3月。いつの間にか月日は経ち、もうすぐ大学生最後の年を迎える。研究室の空気は配属された時とはまるで違う。研究室の机にはそれぞれ論文と就活サイトのタブが同時に開かれている。誰もが、”学生の終わり”を意識し始めていた。
海知は相変わらず夕方頃に研究室へ来た。
「おはよー」
「もう夕方だけど」
「俺の中では朝だから」
軽口を叩く声は以前と変わらない。海知は大きな欠伸をして、椅子に座ると、そのまま窓際を眺める。最近、彼はよく外を見るようになった。
研究室の窓から見えるのは、夕焼けに染まるキャンパスと、遠くの高速道路だけだ。景色が綺麗というわけでもない。それなのに、海知は静かにそこを見つめている。
「海知」
「んー?」
「最近、ちゃんと寝てる?」
海知は少し笑った。
「何だよ急に…寝てるよ」
「嘘だ」
「なんでわかるんだよ」
「顔。隈もできてるし、カサカサしてる」
海知は観念したみたいに息を吐いた。
「最近さ、変な夢ばっか見て寝られないんだよ」
その言葉に、僕の指先が止まる。
「どんな夢?」
「知らない学校の夢」
静かな声だった。僕は黙って海知の方を見ている。
「音楽室みたいなところで、誰かがピアノ弾いてんの」
勝手に背筋がピンと伸びた。
「で、しかも。俺、その人のこと知ってる気がするんだよな」
海知は頭をカサカサと掻いた。
「顔も見えないのに…なんかなぁ」
窓の外では桜の花びらが時折散っていた。
海知の中で何かが起きている。
そしてそれは、少しずつ現実に滲み始めていた。
4月。春が終わる頃には、海知は研究室に泊まることが増えていた。少し前までは夕方から来ていたのに、それよりも遅く、誰もいない夜中に来るらしい。
「おはよ…え、まだいたの?」
「もうそろそろ帰る」
そして、僕が来る朝9時あたりに海知は帰っていく。昼夜逆転生活をしているんじゃないかと思った。
「夜の研究室って好きなんだよね」
観測機器の音だけが響く深夜。窓の外には誰もいないキャンパス。海知はその静けさに安心さを感じるらしい。
「カズってさ」
「ん?」
「卒業したらどうする?」
朝から突然、現実味のある話をされて驚く。
「就職かな」
なんとなく、就活は始めていた。と言っても、エントリーシートを出してみる程度だけど。
「案外普通だ」
「普通だよ」
「そっか」
「そう言う海知はどうなんだよ」
「俺も就職ー」
「そっか」
「聞いといて反応薄くね?」
「それは海知もだろ」
朝来ると、海知は最近、よく窓際に立っていた。別に、特段、朝の景色がいいわけでもない。それなのに海知は、時々、何十分もそこから動かない。最初はただ、考え事をしているだけだと思っていた。でも、違う気がした。
パソコンのファンの音と、空調の低い唸り声だけが響いている。海知は、その音を聞いているわけでもなく、外を見ていた。
まるで、そこに誰かが来るのを知っているみたいに。それを待つかのように…。
海知は重そうな荷物を持った。
「俺、そろそろ帰るね」
「うん、お疲れ」
僕も無意識に外を眺めていた。
6月。研究室は完全に就活モードになっていた。
黒いスーツ、エントリーシート、SPI、面接…。みんな急に「社会人」になろうとしていた。海知も例外じゃなかった。
「おーい、和樹!まだ内定出てないのか?」
「出てなくて悪かったな!」
やたらちょっかいを出してくる安達はもうすでに内定が出ているらしい。ああ見えて、意識は高い奴だし、コミュ力もある。就活では優等生だ。
「SPI答え持ってるぞ?あげようか」
「じゃあ…一応」
同時に、海知は僕と同じくらいの時間に研究室に来るようになった。あんなひどい夜型じゃ、就活できないって知ったんだと思う。
「お疲れ様ですー」
説明会帰りの海知が研究室に入ってくる。ネクタイを緩めながら、そのまま机に突っ伏した。
「お疲れ」
「無理~」
「早いな。まだ始まったばっかだよ」
海知は机に顔を伏せたまま動けないでいる。
「今日も面接だった…明日も面接」
海知は顔を上げないまま続ける。
「なんかさ、“あなたらしさを教えてください”って言うくせに、会社が求めてる答えって1個しかなくない?」
僕は口だけ少し笑った。
「まあ、それはあるかも」
「今日なんか、“将来、どんな家庭を築きたいですか?”って聞かれた」
「変な質問…。で、なんて答えたの?」
「笑顔の絶えない家庭ですって言った」
海知は乾いた笑いを漏らした。
「自分でも誰なんだよこれ…ってなっちまったよ」
その言葉が、妙に重かった。
その頃から、海知は時々“知らないこと”を知っていた気がする。
「ただいまー」
「ここ家じゃないんだから」
「いいじゃん、別に」
翌日も海知は就活帰りで研究室に寄ってきた。海知はネクタイをぐしゃぐしゃに緩めながら重たい足取りで自分の席に着く。6月の湿った空気と、スーツについた外の匂いが一緒に流れ込んでくる。窓の外は茜空が広がっている。
そのまま椅子の隣に鞄を落として、机に突っ伏した。
「死ぬ……」
「まだ6月だけど。今こんなんじゃ、この先どうなっちゃうんだよ…」
「俺、社会人向いてないと思う」
くぐもった声で海知が言う。僕は思わず笑った。でも、その横顔は本当に疲れていた。目の下に薄く隈ができている。数ヶ月前より、明らかに痩せていた。
「海知は真面目だからな」
思わず頭を撫でた。
「ねえカズ、ドビュッシーって好き?」
突然海知はこっちを向いた。そう聞かれて、僕は心臓が止まりそうになる。
「なんで?」
「いや……なんか最近ずっと頭に流れてる」
海知は頭を押さえた。
「ピアノなんか弾けないのにさ、指が勝手に動くんだよ」
僕は何も言えなかった。なんか、思い出しそうな気がする。
「つ、疲れてんだよ、きっと」
「そうなんかな…」
「ちなみにさ、なんて曲?」
「アラベスク1番」
瞳孔が開くのが分かる。手のひらが冷や汗で湿っている。外を見ると、久しぶりの雷雨だった。
「そろそろ帰らないと」
「そっか…じゃあな」
僕は傘を持っていなかったが、そのまま駅まで走って帰った。雨宿りをするほうが怖かった。
7月。時計を見るとよる10時。
「やっば…」
