相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

 氷がグラスの中で静かに触れ合う。

 琥珀色の液体がゆっくり揺れ、BARの灯りを柔らかく反射していた。

 神代和春はウイスキーを一口飲み、視線を落とす。

 この店は静かだ。

 余計な音がなく、会話が必要以上に膨らまない。

 だから、落ち着く。

 隣では天城愛華がカクテルを手にしていた。

 普段より少しだけ、指先の動きがゆっくりしている。

「……和春」

「ん?」

 呼び方はいつも通り。

 でも声の温度が、ほんの少し違った。

「これ……甘いですね」

「そう言ってただろ」

「はい。でも、想像より……柔らかい味です」

 愛華は小さく笑った。

 その笑顔に、和春の視線が一瞬だけ止まる。

 ――珍しい。

 仕事中でも、家でもない顔。

 メイドとして整えた表情とも違う。

 少しだけ力が抜けた、素の表情だった。

 グラスを持つ手が、わずかに揺れる。

「……愛華」

「はい?」

「飲み過ぎるなよ」

「……大丈夫です。境界線は守ります」

 そう言って、もう一口。

 頬がほんのり赤い。

 店内の灯りのせいか、それとも――。

 和春はウイスキーを口に運びながら、ふと考える。

 いつもなら、愛華は隙を見せない。

 言葉も、姿勢も、距離も。

 すべてが“整っている”。

 でも今夜は違う。

 カウンターに肘をつき、少しだけ体重を預けている。

「……こういう時間、久しぶりです」

 愛華がぽつりと呟いた。

「仕事も書類もない夜って……こんなに静かなんですね」

「Boundary & Mindにしては珍しいな」

「はい」

 彼女はグラスの中を見つめる。

 赤い瞳が、液体の光を受けて揺れていた。

「……和春」

「ん?」

「私、ちゃんと……相方やれてますか」

 予想外の言葉だった。

 和春の指が止まる。

「急だな」

「……少しだけ、酔ってるのかもしれません」

 小さな笑み。

 けれど、その声にはどこか不安が混じっていた。

 和春はグラスを置く。

「やれてる」

 短い返事。

 迷いはない。

「むしろ、お前がいないと成立しない」

 静かな言葉だった。

 でも、それは嘘のない本音だった。

 愛華が一瞬だけ目を見開く。

 そして、ふっと笑った。

「……ずるい人です」

「何が」

「そういう言い方」

 頬が少しだけ赤い。

 視線が合う。

 ほんの一瞬、時間が止まったみたいに静かだった。

 和春は目を逸らし、ウイスキーを飲む。

 胸の奥が、わずかに揺れる。

 理由は分からない。

 ただ――

 いつもより、距離が近く感じた。

 愛華はグラスを持ち直し、少しだけ肩を寄せる。

 触れてはいない。

 でも、温度が伝わる距離。

「……和春」

「ん?」

「今日は、優しいですね」

「普通だろ」

「いいえ」

 彼女はゆっくり瞬きをする。

 その仕草が、どこか幼く見えた。

 普段は絶対に見せない表情。

 少しだけ無防備な顔。

 和春は視線を外せなくなる。

 ――危ない。

 そう思った。

 境界線が、ほんの少しだけ曖昧になる感覚。

 でも、不快ではない。

 むしろ。

 心地いいと思ってしまった自分に、少し驚く。

 愛華が小さく笑う。

「……眠くなってきました」

「飲み過ぎだな」

「二杯目ですけど」

「普段が強すぎるだけだ」

 和春はマスターに軽く合図を送った。

 水が差し出される。

「これ飲め」

「……はい」

 素直に受け取る姿が、少しだけ可笑しい。

 普段の毒舌はどこへ行ったのか。

 静かな時間。

 音楽が低く流れる。

 和春はグラスを見つめながら思う。

 ――こんな顔、初めて見た。

 仕事でも、家でもない。

 ただ隣にいる人の顔。

 胸の奥が、ほんの少しだけ揺れる。

 それが何なのか、まだ言葉にはできない。

「……帰るか」

 和春が静かに言った。

「はい」

 愛華は立ち上がる。

 少しだけふらつく。

 その瞬間。

 和春の手が自然に腕を支えていた。

「……和春」

「歩けるか」

「大丈夫です」

 でも手は離さない。

 離さなかったのは――どちらだったのか。

 Boundary & Mind。

 境界線を守る二人。

 けれど今夜は――

 その線が、ほんの少しだけ揺れていた。