二人の意思を確認したところで、愛華がテーブルの上の資料を入れ替えた。
「では、二人とも働く方向で考えてくださるということで、もう一つお伝えしておかなければならないことがあります」
「まだあるんですか?」
瀬奈はすでに十分大きな話を聞いたつもりだった。
大学に通いながらBoundary & Mindへ入社する。
卒業後は、実力次第では役職を任される。
そしてアリシアと二人一組でコンサルタントを目指す。
これだけでも今日呼ばれた意味は十分すぎるほどある。
だが、和春はいつもの調子でコーヒーを飲んでいる。
「ああ。数ヶ月後、ここから会社移すから」
「……はい?」
瀬奈が周囲を見た。
現在のBoundary & Mindは和春の自宅兼事務所だ。ここへ来るのも随分慣れた。
「事務所を借りるんですか?」
「いや、ビル」
「ビル?」
「高層ビルです」
愛華が補足した。
「かなり大きな?」
アリシアが尋ねる。
「かなり大きな、ですね」
「どのくらいですか?」
和春が普通に答えた。
「250億くらい」
「…………」
瀬奈が止まった。
アリシアも止まった。
「……今、いくらって言いました?」
「250億」
「にひゃく……」
瀬奈は一度頭の中で数字を並べ直した。
「二億五千万じゃなくて?」
「250億」
「桁がおかしいですよ!?」
和春は笑う。
「俺に言うなよ。俺が値段決めたわけじゃねぇし」
「そういう問題じゃありません!」
愛華は二人の反応が予想通りだったのか、淡々と資料を見せた。
「天城グループが所有している大型高層ビルです。内装、外装、設備関係も大規模な改修を終えています」
瀬奈が資料を見る。
写真だけでも分かる。
どう考えても、今いる自宅兼事務所から少し広いオフィスへ移るという次元ではない。
「……これ全部ですか?」
「全部」
「一フロアじゃなく?」
「全部」
「Boundary & Mindが?」
「ああ」
「…………」
瀬奈はアリシアを見る。
アリシアも困ったように笑っていた。
「私、モデルのお仕事で大きな金額の話を聞くことはありますけど……さすがに会社へ入ろうとしたら250億円のビルが出てくるとは思いませんでした」
「安心しろ。俺も最初は知らなかった」
「安心できませんよ!」
愛華が少し笑いながら続けた。
「正確には、すぐに所有するわけではありません。最初の二年間を準備期間として使い、その後五年間で会社を成長させます。七年後にBoundary & Mind側で買い取る計画です」
「…………」
今度は。
二人とも和春を見た。
「七年後……」
瀬奈が確認する。
「250億円のビルを?」
「ああ」
「買うんですか?」
「そのつもり」
「…………」
瀬奈の顔から、今度こそ言葉が消えた。
250億円のビルそのものに驚けばいいのか。
それを使って会社を大きくすると言い出したことに驚けばいいのか。
七年後には買い取ると平然と言っている和春に驚けばいいのか。
もはや何に驚いているのか、自分でも分からなくなってきた。
「もちろん250億を現金で貯めるって話じゃねぇぞ」
和春は資料を指で軽く叩く。
「そんな経営する気ないからな。会社の利益、キャッシュフロー、資産、金融機関との信用。七年かけて全部作る。最終的には自己資金と調達を組み合わせて買う」
瀬奈は経営を学んでいる。
だからこそ、その意味が分かる。
七年後に250億円を持っている会社を作るのではない。
250億円規模の資産取得を金融機関が任せられる会社を作る。
それでも。
とんでもない話なのは変わらなかった。
「……私、本当にそんな会社で来年役職つくんですか?」
「だから一年で育てって言ってんだろ」
「急に怖くなってきました!」
「責任増えるって説明したじゃん」
「規模を説明される前と後で責任の意味が違います!」
アリシアが吹き出した。
「瀬奈さん、大丈夫です。私もいますから」
「アリシアさんは怖くないんですか!?」
「怖いですよ?」
「笑ってるじゃないですか!」
「でも、面白そうです」
その答えに。
和春が少し笑った。
「なら大丈夫だな」
「その判断基準でいいんですか!?」
愛華は二人を見ながら思う。
悪くない。
少なくとも、これから始まるBoundary & Mindには、このくらいの人間の方がいい。
そして――。
「ああ、あともう一個」
和春が思い出したように言った。
愛華が和春を見る。
まさか。
本当にこの流れで言うつもりなのか。