バイト終わり、明日提出の課題を研究室に忘れたことに気づく。僕は、夜な夜な研究室に戻らなければならなくなった。
――タララ……
研究室までの廊下を歩くと聞いたことがある鼻歌が聞こえた。背筋が凍るような感覚がする。あの雪の日が何故か頭に思い浮かんだ。
音は研究室から聞こえる。機械音に混ざるこの鼻歌が誰のかは何となくわかっていた。なのに、研究室の扉を開けるのが怖かった。
恐る恐る開けると、そこには海知がいて、月明かりの中、静かに外を見ていた。夜に外なんか見ても、何もないのに。
「お疲れ」
鼻歌が止まった。彼はゆっくり振り返る。
「お疲れ。こんな夜に珍しいね」
「そっちこそ、今日は遅いんだ」
海知のその声に、僕は寒気を覚えた。海知なのに、海知じゃない。あれ…どこかで感じたことがあるような気がする。無意識に息が荒くなっているのがわかる。
「ねえ、カズ。普通って、何だろうね」
窓を撫でながら、彼は言う。
「就職して、結婚して、家庭作って」
静かな声だった。彼は振り返り、僕の方を向いた。
「それで“幸せ”って言われても、俺にはよくわからない」
その目を僕はきっと見たことがある。きれいなのに暗く、夜みたいに深く、その奥には何もない…そんな感じ。
「カズはさ」
彼は少し笑った。
「本当に、今のままでいいと思う?」
「今のままって…何が?」
僕は答えられなかった。その瞬間、海知が苦しそうに頭を押さえた。久しぶりに見た気がする…この光景。
唐突に思った。海知が心配なのはそうだが、それよりも逃げた方がいい。鮮明に思い浮かぶ。海知はこれから僕に襲いかかってくるかもしれない。僕は今、首を絞められたかのような感覚に襲われている。でも、感覚があるだけで、実際には何にもなってないのだ。もしかしたら、この感覚は…。
僕は忘れた書類だけ手に取って、振り向かずにそのまま走って逃げた。廊下を走り、床に反響する自分の足音が、誰か別の足音みたいに聞こえた。
息が上手く吸えない。走っているのに、身体だけが妙に重かった。
――タララ……
またあの曲が聞こえた。自動ドアのボタンをガンガン叩いた。でも、全然開かない。そうだ、今はもう自動ドア動かないんだった。あの曲が大きくなっていく。僕は無我夢中で出口に向かって走った。
外へ出ると、あの曲はぴたりと止んだ。どんな曲だったかは思い出せなかった。
この日を境に、海知は研究室に来なくなった。
10月。僕は無事に内定が出て、就職が決まった。安達に続いて2番目だった。女子2人は大学院に進むらしい。海知は…もうずっと顔を見ていない。ほとんど連絡を取ることはなかったが、流石に心配になって、スマホを開いた。海知とのチャットを開く。昔は連絡していた時期もあったんだ。さらに上にスクロールすると、自分の送ったことなのに、どこか他人のように思えるようなことばづかいが並んでいた。海知の返信が怖かった時期のことを思い出す。今となっては懐かしい過去だが、理想は怖いことを痛感した出来事のようにも思う。現実と切り離して考えるべきだって、思うようになった。それだけ、僕は”大人になった”ということなのだろうか。
「最近、研究室来てないだろ。大丈夫か?」
久しぶりにチャットを送ってみた。なんだかんだで今まで毎日来ていたのに、全然顔を見なくなったのは、どこか寂しいと思う自分がいた。
「ごめん、今日は休む」
返信は秒速で来た。海知のやつ、絶対暇じゃん…。だいたい、”今日は”って何だよ。ずっと来てないじゃないか。でも、海知はちゃんと海知のままだった。少し安心している自分がいる。
「わかった。また今度な」
僕はスマホを伏せた。
研究室の窓際でふと外を見る。海知がいつも見ている景色。こんなもんか…と思った。改めてじっと見ていると、僕が高校の時に見ていた景色のほうが綺麗だと感じる。しばらく外を見ていると、何となくわかった気がした。理想ばかり見て、現実から逃げていた頃の僕はこうやって、心を無にして、目の前にあるものを見ないようにしていたんだと思う。海知も同じ気持ちだったのだろうか。
「和樹ー!コンビニ行こうぜ」
「おっけい、今行くー」
安達に誘われて同期でコンビニに行く。だが、そこに海知はいない。秋風が僕の右腕を通り過ぎて行った。
高校時代の僕はこうして誰かのことを想うこともなかった。今、海知のことを思い浮かべてしまうのは、人間の性質なんだろう。人間は1人じゃ生きていけないというが、その中でも誰かを選んで生きている。僕もこうして海知という人を選び、もうその人がいないと生きていけないのだと認めてしまった、ということなのかもしれない。
コンビニから帰ってきて、海知の席を改めて見る。思えばずっとペットボトルが置かれたままだった。ラベルの剥がれた麦茶。もう中身は半分以下なのに、誰も捨てない。ったく…僕はペットボトルの中身を捨てに行った。
ブランケットも雑に椅子に掛かったままだ。まるで、時間だけ止まっているみたいだった。
12月。刻一刻と時間は過ぎていき、季節は冬になった。研究室のドアが開き、隙間風が冷たく感じる。僕は何時間もカタカタとキーボードを打ち、卒論を書き進めている。驚異の集中力が身に付いた気がする。珍しく、安達も1日中静かだった。
驚異的な集中力が身につき、いつの間にか午後4時を回っていた。少しずつ帰る人が出てくる時間帯。
「お疲れ様です」
静寂だっただけに、聞き覚えのある声が聞こえた瞬間、みんなが一斉に振り返った。
「海知…」
「おう、久しぶり」
その姿は前の彼ではなかった。最後にあった日も痩せていたけれど、更に弱っている感じがした。顔色も悪い。さすがの安達でも声を掛けにくそうにしている。そんな中、今にも壊れそうな笑顔で僕の方を見てくれた。そのまま足を引き摺るように歩き、席に座った。大きなため息と共に、荷物を床に置いた。
「就活、終わった?」
「一応」
「そっか」
その声に覇気はなかった。
「カズは?」
「だいぶ前に内定出たよ」
「そっか、おめでとう」
「海知こそ、よかったな。お疲れ」
海知は立ち上がり、窓際へ向かった。外は雨が降っている。ただ外を眺めて数分が経った。僕も無意識にその海知を眺めてしまっている。
