結局、和春と愛華はそのまま天城邸に一泊することになった。
昼過ぎに来たはずなのに、剛玄と和春が経営の話に夢中になり、夕食を挟んでも話は終わらなかった。むしろ酒まで入ったことで余計に盛り上がり、愛華が止めなければ日付が変わっても続いていただろう。
「今日はもう終わりです。和春も明日から仕事がありますし、お父様もでしょう?」
「まだ話の途中だぞ。なあ和春くん」
「俺は別に平気だけど」
「和春?」
「……寝るか」
愛華の一言であっさり折れた和春を見て、剛玄は豪快に笑った。
「ははは! なんだ和春くん。愛華には弱いのか!」
「弱いっていうか、こいつ怒らせるとめんどくせぇんだよ」
「誰が面倒なんですか」
「ほらな」
「あなたが余計なことを言うからでしょう!」
そのやり取りを見ていた天華は楽しそうに笑い、麗華はすでに何度目か分からないため息をついていた。
今日初めてまともに顔を合わせたはずの父親と婚約者が、数時間後には酒を酌み交わして笑っている。
誰がこんな展開を予想できただろう。
剛玄はグラスを置くと、当然のように言った。
「もう遅い。今日は泊まっていけ」
「そうだな。じゃあそうするか」
「ええ。客室を用意させますね」
天華が使用人へ声をかけようとした、その時だった。
「客室なんぞいらんだろ」
剛玄が何でもないことのように言う。
「もう結婚するんだ。愛華の部屋で寝ればいい」
「お父様!?」
愛華より先に麗華が反応した。だが剛玄はまったく気にしていない。
「何を驚いている。婚約者だろう?」
「だからといって、父親が言うことではないでしょう!」
「それにうちは壁も厚いからな。多少声が――」
「あなた?」
天華の声だった。
穏やかだった。恐ろしく穏やかだった。
剛玄の言葉が止まる。
「……なんだ?」
「少し、こちらへいらっしゃい」
「いや、天華。待て今のはただの冗談だ」
「ええ。分かっていますよ」
笑顔。だからこそ怖い。
「冗談を言っていい場面と、言ってはいけない場面について、夫婦で少しお話をしましょう」
「いや、俺は別に――」
「あなた?」
「……分かった」
天城グループを率いる剛玄が、素直に立ち上がった。そのまま天華に連れていかれる。
数分後。
離れた廊下の向こうから、天華の雷が落ちた。
「……」
麗華が額を押さえる。
「本当にごめんなさい、和春さん。父が……」
「別に気にしてねぇよ」
愛華は真っ赤になりながら、父親が消えていった方向を睨んでいた。
「まったく……何を言っているんですか、あの人は……」
「でも壁は厚いらしいぞ」
「和春」
「冗談だって」
「あなたまで乗らないでください!」
麗華は思わず吹き出した。
結局、客室ではなく愛華の部屋に和春の寝具も用意された。
剛玄の発言とは一切関係ない。
――ということになった。
⸻
翌朝。
天城邸の朝食は昨夜とは違い、比較的静かだった。
少なくとも最初の数分は。
「和春くん。昨日のビルの話だが」
「あなた」
天華が味噌汁の椀を置く。剛玄が止まった。
「……なんだ」
「朝食くらい仕事の話はやめなさい」
「まだ何も話していないだろう」
「これから話す顔をしていました」
「顔で分かるものか」
「何年あなたの妻をしていると思っているんです?」
「……」
剛玄が黙った。和春は横で笑う。
「親父さん、完全に尻に敷かれてんな」
「誰がだ!」
「あなたですよ」
天華が即答する。愛華は紅茶を飲みながら小さくため息をついた。
「和春。朝から父を煽らないでください」
「煽ってねぇよ。事実確認しただけ」
「それを煽っていると言うんです」
麗華は黙々と朝食を食べながら思った。
昨日まで、この男が妹の婚約者になることを警戒していたはずなのだ。それが一晩でこれである。
父とも母とも普通に話し、天城家という名前にも一切気圧されない。
あまりにも自然にこの食卓へ混ざっていた。
⸻
朝食を終えると、和春と愛華は帰ることにした。
玄関まで剛玄たちが見送りに来る。
「和春」
「あ?」
