結衣は和春から道場フロアの説明を一通り聞くと、腕を組んでしばらく考えていた。
「設備は新しくする。一般の門下生も取れるし、うちの社員は福利厚生で使える。経営自体はお前に任せるつもり」
「うーん……」
珍しく静かだった。
結衣はもともと、実家の道場を継ぐ予定になっている。
和春が家業を継がず、自分の道を選んだ以上、自然とその役目は結衣に回っていた。本人も武道が嫌いなわけではない。むしろ好きだからこそ続けている。
問題は、新しい道場まで任されたら二つになることだ。
「実家の道場もあるしな。無理なら別に――」
「あー」
結衣が突然、顔を上げた。
「両方やればいいじゃん!」
「……」
「実家も継ぐ! 新しい方もやる!」
そして、自信満々に胸を張る。
「私、天才!」
和春は呆れた。
「考えた結果が力技じゃねぇか」
「だって両方やりたいんだもん。実家の道場だって好きだし、新しい道場も面白そう!」
「移動もあるぞ?」
「車ある!」
「経営もしなきゃならんぞ?」
「覚える!」
「休みなくなるかもしれねぇぞ?」
「休めばいいじゃん!」
「どうやってだよ」
「人雇う!」
「……まあ、それは正しい」
和春が笑った。
愛華も呆れながら結衣を見る。
「結衣さん、本当に和春の妹ですね……」
「でしょ?」
「褒めているかどうかは微妙ですよ」
この妙なタフさ。
無理なら諦めるのではなく、両方やる方法を先に考える。
方向性こそ違うが、やはり兄妹だった。
ただ――。
瀬奈とアリシアには、別の疑問があった。
二人は結衣を見る。
明るい。
よく笑う。
愛華へ飛びついてくる。
兄を「おにぃ」と呼んで騒ぐ。
少なくとも見た目や雰囲気からは、武道の達人という印象がまるでない。
瀬奈が恐る恐る聞いた。
「結衣さんって……実家の道場を継ぐんですよね?」
「うん」
「かなり長くやってるんですか?」
「物心ついた頃からかな?」
「じゃあ段位とかも?」
「三段」
「三段!?」
アリシアも驚く。
「すごいですね……」
すると結衣は不満そうに頬を膨らませた。
「でも三段っていっても、年齢制限なんて制度のせいで仕方なくそこにいるだけだから」
「仕方なく……?」
「うん。段位って強かったら好きなだけ上がれるわけじゃないし。必要な年齢とか修業年数とかあるじゃん?」
瀬奈には、その言い方が妙に引っかかった。
三段を「仕方なくいる場所」と表現する人間を初めて見た。
それでも。
目の前の結衣と強さが結びつかない。
小柄というわけではないが、筋骨隆々でもない。
腕も普通の女性に見える。
アリシアも同じことを思ったのだろう。
「でも……すみません。結衣さん、そんなに強そうに見えません」
「でしょ?」
結衣はむしろ嬉しそうだった。
「それがいいの!」
「いいんですか?」
「見た目で分かったら面白くないじゃん」
和春が横から普通に言った。
「俺、昔から結衣から一本も取れたことねぇな」
「…………え?」
今度は。
瀬奈とアリシアが和春を見る。
「和春さんが?」
「うん」
「一度も?」
「一本も」
瀬奈は混乱した。
和春は実戦合気道の経験者。
以前の仕事でも、身体能力の高さは垣間見ている。
その和春がこの騒がしい妹から一本も取ったことがない?