「お疲れ様でしたー」
研究室の人たちは次々に帰って行った。それもそうだ。時計を見ると午後5時を回っている。みんなバイトとか課題とか…他にもやることがある。そんな、誰もが研究ばっかりやれるとは限らない。気づけば研究室は2人きりになっていた。
「なあ、カズ」
「ん?」
「カズはさ、"自分"として就活してたか?」
海知は窓に触れる。なんだか背中が小さくなった気がした。
「僕は…そうだね。嘘つかないようにってのは、意識したかな」
「すげーな…カズは」
言葉の重さに胸がじんと感じた。
「あのさ、就活してて思ったんだ。俺たちってちょっと周りと違った感覚持ってると思うんだよ。特に、恋愛の部分は。だから、周りの人よりも将来設計が甘くなりがちになる」
「うん、そうだね」
「それを悪いと捉えられることが意外と多くて。だからと言って、普通になろうとすると、どんどん自分が消える感覚がして。自分ってなんだったっけって」
静かな声だった。
「でも、普通にならないと、生きていけない気もしてさ。途中から、俺は自分じゃない自分を話すようになってたんだよな…」
微かに声が震えている気がした。でも、その内容には強い意志が込められているのを感じた。
「だから、カズはすげーなって思う」
「…そっか。でも、内定出たんでしょ?」
「まあ…な」
「じゃあ、それでいいじゃん。そうなるべくして、そうなったんだよ」
海知はずっと窓に向かって話し続けた。
「俺さ、最初は就活すんの、自信あったんだ。でも、実際始めてみたら、全然上手くいかなくて。俺は俺でいるって決めたのに、それじゃ、全然目立たない…それどころか、変わり者でこんな奴と一緒に働きたくないって言われているようで…それで…」
僕は立ち上がった。そして海知の隣に立つ。
「海知」
「ん?」
僕は海知の肩を掴んで話した。
「僕は、海知が普通じゃなくてもいい…いや、普通じゃない海知のほうが良いなって思うよ」
海知がこちらを見る。その目は揺れていた。
「だから、何があってもさ…そのままでいてよ」
海知の目から涙が落ちた。肩が震えている。その肩を僕は優しく抑えた。
「俺さ……」
苦しそうに息を吐く。
「カズを傷つける気がするんだよ。就活を通して、なんかそう思うようになって…俺といると、カズまで変なやつって思われるかもしれないなって」
「それでもいい」
「良くないだろ」
海知が少し声を荒げた。僕は海知の肩から手を離した。
「1番の理解者」
「え?」
涙目の海知がこちらを見た。
「僕たち、理解者だろ?あの時、僕も目の前で起きていたことが怖くて逃げちゃったけど、本当はその言葉がめちゃくちゃ嬉しかったんだ」
研究室に沈黙が落ちる。
「あれは…まあ…うん」
「傷つける気がするって、怖いのもわかるよ。僕も前、海知に対しておんなじようなこと、思ってたから」
僕は海知の頰に手を当てた。そのままこぼれ落ちる涙を拭った。
「やっぱり俺、カズのことだけは、手放したくない」
「僕もだよ…だって、海知といると、自分でいられる気がするから」
それは、初めてちゃんと伝えた互いの本音だった。僕の目からも熱いものが滲み出ていた。
「海知、卒論は?」
「全然書いてない…」
「今度はそっちやらないと」
「今日は休む。俺からの俺へのご褒美」
「いいんじゃない?」
海知と会うのは半年ぶり。でも、昨日も会っていたかのように、普通に話せる。それが今は幸せだと思える。
1月。卒業論文提出の日。研究室は最後の慌ただしさに包まれていた。
「あと結論と参考文献の部分だけだ!!」
「私、手伝うよ」
「ごめん、マジでありがとう」
締め切りまであと2時間。安達がものすごく焦っていた。同期の女子はもうとっくに書き終わっていて、安達を手伝ってくれるようだった。僕もさっきまで焦りまくっていた。
「終わった……」
「終わった…な」
僕と海知は締め切りまで残り1時間のところで提出できた。お互い思わず見つめ合う。海知が久しぶりに笑った。本当に、久しぶりに。僕もその笑顔に釣られるように笑顔になった。
「俺も終わったー!」
残り20分のところで安達も無事に書き終え、同期は晴れて卒業できることになった。みんな疲れ切っていて、達成感が目に見えてわかる。
「じゃ、お疲れ様のコンビニにでも行きますか!」
「おう!」
こうして同期で並んでコンビニへ行くのはいつぶりだろうか。
「やっぱりこうでないと…な!」
「うん」
5人で並んで廊下を歩く。
「ほんと、2人ともありがとな!!」
「正直、ちょっと焦ったけど、終わってよかったね」
女子2人と共に、安達は騒ぎながら少し前を歩いて行った。僕と海知はその様子を後ろから見守っていた。
僕の隣を歩くのは、やっぱり海知がいい。
「あのさ、カズ」
「ん?」
「俺と卒業旅行…行かないか?」
「え」
心臓が飛び出そうだった。とっさに目を逸らしてしまう。
「忙しいか?」
「ううん、行きたい…絶対行こ」
自然と笑みが溢れた。海知の顔にも明るさが戻った気がした。
2月。待ちに待った、卒業旅行!2人でこうやって旅行に行くのは、実は初めてだった。実を言うと、昨日は緊張して眠れなかった。ちょっと寝不足である。
「着いたなー!新潟!」
念願のスキー旅行。都会に来てからスキーは全然やっていない。
「カズってスキーできるの?」
「それができるんだなー。僕、長野出身だから」
「え、俺も長野なんだけど」
「嘘…」
そういえば、お互いの出身地とか聞いたことがなかった。
「え、高校は…?」
しかも、僕たちは隣の高校だったのだ。
「僕たちって、もしかして、どこかで会ってたのかな」
「自転車ですれ違うくらいなら…あったかもしれないな」
旅行が楽しみだという思いよりも、思わぬ共通点で僕は驚きを隠せなかった。
「おっと」
「大丈夫か?」
「ああ…ごめん、助かったよ」
海知が何もない場所でこけた。思わず肩を貸したが、僕までこけるところだった。
スキー場につき、久しぶりのスキーに興奮した。
「なあ、あの1番高いところ行こうぜ!」
「海知ー、滑れるか?さっき、ちょっとぎこちなかったけど」