「ビルの正式な資料は後日送る。昨日話した七年の件も契約に落とし込むぞ」
「ああ。俺も一回持ち帰って愛華と詰める」
「人員計画も早めにな」
「分かってる。まずそこだな」
「それから――」
「お父様」
愛華が割って入った。
「続きは仕事として正式に打ち合わせしてください。今始めたらまた帰れなくなります」
「む……」
剛玄が明らかに残念そうな顔をする。それを見た麗華が呆れた。
「お父様、和春さんと話したいだけでしょう」
「何を言っている。仕事だ」
「昨日あれだけ話したでしょう?」
「経営の話に終わりなどない」
「はいはい」
「麗華、お前最近父親の扱いが雑になっていないか?」
「昨日からです」
和春が笑った。
「じゃあ親父さん、またな」
「おう。また来い」
「ああ」
愛華はそのやり取りを聞いて、なんとも言えない顔になった。
「……本当に仲良くなりましたね」
「話合うからな」
「私より父と話していた時間の方の長かった気がするんですが?」
「まだ言ってんの?」
「婚約挨拶で放置された女性の気持ちを考えてください」
「悪かったって」
和春が笑いながら車のキーを取り出す。その時、天華が愛華へ声をかけた。
「愛華」
「はい」
振り返った娘に、天華は優しく微笑んだ。
「また二人でいらっしゃい。今度は仕事の話をしない日を決めて」
「それは父と和春にはかなり難しい条件だと思います」
「確かにな」
「和春は黙っていてください」
最後までいつも通りだった。
⸻
天城邸を離れ、自宅兼事務所へ向かう車の中。
愛華は助手席でタブレットを開いていた。もう仕事の顔に戻っている。
「今日の予定ですが、午後から二件電話があります。それと昨日届いた企業案件の資料確認。月初ですので会計関係もあります」
「分かった」
「それから」
愛華が一度画面を止めた。
「新しいBoundary & Mindの準備ですね」
「ああ」
ここからが本番だった。
250億円規模の大型高層ビル。
七年間。
最初の二年間は準備期間。残る五年間で、あのビルを自社で買い取れるだけの会社へ成長させる。
だが、既存の仕事を止めるわけではない。むしろ今まで以上に仕事を取りながら、同時に組織を作っていく必要がある。
「まず人だな」
和春が言った。
「はい。今までのように二人で全部処理するのは不可能です」
「瀬奈もそろそろ本格的に育てるか」
「私もそう思います。ただ、瀬奈さん一人では到底足りません」
「分かってる。採用始めよう」
「新卒だけでは間に合いませんよ?」
「中途も取る。経験者だけに絞る必要もない。頭が柔らかくて、自分で考えられる奴なら育てりゃいい」
「和春が教育するんですか?」
「最初はな」
愛華が即座に睨んだ。
「全部自分で抱え込むのは禁止です」
「まだ何もしてねぇだろ」
「先に言っています。あなたは放っておくとやりますから」
「信用ねぇなぁ」
「実績があります」
反論できなかった。
会社を大きくする。人を増やす。組織を作る。
弁護士事務所や税理士事務所の準備も必要になる。
託児所。道場。企業研修。テナント。
昨日だけでも構想は恐ろしいほど膨らんだ。
当然、一気に全部を始めるわけではない。優先順位を決め、一つずつ形にする。それもまた経営だった。
和春は信号待ちで一度、空を見上げた。
春。
四月。
司法試験に合格してからも、ほとんど何も変わらず仕事ばかりしてきた。
だが今年は違う。
愛華との関係には名前がついた。結婚も認められた。
そしてBoundary & Mindも、二人だけの会社から次の段階へ進もうとしている。
「いい四月になりそうだな」
和春が何気なく言った。
愛華はタブレットから顔を上げる。
「忙しい四月の間違いでは?」
「同じだろ」
「まったく違います」
そう言いながらも、愛華は少し笑っていた。
仕事も。会社も。二人の関係も。
何もかもが同時に動き始める。
この四月は、Boundary & Mindにとって大きな転換点になる。
そして和春と愛華にとっても――新しい人生の始まりだった。
