相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

 大学の講義室は、開始前からざわついていた。

 理由は明確だった。

 教壇の横に立つ銀髪の少女――天城愛華。
 クラシカルなメイド服は、場違いなはずなのに妙に整って見える。

「……マジでメイド?」

「ゲスト講師のアシスタントらしい」

 小さなざわめき。

 その中を、神代和春が静かに歩いてきた。

 オレンジの髪、緑の瞳。
 無駄な緊張感を出さない歩き方。

 教壇に立つと、和春は特に挨拶も長くせず口を開いた。

「今日は“境界線”の話をする」

 短い一言。

 ざわついていた空気が、自然と静まる。

「心理学でいうバウンダリー。簡単に言うと――どこまでが自分で、どこからが他人かって線だ」

 黒板に“Boundary”と書く。

「人間関係で疲れる人は、この線が曖昧になってることが多い」

 学生の何人かが顔を上げた。

 和春は続ける。

「例えば、相手が落ち込んでると自分まで沈む人。あれは優しさでもあるけど、境界線が薄い状態でもある」

 少し間を置く。

「相手の感情は相手のもの。自分の感情は自分のもの。ここが混ざると、人は疲れる」

 愛華が一歩前に出た。

「補足しますね。境界線とは“冷たくすること”ではありません。責任の範囲を分けることです」

 学生たちがノートを取り始める。

 和春は教室を見渡した。

「境界線がないとどうなると思う?」

 一人の学生が手を挙げる。

「……相手に振り回される?」

「そう。逆に強すぎても問題になる。壁みたいになるからな」

 和春は黒板に二つの円を書いた。

 重なりすぎた円と、離れすぎた円。

「重なりすぎは“共依存”。離れすぎは“孤立”。ちょうどいい距離がある」

 愛華が頷く。

「心理的安全性とも関係しますね。境界線があるからこそ、人は安心して関われるんです」

「そういうこと」

 和春はチョークを置いた。

「よくある勘違いを言う」

 少しだけ声が低くなる。

「“優しい人ほど境界線が薄い”って思われがちだけど、本当に優しい人は線を引ける」

 静かな毒。

 否定ではない。

 ただ事実を置くだけの言葉。

 教室が静まり返る。

「相手の問題を全部背負うのは優しさじゃない。自分を壊すだけだ」

 愛華が柔らかく続ける。

「例えば友人から相談された時、“一緒に考える”のは境界線を守っています。“代わりに解決しようとする”と少し越えてしまいます」

 学生の一人が小さく呟いた。

「……それ、やってるかも」

 和春は軽く頷く。

「気づけたなら十分だ。境界線は引き直せる」

 教室の空気が少しだけ柔らかくなる。

「じゃあ実践的な話をする」

 和春は机にもたれた。

「境界線を守る一番簡単な言葉は、“それは君が決めることだ”だ」

 数人が顔を上げた。

「責任を返す言葉だな。突き放すんじゃなくて、相手に選択権を渡す」

 愛華が補足する。

「つまり“冷たい”ではなく、“尊重”ですね」

「そう」

 和春は視線を教室全体に向けた。

「人間関係が楽になるときって、大体この線が整った時なんだよ」

 少しだけ微笑む。

「全部背負わなくていい。全部拒否しなくてもいい。境界線は、関係を切るためじゃなくて続けるためにある」

 静かな言葉だった。

 けれど重さがあった。

 教室は完全に静まり返っていた。

 やがて一人の学生が手を挙げる。

「先生……どうやって境界線を作ればいいんですか」

 和春は少しだけ考える。

「小さく始めればいい。“今は無理”って言うだけでも境界線になる」

 愛華が優しく続けた。

「断ることは悪ではありません。自分を守る行動です」

 その言葉に、何人かが深く頷いた。

 講義室の空気は、開始前とはまるで違っていた。

 メイド服の少女と、静かな毒を持つ講師。

 奇妙な組み合わせなのに、不思議と説得力がある。

 和春は時計を見た。

「今日はここまで。あとは各自で考えてみてくれ」

 拍手が起きた。

 大きくはない。

 けれど確かな反応だった。

 愛華が小さく微笑む。

「……和春、毒控えめでしたね」

「学生相手だからな」

「でも、ちゃんと刺さっていました」

「ならいい」

 二人は並んで教壇を降りる。

 Boundary & Mind。

 次のステージは、もう始まっていた。