「う、うるさい!ほら、行くぞ!」
僕らは2人でリフトに乗った。平日ということもあり、人はあまりいない。
「なあカズ、写真撮ろうぜ」
「うん、いいよ」
海知が長い手を伸ばして写真を撮ってくれた。実は2人で写真を撮るのも初めてかもしれない。
「なんか、新鮮だな」
「うん。多分、僕、この日は忘れないと思う」
「俺も」
心置きなく喋っていたら、あっという間に山の頂上まで着いた。リフトを降りるときに海知が転びかけたが、僕が引っ張った。少し戸惑っている。
「よーし。じゃあ、僕から行っちゃうからねー」
「おい、置いて行くなよ」
なんか、この日の海知は可愛かったな。
とっくに日も暮れて、ナイターの電気がついている。散々滑った後、僕たちはホテルに向かった。雪解け水が思った以上に浸水していて、寒かった。
「風邪ひくから先に風呂入りに行くか」
「そうだな」
昔、2人で銭湯に行ったのを思い出す。
「なにぼーっとしてんだよ。俺先行くからな」
「あ、ごめん!今行く…」
海知は先に風呂に向かった。
「ちょっと待って」
「どうした」
「海知…その背中のあざ、大丈夫か?」
「え?そんなのある?」
海知の背中は真ん中あたりが青くなっていた。
「ここ、痛いんじゃない?」
僕は軽くその場所に触れた。
「うっ…ちょっと痛いかも」
「気をつけてな」
「ありがとう」
海知はそんな激しく転んだわけではないのに、なぜそんな大きなあざがあるのだろうか…少し違和感を覚えた。
風呂から上がり、夕ご飯を食べる。まるで部活の合宿みたいな生活だった。社会人になったら…と思うと、なんだか名残惜しかった。
「なんか全然スキーできなくなってたな…」
「僕もちょっと鈍ってた」
「カズがそんなというなよ。俺より滑れてたんだから」
今日のスキーを振り返りながら、のんびり夕ご飯を食べた。
部屋に戻ると、もう夜の11時になっていた。歯を磨き、2人で布団に入る。寝っ転がりながら、久々にたわいもない話をした。
「海知はさ、4月からどんなところで働くの?」
「俺は普通に営業かな…でも、なんとなくで選んじゃったところあるから、心配かも。だから、もしかしたらどっかで転職するかもしれない。その時は、カズみたいに嘘つかないで、やりたいことできたらいいな」
「僕から見れば、海知って営業向いてると思うけどね」
「え、そう?どんなところが?」
「愛嬌があるところ」
「俺、そんな愛嬌ある?言われたことないんだけど」
「あるよ!今日のスキーも可愛かったし」
「おい、それ言うなよ」
「冗談冗談。海知、コミュ力高いから、着いていきたいなってなる。最初に会った日、僕はめちゃくちゃ覚えてるし、それこそ、すげーなって思ったんだから。コミュ症の僕が保証する」
「な、なんか…照れるな」
「なに照れてるんだよ!」
僕は海知のあちらこちらをくすぐった。
「痛っ!」
「あ…ごめん」
「全然!さっきのあざかな…」
「ちょっと安静にしたほうがいいかもね」
「だな」
時計を見ると深夜0時を回っていた。
「そろそろ寝るか」
「電気消すね」
「うん、おやすみ」
僕は電気を消して布団に入った。しばらく静寂になった。隙間風が少しひんやりとしていた。
「なあ、カズ。寝たか?」
「まだ起きてるよ」
「くっついて…寝てもいいか?」
「うん」
海知は僕の布団に少し入ってきた。そのまま肩が触れる距離で寝た。しばらくして、海知が少し震えていることに気づく。
「寒い?」
「いや、そういうんじゃない…背中がソワソワして…なんか怖くて…」
確かに、なんだか様子がおかしかった。熱気があるとかそういうのではなくて、制御が効かない感じ。一瞬、何か病気になったのかと疑うほどだった。でも、そういうわけでもなさそう。
「こっちおいで」
僕は海知のことを抱きしめた。海知の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
海知の心臓の音が聞こえる。その音を聞いていると、不思議と安心した。同時に、この時間が終わった瞬間、何かを取り返せなくなる気もしていた。
さっきまで小刻みに震えていた海知はすっかり落ち着いた。
僕たちはこのまま、朝まで眠った。窓はガタガタと音を立てている。
翌日。海知はまだ僕の腕の中にいた。少しニヤついてしまう自分がいる。
「おはよう」
「ん…まだ寝たい」
海知は僕の身体を抱き寄せる。
「何してんだよ」
「いいじゃん」
「チェックアウトの時間来ちゃうから…」
「もうちょっとだけ…」
海知に言われるがまま、ギリギリまで布団に入っていた。海知は僕をずっと離さなかった。
どうにか布団から出て、身支度をする。海知は寝ている時と起きているときの差がありすぎて、びっくりした。そんな一面も、僕が唯一、知っているのかな。
2日目は新潟観光をした。と言っても、ほぼ美味しいものを食べるだけの旅。
「米が…上手い!」
「海知それどこ行っても言ってるじゃん」
「だって美味いんだもん!」
ご飯を頬張る海知を見て、なんだか安心した。
「次、あれ食べに行きたい!」
「よく食べるねー」
「食べれるときに美味いもんは食っておかないと」
「…よかった」
「なんか言った?」
「なんでもない、行こう!」
僕らの卒業旅行は一生の思い出として、心の中に刻まれた。
僕が求めていたのは、こういう関係性だ。
3月。桜が満開になった日。僕たちは卒業の日を迎えた。
「結局、4年間あっという間だったな」
「そうだね」
キャンパスを並んで歩く。海知は少し大人びて見えた。卒論も終わり、旅行も経て、体型もだいぶ元に戻った気がする。
「社会人かー」
「実感ない」
「俺も」
正門の前で立ち止まる。僕たちは4月から全然違う企業に行く。僕は一般企業の研究職に就くことになった。お互い東京勤務の予定だ。でも、ここで別れれば、次はいつ会えるかわからない。どこか名残惜しさを感じた。
「海知」
「ん?」
「また会える?」
海知は少し驚いた顔をしたあと、笑った。
「そりゃ…会えるだろ」
「なんでそんな言い切れるの」
「だって」
海知は空を見上げた。