「俺と愛華、婚約したから」
「…………」
再び。
沈黙。
瀬奈とアリシアが和春を見る。
次に。
愛華を見る。
そして。
また和春。
「……え?」
瀬奈が声を漏らした。
「結婚する」
「えええええっ!?」
今日一番大きな声だった。
和春が顔をしかめる。
「うるせぇな」
「だって!」
瀬奈は立ち上がりそうな勢いで愛華を見る。
「本当ですか!?」
「はい」
愛華は少し照れながらも、いつもの落ち着いた笑みを浮かべた。
「正式に和春から結婚を前提に交際を申し込まれまして。その後、父にも認めてもらいました」
「おめでとうございます! 愛華先輩!」
瀬奈は本当に嬉しそうだった。
以前から。
どう見ても普通の相方ではないと思っていた。
旅館で二人を見た時など、絶対に何かあると確信したくらいだ。
なのに付き合っていない。
本人たちがそう言うのだから、それ以上は聞けなかった。
ようやくあの名前のなかった関係に正式な名前がついた。
「ありがとうございます」
愛華も素直に笑った。
「やっぱり和春さんだったんですね!」
「何がやっぱりなんだよ」
「絶対好きだったじゃないですか!」
「……」
「和春さん?」
「次の話するぞ」
「逃げましたね!?」
そんな瀬奈の隣でアリシアは少しだけ目を丸くしていた。
そしてすぐに笑った。
「そうですか……」
「?」
和春が見る。
アリシアは顎に指を当て、少し考えるような仕草をする。
「これは完璧に失恋ですかね」
「は?」
瀬奈がアリシアを見る。
愛華も僅かに目を見開いた。
和春に至っては本気で意味が分かっていない顔をしている。
「お前、俺のこと好きだったの?」
「そういうところですよ、和春さん」
アリシアが笑った。
怒っているわけでも落ち込んでいるわけでもない。
「憧れはずっとありますよ」
それは本当だった。
和春が昔出版した心理学の本。
アリシアは今でも持っている。
一度読んだだけではない。
何度も何度も読み返した。
心理学を学びたいと思った理由の全てが和春というわけではない。
だがその方向へ強く進むきっかけになった人物の一人であることは間違いなかった。
実際に会って仕事を見て話してその憧れは消えなかった。
むしろ強くなった。
「恋愛なのかって聞かれたら、私もよく分からないんです」
アリシアは素直に言った。
「でも、和春さんに付き合ってくださいって言われたら、たぶん私は嬉しかったと思います」
「……」
「それくらいには好きですよ」
そして愛華を見る。
「でも、愛華さんがいるのは最初から分かっていましたから」
愛華が少し笑う。
「付き合ってはいませんでしたよ?」
「それを信じろという方が無理があります」
「……」
今度は愛華が黙った。
瀬奈が激しく頷く。
「分かります!」
「瀬奈?」
「すみません!」
アリシアが楽しそうに笑った。
「なので大丈夫です。失恋したので明日から仕事に来ません、とか言いませんから」
「それされたら困る」
「もう社員扱いなんですね」
「働くって言っただろ」
「はい」
アリシアは嬉しそうに返事をした。
そして愛華へ向き直る。
「愛華さん、おめでとうございます」
今度は冗談ではない。
「ありがとうございます、アリシアさん」
「でもちょっとだけ羨ましいです」
「それは……」
愛華が和春を見る。
本人はもう次の資料を確認していた。
「実際に一緒に暮らすと、かなり大変ですよ?」
「おい」
「寝ないで仕事しますし」
「最近は寝てるだろ」
「放っておくと一人で仕事を全部終わらせますし」
「早く終わるんだからいいだろ」
「良くありません」
「ふふっ……」
アリシアは笑った。
やはりこの二人だった。
和春と愛華どちらか片方だけでは。
今のBoundary & Mindにはならなかったのだろう。
そしてこれからその会社に自分たちも入る。
瀬奈とアリシアは改めて、テーブルの上に広げられた高層ビルの資料を見る。
社員になる話。
二人一組のコンサルタント。
250億円の高層ビル。
七年間の事業計画。
そして社長とその相方の婚約。
瀬奈は小さく息を吐いた。
「今日……情報量多すぎません?」
「私もそう思います」
アリシアが笑う。
和春だけは不思議そうだった。
「そうか?」
「そうですよ!!」
二人の声が綺麗に重なった。
愛華はその様子を見ながら、静かに笑っていた。
二人だったBoundary & Mindに新しい仲間が加わろうとしている。