昼過ぎに来たはずなのに、剛玄と和春が経営の話に夢中になり、夕食を挟んでも話は終わらなかった。むしろ酒まで入ったことで余計に盛り上がり、愛華が止めなければ日付が変わっても続いていただろう。
「今日はもう終わりです。和春も明日から仕事がありますし、お父様もでしょう?」
「まだ話の途中だぞ。なあ和春くん」
「俺は別に平気だけど」
「和春?」
「……寝るか」
愛華の一言であっさり折れた和春を見て、剛玄は豪快に笑った。
「ははは! なんだ和春くん。愛華には弱いのか!」
「弱いっていうか、こいつ怒らせるとめんどくせぇんだよ」
「誰が面倒なんですか」
「ほらな」
「あなたが余計なことを言うからでしょう!」
そのやり取りを見ていた天華は楽しそうに笑い、麗華はすでに何度目か分からないため息をついていた。
今日初めてまともに顔を合わせたはずの父親と婚約者が、数時間後には酒を酌み交わして笑っている。
誰がこんな展開を予想できただろう。
剛玄はグラスを置くと、当然のように言った。
「もう遅い。今日は泊まっていけ」
「そうだな。じゃあそうするか」
「ええ。客室を用意させますね」
天華が使用人へ声をかけようとした、その時だった。
「客室なんぞいらんだろ」
剛玄が何でもないことのように言う。
「もう結婚するんだ。愛華の部屋で寝ればいい」
「お父様!?」
愛華より先に麗華が反応した。だが剛玄はまったく気にしていない。
「何を驚いている。婚約者だろう?」
「だからといって、父親が言うことではないでしょう!」
「それにうちは壁も厚いからな。多少声が――」
「あなた?」
天華の声だった。
穏やかだった。恐ろしく穏やかだった。
剛玄の言葉が止まる。
「……なんだ?」
「少し、こちらへいらっしゃい」
「いや、天華。待て今のはただの冗談だ」
「ええ。分かっていますよ」
笑顔。だからこそ怖い。
「冗談を言っていい場面と、言ってはいけない場面について、夫婦で少しお話をしましょう」
「いや、俺は別に――」
「あなた?」
「……分かった」
天城グループを率いる剛玄が、素直に立ち上がった。そのまま天華に連れていかれる。
数分後。
離れた廊下の向こうから、天華の雷が落ちた。
「……」
麗華が額を押さえる。
「本当にごめんなさい、和春さん。父が……」
「別に気にしてねぇよ」
愛華は真っ赤になりながら、父親が消えていった方向を睨んでいた。
「まったく……何を言っているんですか、あの人は……」
「でも壁は厚いらしいぞ」
「和春」
「冗談だって」
「あなたまで乗らないでください!」
麗華は思わず吹き出した。
結局、客室ではなく愛華の部屋に和春の寝具も用意された。
剛玄の発言とは一切関係ない。
――ということになった。
⸻
翌朝。
天城邸の朝食は昨夜とは違い、比較的静かだった。
少なくとも最初の数分は。
「和春くん。昨日のビルの話だが」
「あなた」
天華が味噌汁の椀を置く。剛玄が止まった。
「……なんだ」
「朝食くらい仕事の話はやめなさい」
「まだ何も話していないだろう」
「これから話す顔をしていました」
「顔で分かるものか」
「何年あなたの妻をしていると思っているんです?」
「……」
剛玄が黙った。和春は横で笑う。
「親父さん、完全に尻に敷かれてんな」
「誰がだ!」
「あなたですよ」
天華が即答する。愛華は紅茶を飲みながら小さくため息をついた。
「和春。朝から父を煽らないでください」
「煽ってねぇよ。事実確認しただけ」
「それを煽っていると言うんです」
麗華は黙々と朝食を食べながら思った。
昨日まで、この男が妹の婚約者になることを警戒していたはずなのだ。それが一晩でこれである。
父とも母とも普通に話し、天城家という名前にも一切気圧されない。
あまりにも自然にこの食卓へ混ざっていた。
⸻
朝食を終えると、和春と愛華は帰ることにした。
玄関まで剛玄たちが見送りに来る。
「和春」
「あ?」
「ビルの正式な資料は後日送る。昨日話した七年の件も契約に落とし込むぞ」