「俺たち、そういう運命じゃん」
その言葉を、僕は前にも聞いた気がした。いつ、どこで聞いたのかは思い出せないのに…。
花びらが1つ。海知の頭に乗っかった。
海知は相変わらず夕方頃に研究室へ来た。
「おはよー」
「もう夕方だけど」
「俺の中では朝だから」
軽口を叩く声は以前と変わらない。海知は大きな欠伸をして、椅子に座ると、そのまま窓際を眺める。最近、彼はよく外を見るようになった。
研究室の窓から見えるのは、夕焼けに染まるキャンパスと、遠くの高速道路だけだ。景色が綺麗というわけでもない。それなのに、海知は静かにそこを見つめている。
「海知」
「んー?」
「最近、ちゃんと寝てる?」
海知は少し笑った。
「何だよ急に…寝てるよ」
「嘘だ」
「なんでわかるんだよ」
「顔。隈もできてるし、カサカサしてる」
海知は観念したみたいに息を吐いた。
「最近さ、変な夢ばっか見て寝られないんだよ」
その言葉に、僕の指先が止まる。
「どんな夢?」
「知らない学校の夢」
静かな声だった。僕は黙って海知の方を見ている。
「音楽室みたいなところで、誰かがピアノ弾いてんの」
勝手に背筋がピンと伸びた。
「で、しかも。俺、その人のこと知ってる気がするんだよな」
海知は頭をカサカサと掻いた。
「顔も見えないのに…なんかなぁ」
窓の外では桜の花びらが時折散っていた。
海知の中で何かが起きている。
そしてそれは、少しずつ現実に滲み始めていた。
4月。春が終わる頃には、海知は研究室に泊まることが増えていた。少し前までは夕方から来ていたのに、それよりも遅く、誰もいない夜中に来るらしい。
「おはよ…え、まだいたの?」
「もうそろそろ帰る」
そして、僕が来る朝9時あたりに海知は帰っていく。昼夜逆転生活をしているんじゃないかと思った。
「夜の研究室って好きなんだよね」
観測機器の音だけが響く深夜。窓の外には誰もいないキャンパス。海知はその静けさに安心さを感じるらしい。
「カズってさ」
「ん?」
「卒業したらどうする?」
朝から突然、現実味のある話をされて驚く。
「就職かな」
なんとなく、就活は始めていた。と言っても、エントリーシートを出してみる程度だけど。
「案外普通だ」
「普通だよ」
「そっか」
「そう言う海知はどうなんだよ」
「俺も就職ー」
「そっか」
「聞いといて反応薄くね?」
「それは海知もだろ」
朝来ると、海知は最近、よく窓際に立っていた。別に、特段、朝の景色がいいわけでもない。それなのに海知は、時々、何十分もそこから動かない。最初はただ、考え事をしているだけだと思っていた。でも、違う気がした。
パソコンのファンの音と、空調の低い唸り声だけが響いている。海知は、その音を聞いているわけでもなく、外を見ていた。
まるで、そこに誰かが来るのを知っているみたいに。それを待つかのように…。
海知は重そうな荷物を持った。
「俺、そろそろ帰るね」
「うん、お疲れ」
僕も無意識に外を眺めていた。
6月。研究室は完全に就活モードになっていた。
黒いスーツ、エントリーシート、SPI、面接…。みんな急に「社会人」になろうとしていた。海知も例外じゃなかった。
「おーい、和樹!まだ内定出てないのか?」
「出てなくて悪かったな!」
やたらちょっかいを出してくる安達はもうすでに内定が出ているらしい。ああ見えて、意識は高い奴だし、コミュ力もある。就活では優等生だ。
「SPI答え持ってるぞ?あげようか」
「じゃあ…一応」
同時に、海知は僕と同じくらいの時間に研究室に来るようになった。あんなひどい夜型じゃ、就活できないって知ったんだと思う。
「お疲れ様ですー」
説明会帰りの海知が研究室に入ってくる。ネクタイを緩めながら、そのまま机に突っ伏した。
「お疲れ」
「無理~」
「早いな。まだ始まったばっかだよ」
海知は机に顔を伏せたまま動けないでいる。
「今日も面接だった…明日も面接」
海知は顔を上げないまま続ける。
「なんかさ、“あなたらしさを教えてください”って言うくせに、会社が求めてる答えって1個しかなくない?」
僕は口だけ少し笑った。
「まあ、それはあるかも」
「今日なんか、“将来、どんな家庭を築きたいですか?”って聞かれた」
「変な質問…。で、なんて答えたの?」
「笑顔の絶えない家庭ですって言った」
海知は乾いた笑いを漏らした。
「自分でも誰なんだよこれ…ってなっちまったよ」
その言葉が、妙に重かった。
その頃から、海知は時々“知らないこと”を知っていた気がする。
「ただいまー」
「ここ家じゃないんだから」
「いいじゃん、別に」
翌日も海知は就活帰りで研究室に寄ってきた。海知はネクタイをぐしゃぐしゃに緩めながら重たい足取りで自分の席に着く。6月の湿った空気と、スーツについた外の匂いが一緒に流れ込んでくる。窓の外は茜空が広がっている。
そのまま椅子の隣に鞄を落として、机に突っ伏した。
「死ぬ……」
「まだ6月だけど。今こんなんじゃ、この先どうなっちゃうんだよ…」
「俺、社会人向いてないと思う」
くぐもった声で海知が言う。僕は思わず笑った。でも、その横顔は本当に疲れていた。目の下に薄く隈ができている。数ヶ月前より、明らかに痩せていた。
「海知は真面目だからな」
思わず頭を撫でた。
「ねえカズ、ドビュッシーって好き?」
突然海知はこっちを向いた。そう聞かれて、僕は心臓が止まりそうになる。
「なんで?」
「いや……なんか最近ずっと頭に流れてる」
海知は頭を押さえた。
「ピアノなんか弾けないのにさ、指が勝手に動くんだよ」
僕は何も言えなかった。なんか、思い出しそうな気がする。
「つ、疲れてんだよ、きっと」
「そうなんかな…」
「ちなみにさ、なんて曲?」
「アラベスク1番」
瞳孔が開くのが分かる。手のひらが冷や汗で湿っている。外を見ると、久しぶりの雷雨だった。
「そろそろ帰らないと」
「そっか…じゃあな」
僕は傘を持っていなかったが、そのまま駅まで走って帰った。雨宿りをするほうが怖かった。
7月。時計を見るとよる10時。
「やっば…」
バイト終わり、明日提出の課題を研究室に忘れたことに気づく。僕は、夜な夜な研究室に戻らなければならなくなった。