そして会社も和春と愛華もこの春から本当に大きく変わり始めていた。
「では、二人とも働く方向で考えてくださるということで、もう一つお伝えしておかなければならないことがあります」
「まだあるんですか?」
瀬奈はすでに十分大きな話を聞いたつもりだった。
大学に通いながらBoundary & Mindへ入社する。
卒業後は、実力次第では役職を任される。
そしてアリシアと二人一組でコンサルタントを目指す。
これだけでも今日呼ばれた意味は十分すぎるほどある。
だが、和春はいつもの調子でコーヒーを飲んでいる。
「ああ。数ヶ月後、ここから会社移すから」
「……はい?」
瀬奈が周囲を見た。
現在のBoundary & Mindは和春の自宅兼事務所だ。ここへ来るのも随分慣れた。
「事務所を借りるんですか?」
「いや、ビル」
「ビル?」
「高層ビルです」
愛華が補足した。
「かなり大きな?」
アリシアが尋ねる。
「かなり大きな、ですね」
「どのくらいですか?」
和春が普通に答えた。
「250億くらい」
「…………」
瀬奈が止まった。
アリシアも止まった。
「……今、いくらって言いました?」
「250億」
「にひゃく……」
瀬奈は一度頭の中で数字を並べ直した。
「二億五千万じゃなくて?」
「250億」
「桁がおかしいですよ!?」
和春は笑う。
「俺に言うなよ。俺が値段決めたわけじゃねぇし」
「そういう問題じゃありません!」
愛華は二人の反応が予想通りだったのか、淡々と資料を見せた。
「天城グループが所有している大型高層ビルです。内装、外装、設備関係も大規模な改修を終えています」
瀬奈が資料を見る。
写真だけでも分かる。
どう考えても、今いる自宅兼事務所から少し広いオフィスへ移るという次元ではない。
「……これ全部ですか?」
「全部」
「一フロアじゃなく?」
「全部」
「Boundary & Mindが?」
「ああ」
「…………」
瀬奈はアリシアを見る。
アリシアも困ったように笑っていた。
「私、モデルのお仕事で大きな金額の話を聞くことはありますけど……さすがに会社へ入ろうとしたら250億円のビルが出てくるとは思いませんでした」
「安心しろ。俺も最初は知らなかった」
「安心できませんよ!」
愛華が少し笑いながら続けた。
「正確には、すぐに所有するわけではありません。最初の二年間を準備期間として使い、その後五年間で会社を成長させます。七年後にBoundary & Mind側で買い取る計画です」
「…………」
今度は。
二人とも和春を見た。
「七年後……」
瀬奈が確認する。
「250億円のビルを?」
「ああ」
「買うんですか?」
「そのつもり」
「…………」
瀬奈の顔から、今度こそ言葉が消えた。
250億円のビルそのものに驚けばいいのか。
それを使って会社を大きくすると言い出したことに驚けばいいのか。
七年後には買い取ると平然と言っている和春に驚けばいいのか。
もはや何に驚いているのか、自分でも分からなくなってきた。
「もちろん250億を現金で貯めるって話じゃねぇぞ」
和春は資料を指で軽く叩く。
「そんな経営する気ないからな。会社の利益、キャッシュフロー、資産、金融機関との信用。七年かけて全部作る。最終的には自己資金と調達を組み合わせて買う」
瀬奈は経営を学んでいる。
だからこそ、その意味が分かる。
七年後に250億円を持っている会社を作るのではない。
250億円規模の資産取得を金融機関が任せられる会社を作る。
それでも。
とんでもない話なのは変わらなかった。
「……私、本当にそんな会社で来年役職つくんですか?」
「だから一年で育てって言ってんだろ」
「急に怖くなってきました!」
「責任増えるって説明したじゃん」
「規模を説明される前と後で責任の意味が違います!」
アリシアが吹き出した。
「瀬奈さん、大丈夫です。私もいますから」
「アリシアさんは怖くないんですか!?」
「怖いですよ?」
「笑ってるじゃないですか!」
「でも、面白そうです」
その答えに。
和春が少し笑った。
「なら大丈夫だな」
「その判断基準でいいんですか!?」
愛華は二人を見ながら思う。
悪くない。
少なくとも、これから始まるBoundary & Mindには、このくらいの人間の方がいい。
そして――。
「ああ、あともう一個」
和春が思い出したように言った。
愛華が和春を見る。
まさか。
本当にこの流れで言うつもりなのか。
「俺と愛華、婚約したから」
「…………」
