
「相澤くんだよね?」
声を掛けてきたのは、30代くらいの先輩社員だった。
「今日からよろしく。席こっちな」
「よろしくお願いします」
案内された席に座る。
窓際だった。
外には高速道路が見える。絶景というほどではない。車が流れていくだけの、無機質な景色。
なのに、なぜか少しだけ落ち着いた。
「この部署、夜まで残る人多いから。でも、上がれるときは早く上がっていいからね」
先輩が苦笑する。
「わかりました」
「相澤くんも、そのうち泊まり込みとかあるかもよ」
冗談っぽく言われたその言葉に、胸がざわついた。そんなに残業するんだ…ではなく、僕の頭に浮かぶのは別の光景だった。
その日の帰り道、駅前のコンビニに寄る。スーツ姿の会社員たちが無言で弁当を選んでいた。疲れた顔をして、同じ棚を眺めている。
みんな、本当にこれを望んでいたんだろうか。普通になりたかったのか。それとも、普通にならないと生きていけなかったのか…。
家へ帰り、ネクタイを外してベッドに倒れ込む。あまりにも静かすぎる部屋。引っ越したとはいえ、一人暮らしの部屋は、大学時代とそれほど変わっていない。なのに、自分だけが別人みたいだった。天井を見上げる。
社会人になって、1ヶ月も経っていない。それなのに、学生だった頃がもう随分昔のことみたいに感じた。
――僕が僕として生きることほど、難しいことはない
入社してから早1ヶ月。僕は始めて出張に行くことになった。研究職特有の立会検査で、結構出張にはよく行くみたいだった。入社当初に想像していた生活とは違っている気がする。
そんな出張も今日で最終日。時計を見ると16時。予定の時間よりも1時間早く駅に着いた。行きの新幹線はギリギリで駆け込んでしまっただけ、帰りは気が楽だった。仕事は問題なく終わったし、あとは帰るだけだ。駅ビルの中を歩きながら、電光掲示板を確認する。発車までまだ時間がある。どこかで時間を潰そうと思って、適当にエスカレーターを上がった。上がった先は、飲食店が並ぶフロアだった。
どこも似たような店に見える。どこでもいいはずなのに、なぜか足が止まらない。少し奥まで歩いて、角を曲がったところで、ようやく立ち止まった。理由はわからない。ただ、直感的にここだと思った。ガラス張りのラーメン屋。店内をなんとなく覗く。その瞬間、呼吸が止まった。
――なんで…
頭の中でそう思ったのに、声にはならなかった。あり得ない。窓際の席に、見覚えのある横顔があった。ここは、地元でも、大学でもなく、仕事で来ただけの、たまたまの場所だ。それでも、そこにいる。紛れもない現実だった。彼を見ると、何でこんなにも思いが溢れてきてしまうのだろうか。
彼は箸を持つ手を止めて、ふと顔を上げる。
目が合った。時間が、少しだけ止まった感じがした。
「……カズ?」
先に、名前を呼ばれた。
「……なんでいるの」
窓越しで何も聞こえてないけれど、口で何を言っているのか分かる。
「それ、俺の台詞」
前にもこんな感じのくだりがあった気がする。海知は少しだけ笑っていた。どこか懐かしい感じがする。
店に入る理由なんてなかったはずなのに、気づいたらドアを開けていた。店員に案内されるまでもなく、海知の隣に座る。
「出張?」
「うん。そっちは?」
「同じ」
会話が、短く続く。でも、それで十分だった。だって、こうして会えていることですら、奇跡なんだから。メニューを開いたまま、何も見ていないことに気づく。それどころじゃない。
「……決まんないの?」
「あぁ…うん」
「じゃあ、俺と同じのにする?」
なぜか、それでいいと思った。注文を済ませて、また沈黙が落ちる。周りはそれなりに賑わっているのに、僕たちのいるこの辺だけ少し静かに感じる。
「あのさ」