――タララ……
研究室までの廊下を歩くと聞いたことがある鼻歌が聞こえた。背筋が凍るような感覚がする。あの雪の日が何故か頭に思い浮かんだ。
音は研究室から聞こえる。機械音に混ざるこの鼻歌が誰のかは何となくわかっていた。なのに、研究室の扉を開けるのが怖かった。
恐る恐る開けると、そこには海知がいて、月明かりの中、静かに外を見ていた。夜に外なんか見ても、何もないのに。
「お疲れ」
鼻歌が止まった。彼はゆっくり振り返る。
「お疲れ。こんな夜に珍しいね」
「そっちこそ、今日は遅いんだ」
海知のその声に、僕は寒気を覚えた。海知なのに、海知じゃない。あれ…どこかで感じたことがあるような気がする。無意識に息が荒くなっているのがわかる。
「ねえ、カズ。普通って、何だろうね」
窓を撫でながら、彼は言う。
「就職して、結婚して、家庭作って」
静かな声だった。彼は振り返り、僕の方を向いた。
「それで“幸せ”って言われても、俺にはよくわからない」
その目を僕はきっと見たことがある。きれいなのに暗く、夜みたいに深く、その奥には何もない…そんな感じ。
「カズはさ」
彼は少し笑った。
「本当に、今のままでいいと思う?」
「今のままって…何が?」
僕は答えられなかった。その瞬間、海知が苦しそうに頭を押さえた。久しぶりに見た気がする…この光景。
唐突に思った。海知が心配なのはそうだが、それよりも逃げた方がいい。鮮明に思い浮かぶ。海知はこれから僕に襲いかかってくるかもしれない。僕は今、首を絞められたかのような感覚に襲われている。でも、感覚があるだけで、実際には何にもなってないのだ。もしかしたら、この感覚は…。
僕は忘れた書類だけ手に取って、振り向かずにそのまま走って逃げた。廊下を走り、床に反響する自分の足音が、誰か別の足音みたいに聞こえた。
息が上手く吸えない。走っているのに、身体だけが妙に重かった。
――タララ……
またあの曲が聞こえた。自動ドアのボタンをガンガン叩いた。でも、全然開かない。そうだ、今はもう自動ドア動かないんだった。あの曲が大きくなっていく。僕は無我夢中で出口に向かって走った。
外へ出ると、あの曲はぴたりと止んだ。どんな曲だったかは思い出せなかった。
この日を境に、海知は研究室に来なくなった。
10月。僕は無事に内定が出て、就職が決まった。安達に続いて2番目だった。女子2人は大学院に進むらしい。海知は…もうずっと顔を見ていない。ほとんど連絡を取ることはなかったが、流石に心配になって、スマホを開いた。海知とのチャットを開く。昔は連絡していた時期もあったんだ。さらに上にスクロールすると、自分の送ったことなのに、どこか他人のように思えるようなことばづかいが並んでいた。海知の返信が怖かった時期のことを思い出す。今となっては懐かしい過去だが、理想は怖いことを痛感した出来事のようにも思う。現実と切り離して考えるべきだって、思うようになった。それだけ、僕は”大人になった”ということなのだろうか。
「最近、研究室来てないだろ。大丈夫か?」
久しぶりにチャットを送ってみた。なんだかんだで今まで毎日来ていたのに、全然顔を見なくなったのは、どこか寂しいと思う自分がいた。
「ごめん、今日は休む」
返信は秒速で来た。海知のやつ、絶対暇じゃん…。だいたい、”今日は”って何だよ。ずっと来てないじゃないか。でも、海知はちゃんと海知のままだった。少し安心している自分がいる。
「わかった。また今度な」
僕はスマホを伏せた。
研究室の窓際でふと外を見る。海知がいつも見ている景色。こんなもんか…と思った。改めてじっと見ていると、僕が高校の時に見ていた景色のほうが綺麗だと感じる。しばらく外を見ていると、何となくわかった気がした。理想ばかり見て、現実から逃げていた頃の僕はこうやって、心を無にして、目の前にあるものを見ないようにしていたんだと思う。海知も同じ気持ちだったのだろうか。
「和樹ー!コンビニ行こうぜ」
「おっけい、今行くー」
安達に誘われて同期でコンビニに行く。だが、そこに海知はいない。秋風が僕の右腕を通り過ぎて行った。
高校時代の僕はこうして誰かのことを想うこともなかった。今、海知のことを思い浮かべてしまうのは、人間の性質なんだろう。人間は1人じゃ生きていけないというが、その中でも誰かを選んで生きている。僕もこうして海知という人を選び、もうその人がいないと生きていけないのだと認めてしまった、ということなのかもしれない。
コンビニから帰ってきて、海知の席を改めて見る。思えばずっとペットボトルが置かれたままだった。ラベルの剥がれた麦茶。もう中身は半分以下なのに、誰も捨てない。ったく…僕はペットボトルの中身を捨てに行った。
ブランケットも雑に椅子に掛かったままだ。まるで、時間だけ止まっているみたいだった。
12月。刻一刻と時間は過ぎていき、季節は冬になった。研究室のドアが開き、隙間風が冷たく感じる。僕は何時間もカタカタとキーボードを打ち、卒論を書き進めている。驚異の集中力が身に付いた気がする。珍しく、安達も1日中静かだった。
驚異的な集中力が身につき、いつの間にか午後4時を回っていた。少しずつ帰る人が出てくる時間帯。
「お疲れ様です」
静寂だっただけに、聞き覚えのある声が聞こえた瞬間、みんなが一斉に振り返った。
「海知…」
「おう、久しぶり」
その姿は前の彼ではなかった。最後にあった日も痩せていたけれど、更に弱っている感じがした。顔色も悪い。さすがの安達でも声を掛けにくそうにしている。そんな中、今にも壊れそうな笑顔で僕の方を見てくれた。そのまま足を引き摺るように歩き、席に座った。大きなため息と共に、荷物を床に置いた。
「就活、終わった?」
「一応」
「そっか」
その声に覇気はなかった。
「カズは?」
「だいぶ前に内定出たよ」
「そっか、おめでとう」
「海知こそ、よかったな。お疲れ」
海知は立ち上がり、窓際へ向かった。外は雨が降っている。ただ外を眺めて数分が経った。僕も無意識にその海知を眺めてしまっている。
「お疲れ様でしたー」