「おにぃは強いよ」
結衣が笑う。
「でも私の方が強い!」
「腹立つ言い方だけど事実なんだよな」
「ふふーん」
「調子乗んな」
瀬奈はますます結衣を見る目が変わった。
だがまだ信じきれない。
それに気付いたのか、結衣がニヤッと笑う。
「じゃあ瀬奈さん、面白いもの見せてあげる」
「私ですか?」
「うん。そこ立って」
「……何するんです?」
「大丈夫。痛くないよ」
瀬奈は少し警戒しながら立ち上がった。
「本当に?」
「ほんとほんと。ただ、ちょっとびっくりするかも」
愛華は止めなかった。
和春も止めない。
ということは危険ではないのだろう。
瀬奈は結衣の前に立つ。
「普通に立ってればいいですか?」
「うん」
結衣が瀬奈の正面に立った。
身構える様子すらない。
拳も握らない。
腰も落とさない。
ただ右手を上げる。
そして。
人差し指一本。
「いくよ」
「はい」
トン。
瀬奈の身体へ。
本当に軽く触れただけだった。
「――え?」
次の瞬間。
瀬奈の視界が傾いた。
「わっ!?」
足に力が入らない。
いや。
力は入っている。
なのに身体を支える位置から、重心だけが綺麗に外されていた。
何が起きたのか理解する前に、瀬奈はそのまま後ろへ倒れ――。
「危な」
結衣が腕を掴んだ。
勢いを殺しながら床へ座らせる。
痛みはない。
ただ。
何をされたのか分からない。
「…………え?」
瀬奈は床に座ったまま固まった。
アリシアも目を丸くしている。
「今……指一本でしたよね?」
「うん」
「押しました?」
「ちょっとだけ」
瀬奈が自分の身体を見る。
「いやいやいや……私、普通に立ってましたよ!?」
「だから崩しやすいんだよ」
「どういう意味ですか!?」
結衣は楽しそうに笑った。
「力で倒したんじゃないよ。瀬奈さんが立ってるバランスをちょっとずらしただけ」
「ちょっとで人って倒れるんですか!?」
「倒れるよ」
和春がコーヒーを飲みながら答える。
「人間って自分が思ってるほど安定して立ってねぇからな。重心と支点の位置ずらされれば、力比べする必要なんてない」
アリシアが興味深そうに結衣を見る。
「じゃあ、身体が大きな男性でも?」
「同じだよ」
結衣はあっさり答えた。
「もちろん体格差が大きければ難しくなることはあるけど、最初から力で勝負しなきゃいいもん」
瀬奈は立ち上がりながら、改めて結衣を見る。
数分前まで。
愛華に抱きついて。
「愛華ねぇぇ!」と叫んでいた女性である。
「……全然強そうに見えないのに」
「だからそれ褒め言葉!」
「そうなんですか!?」
「だって相手が油断してくれるじゃん」
満面の笑みだった。
瀬奈は少し引いた。
「……和春さん」
「何?」
「やっぱり妹さんですね」
「どういう意味だよ」
「なんとなく分かってきました」
「だからどういう意味だよ」
愛華が小さく笑う。
「諦めた方がいいですよ、和春」
「愛華まで何だよ」
その隣でアリシアは、結衣が先ほど瀬奈を崩した位置をじっと見ていた。
経営の瀬奈。
心理学のアリシア。
そして今度は武道の結衣。
これからBoundary & Mindが大きくなれば、さらに違う専門性を持った人間が集まってくる。
まだ正式に新しいビルへ移ってすらいない。
それなのに。
少しずつ。
和春が作ろうとしている会社の形が見え始めていた。
「設備は新しくする。一般の門下生も取れるし、うちの社員は福利厚生で使える。経営自体はお前に任せるつもり」
「うーん……」
珍しく静かだった。
結衣はもともと、実家の道場を継ぐ予定になっている。
和春が家業を継がず、自分の道を選んだ以上、自然とその役目は結衣に回っていた。本人も武道が嫌いなわけではない。むしろ好きだからこそ続けている。
問題は、新しい道場まで任されたら二つになることだ。
「実家の道場もあるしな。無理なら別に――」
「あー」
結衣が突然、顔を上げた。
「両方やればいいじゃん!」
「……」
「実家も継ぐ! 新しい方もやる!」
そして、自信満々に胸を張る。
「私、天才!」
和春は呆れた。
「考えた結果が力技じゃねぇか」
「だって両方やりたいんだもん。実家の道場だって好きだし、新しい道場も面白そう!」
「移動もあるぞ?」
「車ある!」
「経営もしなきゃならんぞ?」
「覚える!」
「休みなくなるかもしれねぇぞ?」
「休めばいいじゃん!」
「どうやってだよ」
「人雇う!」
「……まあ、それは正しい」
和春が笑った。
愛華も呆れながら結衣を見る。
「結衣さん、本当に和春の妹ですね……」
「でしょ?」
「褒めているかどうかは微妙ですよ」
この妙なタフさ。
無理なら諦めるのではなく、両方やる方法を先に考える。
方向性こそ違うが、やはり兄妹だった。
ただ――。
瀬奈とアリシアには、別の疑問があった。
二人は結衣を見る。
明るい。
よく笑う。
愛華へ飛びついてくる。
兄を「おにぃ」と呼んで騒ぐ。
少なくとも見た目や雰囲気からは、武道の達人という印象がまるでない。
瀬奈が恐る恐る聞いた。
「結衣さんって……実家の道場を継ぐんですよね?」
「うん」
「かなり長くやってるんですか?」
「物心ついた頃からかな?」
「じゃあ段位とかも?」
「三段」
「三段!?」
アリシアも驚く。
「すごいですね……」
すると結衣は不満そうに頬を膨らませた。
「でも三段っていっても、年齢制限なんて制度のせいで仕方なくそこにいるだけだから」
「仕方なく……?」
「うん。段位って強かったら好きなだけ上がれるわけじゃないし。必要な年齢とか修業年数とかあるじゃん?」
瀬奈には、その言い方が妙に引っかかった。
三段を「仕方なくいる場所」と表現する人間を初めて見た。
それでも。
目の前の結衣と強さが結びつかない。
小柄というわけではないが、筋骨隆々でもない。
腕も普通の女性に見える。
アリシアも同じことを思ったのだろう。
「でも……すみません。結衣さん、そんなに強そうに見えません」
「でしょ?」
結衣はむしろ嬉しそうだった。
「それがいいの!」
「いいんですか?」
「見た目で分かったら面白くないじゃん」
和春が横から普通に言った。
「俺、昔から結衣から一本も取れたことねぇな」
「…………え?」
今度は。
瀬奈とアリシアが和春を見る。
「和春さんが?」
「うん」
「一度も?」
「一本も」
瀬奈は混乱した。
和春は実戦合気道の経験者。
以前の仕事でも、身体能力の高さは垣間見ている。
その和春がこの騒がしい妹から一本も取ったことがない?