「ああ。俺も一回持ち帰って愛華と詰める」
「人員計画も早めにな」
「分かってる。まずそこだな」
「それから――」
「お父様」
愛華が割って入った。
「続きは仕事として正式に打ち合わせしてください。今始めたらまた帰れなくなります」
「む……」
剛玄が明らかに残念そうな顔をする。それを見た麗華が呆れた。
「お父様、和春さんと話したいだけでしょう」
「何を言っている。仕事だ」
「昨日あれだけ話したでしょう?」
「経営の話に終わりなどない」
「はいはい」
「麗華、お前最近父親の扱いが雑になっていないか?」
「昨日からです」
和春が笑った。
「じゃあ親父さん、またな」
「おう。また来い」
「ああ」
愛華はそのやり取りを聞いて、なんとも言えない顔になった。
「……本当に仲良くなりましたね」
「話合うからな」
「私より父と話していた時間の方の長かった気がするんですが?」
「まだ言ってんの?」
「婚約挨拶で放置された女性の気持ちを考えてください」
「悪かったって」
和春が笑いながら車のキーを取り出す。その時、天華が愛華へ声をかけた。
「愛華」
「はい」
振り返った娘に、天華は優しく微笑んだ。
「また二人でいらっしゃい。今度は仕事の話をしない日を決めて」
「それは父と和春にはかなり難しい条件だと思います」
「確かにな」
「和春は黙っていてください」
最後までいつも通りだった。
⸻
天城邸を離れ、自宅兼事務所へ向かう車の中。
愛華は助手席でタブレットを開いていた。もう仕事の顔に戻っている。
「今日の予定ですが、午後から二件電話があります。それと昨日届いた企業案件の資料確認。月初ですので会計関係もあります」
「分かった」
「それから」
愛華が一度画面を止めた。
「新しいBoundary & Mindの準備ですね」
「ああ」
ここからが本番だった。
250億円規模の大型高層ビル。
七年間。
最初の二年間は準備期間。残る五年間で、あのビルを自社で買い取れるだけの会社へ成長させる。
だが、既存の仕事を止めるわけではない。むしろ今まで以上に仕事を取りながら、同時に組織を作っていく必要がある。
「まず人だな」
和春が言った。
「はい。今までのように二人で全部処理するのは不可能です」
「瀬奈もそろそろ本格的に育てるか」
「私もそう思います。ただ、瀬奈さん一人では到底足りません」
「分かってる。採用始めよう」
「新卒だけでは間に合いませんよ?」
「中途も取る。経験者だけに絞る必要もない。頭が柔らかくて、自分で考えられる奴なら育てりゃいい」
「和春が教育するんですか?」
「最初はな」
愛華が即座に睨んだ。
「全部自分で抱え込むのは禁止です」
「まだ何もしてねぇだろ」
「先に言っています。あなたは放っておくとやりますから」
「信用ねぇなぁ」
「実績があります」
反論できなかった。
会社を大きくする。人を増やす。組織を作る。
弁護士事務所や税理士事務所の準備も必要になる。
託児所。道場。企業研修。テナント。
昨日だけでも構想は恐ろしいほど膨らんだ。
当然、一気に全部を始めるわけではない。優先順位を決め、一つずつ形にする。それもまた経営だった。
和春は信号待ちで一度、空を見上げた。
春。
四月。
司法試験に合格してからも、ほとんど何も変わらず仕事ばかりしてきた。
だが今年は違う。
愛華との関係には名前がついた。結婚も認められた。
そしてBoundary & Mindも、二人だけの会社から次の段階へ進もうとしている。
「いい四月になりそうだな」
和春が何気なく言った。
愛華はタブレットから顔を上げる。
「忙しい四月の間違いでは?」
「同じだろ」
「まったく違います」
そう言いながらも、愛華は少し笑っていた。
仕事も。会社も。二人の関係も。
何もかもが同時に動き始める。
この四月は、Boundary & Mindにとって大きな転換点になる。
そして和春と愛華にとっても――新しい人生の始まりだった。