研究室の人たちは次々に帰って行った。それもそうだ。時計を見ると午後5時を回っている。みんなバイトとか課題とか…他にもやることがある。そんな、誰もが研究ばっかりやれるとは限らない。気づけば研究室は2人きりになっていた。
「なあ、カズ」
「ん?」
「カズはさ、"自分"として就活してたか?」
海知は窓に触れる。なんだか背中が小さくなった気がした。
「僕は…そうだね。嘘つかないようにってのは、意識したかな」
「すげーな…カズは」
言葉の重さに胸がじんと感じた。
「あのさ、就活してて思ったんだ。俺たちってちょっと周りと違った感覚持ってると思うんだよ。特に、恋愛の部分は。だから、周りの人よりも将来設計が甘くなりがちになる」
「うん、そうだね」
「それを悪いと捉えられることが意外と多くて。だからと言って、普通になろうとすると、どんどん自分が消える感覚がして。自分ってなんだったっけって」
静かな声だった。
「でも、普通にならないと、生きていけない気もしてさ。途中から、俺は自分じゃない自分を話すようになってたんだよな…」
微かに声が震えている気がした。でも、その内容には強い意志が込められているのを感じた。
「だから、カズはすげーなって思う」
「…そっか。でも、内定出たんでしょ?」
「まあ…な」
「じゃあ、それでいいじゃん。そうなるべくして、そうなったんだよ」
海知はずっと窓に向かって話し続けた。
「俺さ、最初は就活すんの、自信あったんだ。でも、実際始めてみたら、全然上手くいかなくて。俺は俺でいるって決めたのに、それじゃ、全然目立たない…それどころか、変わり者でこんな奴と一緒に働きたくないって言われているようで…それで…」
僕は立ち上がった。そして海知の隣に立つ。
「海知」
「ん?」
僕は海知の肩を掴んで話した。
「僕は、海知が普通じゃなくてもいい…いや、普通じゃない海知のほうが良いなって思うよ」
海知がこちらを見る。その目は揺れていた。
「だから、何があってもさ…そのままでいてよ」
海知の目から涙が落ちた。肩が震えている。その肩を僕は優しく抑えた。
「俺さ……」
苦しそうに息を吐く。
「カズを傷つける気がするんだよ。就活を通して、なんかそう思うようになって…俺といると、カズまで変なやつって思われるかもしれないなって」
「それでもいい」
「良くないだろ」
海知が少し声を荒げた。僕は海知の肩から手を離した。
「1番の理解者」
「え?」
涙目の海知がこちらを見た。
「僕たち、理解者だろ?あの時、僕も目の前で起きていたことが怖くて逃げちゃったけど、本当はその言葉がめちゃくちゃ嬉しかったんだ」
研究室に沈黙が落ちる。
「あれは…まあ…うん」
「傷つける気がするって、怖いのもわかるよ。僕も前、海知に対しておんなじようなこと、思ってたから」
僕は海知の頰に手を当てた。そのままこぼれ落ちる涙を拭った。
「やっぱり俺、カズのことだけは、手放したくない」
「僕もだよ…だって、海知といると、自分でいられる気がするから」
それは、初めてちゃんと伝えた互いの本音だった。僕の目からも熱いものが滲み出ていた。
「海知、卒論は?」
「全然書いてない…」
「今度はそっちやらないと」
「今日は休む。俺からの俺へのご褒美」
「いいんじゃない?」
海知と会うのは半年ぶり。でも、昨日も会っていたかのように、普通に話せる。それが今は幸せだと思える。
1月。卒業論文提出の日。研究室は最後の慌ただしさに包まれていた。
「あと結論と参考文献の部分だけだ!!」
「私、手伝うよ」
「ごめん、マジでありがとう」
締め切りまであと2時間。安達がものすごく焦っていた。同期の女子はもうとっくに書き終わっていて、安達を手伝ってくれるようだった。僕もさっきまで焦りまくっていた。
「終わった……」
「終わった…な」
僕と海知は締め切りまで残り1時間のところで提出できた。お互い思わず見つめ合う。海知が久しぶりに笑った。本当に、久しぶりに。僕もその笑顔に釣られるように笑顔になった。
「俺も終わったー!」
残り20分のところで安達も無事に書き終え、同期は晴れて卒業できることになった。みんな疲れ切っていて、達成感が目に見えてわかる。
「じゃ、お疲れ様のコンビニにでも行きますか!」
「おう!」
こうして同期で並んでコンビニへ行くのはいつぶりだろうか。
「やっぱりこうでないと…な!」
「うん」
5人で並んで廊下を歩く。
「ほんと、2人ともありがとな!!」
「正直、ちょっと焦ったけど、終わってよかったね」
女子2人と共に、安達は騒ぎながら少し前を歩いて行った。僕と海知はその様子を後ろから見守っていた。
僕の隣を歩くのは、やっぱり海知がいい。
「あのさ、カズ」
「ん?」
「俺と卒業旅行…行かないか?」
「え」
心臓が飛び出そうだった。とっさに目を逸らしてしまう。
「忙しいか?」
「ううん、行きたい…絶対行こ」
自然と笑みが溢れた。海知の顔にも明るさが戻った気がした。
2月。待ちに待った、卒業旅行!2人でこうやって旅行に行くのは、実は初めてだった。実を言うと、昨日は緊張して眠れなかった。ちょっと寝不足である。
「着いたなー!新潟!」
念願のスキー旅行。都会に来てからスキーは全然やっていない。
「カズってスキーできるの?」
「それができるんだなー。僕、長野出身だから」
「え、俺も長野なんだけど」
「嘘…」
そういえば、お互いの出身地とか聞いたことがなかった。
「え、高校は…?」
しかも、僕たちは隣の高校だったのだ。
「僕たちって、もしかして、どこかで会ってたのかな」
「自転車ですれ違うくらいなら…あったかもしれないな」
旅行が楽しみだという思いよりも、思わぬ共通点で僕は驚きを隠せなかった。
「おっと」
「大丈夫か?」
「ああ…ごめん、助かったよ」
海知が何もない場所でこけた。思わず肩を貸したが、僕までこけるところだった。
スキー場につき、久しぶりのスキーに興奮した。
「なあ、あの1番高いところ行こうぜ!」
「海知ー、滑れるか?さっき、ちょっとぎこちなかったけど」
「う、うるさい!ほら、行くぞ!」