海知が口を開いた。
「今日、約束してたっけ」
「してない」
「だよな」
少しだけ間があって、
「でも、会えた」
その言い方が、やけに引っかかった。偶然、と言えばそれで終わるはずなのに。まるで、会うことが分かっていたかのような眼差しと、熱量を感じた。
「卒業の時の予想は当たってただろ」
「なんか、そんな話もしたな」
窓越しに散る桜を見て、鮮明に思い出した。北に行くほど桜が満開になるのが遅いのだ。
「こういうのさ…何回目だっけ」
「さあ」
数えたことはない。初めてじゃないことだけは、はっきりしている。偶然ってこんなにも続くものなのだろうか。
料理が運ばれてきても、しばらく手をつけなかった。湯気が上がっている。
その向こうで、海知の顔が少しだけ歪む。輪郭が、揺れているように見える。瞬きをすると元に戻った。
「カズ」
「ん?」
「俺さ」
沈黙が続いた。
「……いや、なんでもない」
そう言って、箸を手に取った。つられて、同じように箸を持つ。一口食べても、味がよくわからなかった。そんなことよりも、僕は昔の光景を思い出すのにエネルギー使ってしまうのだ。無意識に、でも、それを願って。
食事を終えて、店を出る。どちらからともなく、同じ方向に歩き出す。
「新幹線?」
「うん」
「俺も」
改札の前で立ち止まる。
ここで、別れるはずだった。本来なら。
「…どの新幹線?」
「18時10分発の東京行き」
「え、俺も同じなんだけど…」
それだけで終わるはずだったのに、足が動かない。海知も、同じだった。少しだけ間が空く。人の流れが、二人の横を通り過ぎていく。
「指定席?」
「指定席だな」
駅のホームまで降りて、指定席の車両まで歩いて行った。ずっと同じ方向を歩いている。
「まさかだけど、5号車?」
「一緒…だな…」
そのまま座席に向かうが、列まで同じだった。
「嘘…」
「じゃないよ」
普通じゃあり得ない。でも、現実に起きている。
そのまま隣に座った。しばらく何も言葉が出てこなかった。出張先で偶然会って、同じ新幹線で、同じ車両で、同じ列で、隣の席になる確率なんて、どれくらいあるんだろう。いや、そんなことより…僕は、この座席を“知っていた”気がした。
新幹線は走り出し、窓の外が流れていく。その景色を見ながら、思う。どこまでが偶然で、どこからが必然なのか、もうわからない。僕たちが出会ったあの頃の感覚が蘇る。ただ一つわかるのは、隣にいるのが、海知だということ。それだけだった。
東京駅に着き、さらに電車に乗って家に帰る。僕も海知も都内に就職し、新居に引っ越した。どこかは教えてくれなかったけど。
「帰るか…」
「うん」
僕らは乗り換え改札に向かった。
「え、海知もこの電車?」
「そうだけど…」
改札に入ったあとは流石に別れると思っていた。なのに、どこまでも同じなのだ。
「カズも最寄り…北千住?」
「…そうだけど」
もしかして…何となく、このあとの展開が読めてしまう。それが現実なら、僕たちは…。
「海知、どこ住んでんの」
「あれ?言ってなかったっけ?」
「聞いてない」
「そっか」
海知は少し笑った。
「カズなら言わなくても、わかると思うけど」
いつの間にか自分の家に着いていた。
「カズの家、ここでしょ?俺はこっち」
ここまで来ると、もはや驚きもしなかった。だって、僕は海知の…。
空を見上げると、きれいな満月だった。
昔は、“理想の誰か”を探していた。
彼もきっと、そうだった。
だから、僕たちは出会った。
……いや。
本当に、そうなのだろうか。
僕たちはただ、“誰か”が残した日記の続きを読んでいただけなのかもしれない。
日付も、終わりも書かれていない、誰のものかもわからない、日記を。
そして、今もまだその続きを生きている。