再び。
沈黙。
瀬奈とアリシアが和春を見る。
次に。
愛華を見る。
そして。
また和春。
「……え?」
瀬奈が声を漏らした。
「結婚する」
「えええええっ!?」
今日一番大きな声だった。
和春が顔をしかめる。
「うるせぇな」
「だって!」
瀬奈は立ち上がりそうな勢いで愛華を見る。
「本当ですか!?」
「はい」
愛華は少し照れながらも、いつもの落ち着いた笑みを浮かべた。
「正式に和春から結婚を前提に交際を申し込まれまして。その後、父にも認めてもらいました」
「おめでとうございます! 愛華先輩!」
瀬奈は本当に嬉しそうだった。
以前から。
どう見ても普通の相方ではないと思っていた。
旅館で二人を見た時など、絶対に何かあると確信したくらいだ。
なのに付き合っていない。
本人たちがそう言うのだから、それ以上は聞けなかった。
ようやくあの名前のなかった関係に正式な名前がついた。
「ありがとうございます」
愛華も素直に笑った。
「やっぱり和春さんだったんですね!」
「何がやっぱりなんだよ」
「絶対好きだったじゃないですか!」
「……」
「和春さん?」
「次の話するぞ」
「逃げましたね!?」
そんな瀬奈の隣でアリシアは少しだけ目を丸くしていた。
そしてすぐに笑った。
「そうですか……」
「?」
和春が見る。
アリシアは顎に指を当て、少し考えるような仕草をする。
「これは完璧に失恋ですかね」
「は?」
瀬奈がアリシアを見る。
愛華も僅かに目を見開いた。
和春に至っては本気で意味が分かっていない顔をしている。
「お前、俺のこと好きだったの?」
「そういうところですよ、和春さん」
アリシアが笑った。
怒っているわけでも落ち込んでいるわけでもない。
「憧れはずっとありますよ」
それは本当だった。
和春が昔出版した心理学の本。
アリシアは今でも持っている。
一度読んだだけではない。
何度も何度も読み返した。
心理学を学びたいと思った理由の全てが和春というわけではない。
だがその方向へ強く進むきっかけになった人物の一人であることは間違いなかった。
実際に会って仕事を見て話してその憧れは消えなかった。
むしろ強くなった。
「恋愛なのかって聞かれたら、私もよく分からないんです」
アリシアは素直に言った。
「でも、和春さんに付き合ってくださいって言われたら、たぶん私は嬉しかったと思います」
「……」
「それくらいには好きですよ」
そして愛華を見る。
「でも、愛華さんがいるのは最初から分かっていましたから」
愛華が少し笑う。
「付き合ってはいませんでしたよ?」
「それを信じろという方が無理があります」
「……」
今度は愛華が黙った。
瀬奈が激しく頷く。
「分かります!」
「瀬奈?」
「すみません!」
アリシアが楽しそうに笑った。
「なので大丈夫です。失恋したので明日から仕事に来ません、とか言いませんから」
「それされたら困る」
「もう社員扱いなんですね」
「働くって言っただろ」
「はい」
アリシアは嬉しそうに返事をした。
そして愛華へ向き直る。
「愛華さん、おめでとうございます」
今度は冗談ではない。
「ありがとうございます、アリシアさん」
「でもちょっとだけ羨ましいです」
「それは……」
愛華が和春を見る。
本人はもう次の資料を確認していた。
「実際に一緒に暮らすと、かなり大変ですよ?」
「おい」
「寝ないで仕事しますし」
「最近は寝てるだろ」
「放っておくと一人で仕事を全部終わらせますし」
「早く終わるんだからいいだろ」
「良くありません」
「ふふっ……」
アリシアは笑った。
やはりこの二人だった。
和春と愛華どちらか片方だけでは。
今のBoundary & Mindにはならなかったのだろう。
そしてこれからその会社に自分たちも入る。
瀬奈とアリシアは改めて、テーブルの上に広げられた高層ビルの資料を見る。
社員になる話。
二人一組のコンサルタント。
250億円の高層ビル。
七年間の事業計画。
そして社長とその相方の婚約。
瀬奈は小さく息を吐いた。
「今日……情報量多すぎません?」
「私もそう思います」
アリシアが笑う。
和春だけは不思議そうだった。
「そうか?」
「そうですよ!!」
二人の声が綺麗に重なった。
愛華はその様子を見ながら、静かに笑っていた。
二人だったBoundary & Mindに新しい仲間が加わろうとしている。
そして会社も和春と愛華もこの春から本当に大きく変わり始めていた。