僕らは2人でリフトに乗った。平日ということもあり、人はあまりいない。
「なあカズ、写真撮ろうぜ」
「うん、いいよ」
海知が長い手を伸ばして写真を撮ってくれた。実は2人で写真を撮るのも初めてかもしれない。
「なんか、新鮮だな」
「うん。多分、僕、この日は忘れないと思う」
「俺も」
心置きなく喋っていたら、あっという間に山の頂上まで着いた。リフトを降りるときに海知が転びかけたが、僕が引っ張った。少し戸惑っている。
「よーし。じゃあ、僕から行っちゃうからねー」
「おい、置いて行くなよ」
なんか、この日の海知は可愛かったな。
とっくに日も暮れて、ナイターの電気がついている。散々滑った後、僕たちはホテルに向かった。雪解け水が思った以上に浸水していて、寒かった。
「風邪ひくから先に風呂入りに行くか」
「そうだな」
昔、2人で銭湯に行ったのを思い出す。
「なにぼーっとしてんだよ。俺先行くからな」
「あ、ごめん!今行く…」
海知は先に風呂に向かった。
「ちょっと待って」
「どうした」
「海知…その背中のあざ、大丈夫か?」
「え?そんなのある?」
海知の背中は真ん中あたりが青くなっていた。
「ここ、痛いんじゃない?」
僕は軽くその場所に触れた。
「うっ…ちょっと痛いかも」
「気をつけてな」
「ありがとう」
海知はそんな激しく転んだわけではないのに、なぜそんな大きなあざがあるのだろうか…少し違和感を覚えた。
風呂から上がり、夕ご飯を食べる。まるで部活の合宿みたいな生活だった。社会人になったら…と思うと、なんだか名残惜しかった。
「なんか全然スキーできなくなってたな…」
「僕もちょっと鈍ってた」
「カズがそんなというなよ。俺より滑れてたんだから」
今日のスキーを振り返りながら、のんびり夕ご飯を食べた。
部屋に戻ると、もう夜の11時になっていた。歯を磨き、2人で布団に入る。寝っ転がりながら、久々にたわいもない話をした。
「海知はさ、4月からどんなところで働くの?」
「俺は普通に営業かな…でも、なんとなくで選んじゃったところあるから、心配かも。だから、もしかしたらどっかで転職するかもしれない。その時は、カズみたいに嘘つかないで、やりたいことできたらいいな」
「僕から見れば、海知って営業向いてると思うけどね」
「え、そう?どんなところが?」
「愛嬌があるところ」
「俺、そんな愛嬌ある?言われたことないんだけど」
「あるよ!今日のスキーも可愛かったし」
「おい、それ言うなよ」
「冗談冗談。海知、コミュ力高いから、着いていきたいなってなる。最初に会った日、僕はめちゃくちゃ覚えてるし、それこそ、すげーなって思ったんだから。コミュ症の僕が保証する」
「な、なんか…照れるな」
「なに照れてるんだよ!」
僕は海知のあちらこちらをくすぐった。
「痛っ!」
「あ…ごめん」
「全然!さっきのあざかな…」
「ちょっと安静にしたほうがいいかもね」
「だな」
時計を見ると深夜0時を回っていた。
「そろそろ寝るか」
「電気消すね」
「うん、おやすみ」
僕は電気を消して布団に入った。しばらく静寂になった。隙間風が少しひんやりとしていた。
「なあ、カズ。寝たか?」
「まだ起きてるよ」
「くっついて…寝てもいいか?」
「うん」
海知は僕の布団に少し入ってきた。そのまま肩が触れる距離で寝た。しばらくして、海知が少し震えていることに気づく。
「寒い?」
「いや、そういうんじゃない…背中がソワソワして…なんか怖くて…」
確かに、なんだか様子がおかしかった。熱気があるとかそういうのではなくて、制御が効かない感じ。一瞬、何か病気になったのかと疑うほどだった。でも、そういうわけでもなさそう。
「こっちおいで」
僕は海知のことを抱きしめた。海知の呼吸が少しずつ落ち着いていく。
海知の心臓の音が聞こえる。その音を聞いていると、不思議と安心した。同時に、この時間が終わった瞬間、何かを取り返せなくなる気もしていた。
さっきまで小刻みに震えていた海知はすっかり落ち着いた。
僕たちはこのまま、朝まで眠った。窓はガタガタと音を立てている。
翌日。海知はまだ僕の腕の中にいた。少しニヤついてしまう自分がいる。
「おはよう」
「ん…まだ寝たい」
海知は僕の身体を抱き寄せる。
「何してんだよ」
「いいじゃん」
「チェックアウトの時間来ちゃうから…」
「もうちょっとだけ…」
海知に言われるがまま、ギリギリまで布団に入っていた。海知は僕をずっと離さなかった。
どうにか布団から出て、身支度をする。海知は寝ている時と起きているときの差がありすぎて、びっくりした。そんな一面も、僕が唯一、知っているのかな。
2日目は新潟観光をした。と言っても、ほぼ美味しいものを食べるだけの旅。
「米が…上手い!」
「海知それどこ行っても言ってるじゃん」
「だって美味いんだもん!」
ご飯を頬張る海知を見て、なんだか安心した。
「次、あれ食べに行きたい!」
「よく食べるねー」
「食べれるときに美味いもんは食っておかないと」
「…よかった」
「なんか言った?」
「なんでもない、行こう!」
僕らの卒業旅行は一生の思い出として、心の中に刻まれた。
僕が求めていたのは、こういう関係性だ。
3月。桜が満開になった日。僕たちは卒業の日を迎えた。
「結局、4年間あっという間だったな」
「そうだね」
キャンパスを並んで歩く。海知は少し大人びて見えた。卒論も終わり、旅行も経て、体型もだいぶ元に戻った気がする。
「社会人かー」
「実感ない」
「俺も」
正門の前で立ち止まる。僕たちは4月から全然違う企業に行く。僕は一般企業の研究職に就くことになった。お互い東京勤務の予定だ。でも、ここで別れれば、次はいつ会えるかわからない。どこか名残惜しさを感じた。
「海知」
「ん?」
「また会える?」
海知は少し驚いた顔をしたあと、笑った。
「そりゃ…会えるだろ」
「なんでそんな言い切れるの」
「だって」
海知は空を見上げた。
「俺たち、そういう運命じゃん」
その言葉を、僕は前にも聞いた気がした。いつ、どこで聞いたのかは思い出せないのに…。
花びらが1つ。海知の頭に乗っかった。