「おにぃは強いよ」
結衣が笑う。
「でも私の方が強い!」
「腹立つ言い方だけど事実なんだよな」
「ふふーん」
「調子乗んな」
瀬奈はますます結衣を見る目が変わった。
だがまだ信じきれない。
それに気付いたのか、結衣がニヤッと笑う。
「じゃあ瀬奈さん、面白いもの見せてあげる」
「私ですか?」
「うん。そこ立って」
「……何するんです?」
「大丈夫。痛くないよ」
瀬奈は少し警戒しながら立ち上がった。
「本当に?」
「ほんとほんと。ただ、ちょっとびっくりするかも」
愛華は止めなかった。
和春も止めない。
ということは危険ではないのだろう。
瀬奈は結衣の前に立つ。
「普通に立ってればいいですか?」
「うん」
結衣が瀬奈の正面に立った。
身構える様子すらない。
拳も握らない。
腰も落とさない。
ただ右手を上げる。
そして。
人差し指一本。
「いくよ」
「はい」
トン。
瀬奈の身体へ。
本当に軽く触れただけだった。
「――え?」
次の瞬間。
瀬奈の視界が傾いた。
「わっ!?」
足に力が入らない。
いや。
力は入っている。
なのに身体を支える位置から、重心だけが綺麗に外されていた。
何が起きたのか理解する前に、瀬奈はそのまま後ろへ倒れ――。
「危な」
結衣が腕を掴んだ。
勢いを殺しながら床へ座らせる。
痛みはない。
ただ。
何をされたのか分からない。
「…………え?」
瀬奈は床に座ったまま固まった。
アリシアも目を丸くしている。
「今……指一本でしたよね?」
「うん」
「押しました?」
「ちょっとだけ」
瀬奈が自分の身体を見る。
「いやいやいや……私、普通に立ってましたよ!?」
「だから崩しやすいんだよ」
「どういう意味ですか!?」
結衣は楽しそうに笑った。
「力で倒したんじゃないよ。瀬奈さんが立ってるバランスをちょっとずらしただけ」
「ちょっとで人って倒れるんですか!?」
「倒れるよ」
和春がコーヒーを飲みながら答える。
「人間って自分が思ってるほど安定して立ってねぇからな。重心と支点の位置ずらされれば、力比べする必要なんてない」
アリシアが興味深そうに結衣を見る。
「じゃあ、身体が大きな男性でも?」
「同じだよ」
結衣はあっさり答えた。
「もちろん体格差が大きければ難しくなることはあるけど、最初から力で勝負しなきゃいいもん」
瀬奈は立ち上がりながら、改めて結衣を見る。
数分前まで。
愛華に抱きついて。
「愛華ねぇぇ!」と叫んでいた女性である。
「……全然強そうに見えないのに」
「だからそれ褒め言葉!」
「そうなんですか!?」
「だって相手が油断してくれるじゃん」
満面の笑みだった。
瀬奈は少し引いた。
「……和春さん」
「何?」
「やっぱり妹さんですね」
「どういう意味だよ」
「なんとなく分かってきました」
「だからどういう意味だよ」
愛華が小さく笑う。
「諦めた方がいいですよ、和春」
「愛華まで何だよ」
その隣でアリシアは、結衣が先ほど瀬奈を崩した位置をじっと見ていた。
経営の瀬奈。
心理学のアリシア。
そして今度は武道の結衣。
これからBoundary & Mindが大きくなれば、さらに違う専門性を持った人間が集まってくる。
まだ正式に新しいビルへ移ってすらいない。
それなのに。
少しずつ。
和春が作ろうとしている会社の形が見え始めていた。


