結婚の話は、遠いどこかへ置き去りにされていた。
昼過ぎ、和春が天城邸を訪れた時、愛華は間違いなく緊張していた。
父に交際を認めてもらえるのか。
結婚を許してもらえるのか。
和春が父を怒らせないか。
特に最後、それが一番心配だった。
だが――
「もう十八時過ぎていますよ……」
愛華が時計を見る。
「本当ね……」
麗華も呆れていた。
昼過ぎに始まった話が、まだ続いている。しかも
「だからそこを単体事業で考える必要ねぇんだよ」
「分かっている。だが人件費を上げるなら、その人材をどう定着させる?」
「金だけじゃ無理だな。給料高くすりゃ人が辞めないなんて簡単な話じゃない」
「ほう」
「人間関係、裁量、評価制度、休み。結局は全部だよ。特に管理職を間違えると、下の人間から一気に腐る」
「ははは! その通りだ!」
まだ経営の話をしている。しかも剛玄が、恐ろしく楽しそうだった。
麗華が父を見る。
「……愛華」
「はい」
「私、お父様があんなに楽しそうに仕事の話をしているところ、見たことないんだけど」
「奇遇ですね」
愛華も父を見る。
「私もです」
天華まで、少し驚いた様子で夫を見ていた。
「私も、あの人が初対面の方とここまで意気投合するとは思いませんでしたね」
「初対面……」
麗華が呟く。
もはや、そうは見えない。
⸻
そのまま、天城邸の夕食の時間になった。
当然のように、和春も食卓へ招かれた。
長いダイニングテーブル。料理人が用意した料理が次々と並ぶ。
さすが天城家。食材も料理も一流。
「うま」
和春が普通に食べる。
「口に合うか?」
「ああ。めちゃくちゃうまい」
「そうか!」
剛玄が上機嫌に笑う。
「飲むか?」
「酒?」
「ああ」
「飲む」
「和春」
愛華が即座に反応した。
「なに?」
「帰りは?」
「代行」
「……まあ、いいでしょう」
すぐに酒まで用意された。
剛玄が和春のグラスへ注ぐ。和春も剛玄へ返す。
「おいおい、自分で注げるぞ」
「こういうのは返すもんだろ」
「ははは! そうか!」
乾杯。
カチン――。
「……」
愛華がその光景を見る。
何でしょう、これは……
今日、自分の結婚の挨拶だったはず。
和春は父に頭を下げた。結婚も認められた。つまり、もう婚約者を名乗っても何もおかしくない。
むしろ、今日は愛華にとって人生でもかなり大きな日――なのだがその婚約者、自分をほったらかして父親と酒を飲んでいる。
「……」
愛華の眉が僅かに動く。
「でな」
和春がグラスを持ちながら続ける。
「俺は銀行から金借りること自体を悪いと思ってない」
「当然だ」
剛玄が頷く。
「借りられるということは信用だからな」
「ああ。ただ借りられるからって限界まで借りるのも馬鹿だけどな」
「その通りだ!」
「手元の金全部突っ込むのも違う。回せる金をわざわざ固定する必要ねぇし」
「はははは!」
剛玄がまた笑った。
「気に入った!」
「何が」
「お前の金の考え方だ!」
「普通だろ」
「普通ではないから言っている!」
麗華の箸が止まる。
「……」
本当に、父の機嫌がいい。異常なくらい。
これまで天城グループへ、数多くの経営者が訪れた。若手の有望株、大企業の社長、政治家、投資家。父が相手を評価する場面は何度も見た。
だが、こんな父親は見見たことがない。
「和春くん」
「あ?」
「お前、銀行はいくつ使うつもりだ?」
「まだ決めてない」
「一行ではないな?」
「当たり前だろ」
「はははは!」
「だから何で笑うんだよ」
「いや、いい!」
「意味分からん」
「飲め!」
「飲んでる」
完全に仲のいい親戚。いや、下手をすると昔から付き合いのある経営仲間。そんな雰囲気だった。
天華が思わず笑う。
「あなた」
「何だ」
「随分、和春さんを気に入ったようですね」
「面白いからな!」
即答。
「普通の若造なら250億と聞いた時点で顔色が変わる」
剛玄が酒を飲む。
「こいつは違う」
「どう使うかを考えた」
和春が肉を食べながら答える。
「使えるもん渡されたら使うだろ」
「そこだ!」
「だから普通だって」
「普通じゃない!」
また二人で笑う。
「……」
愛華が、じーっと和春を見る。
視線に気付かない。
「……和春」
「ん?」
ようやく振り返った。
「なに?」
「楽しそうですね」
「楽しいぞ」
即答。
「…………そうですか」
「親父さん面白いな」
「それは何よりです」
笑顔。だが少しだけ圧がある。
和春がようやく何かを察する。
「……何か怒ってる?」
「別に?」
「怒ってんじゃん」
「怒っていません」
「その言い方は怒ってる時のやつだろ」
麗華が思わず吹き出した。
「あなた、愛華のことは分かるのね」
「そりゃ毎日一緒にいるからな」
「だったら」
愛華が言う。
「少しくらい婚約者の相手もしてください」
「……」
和春が止まる。剛玄も止まる。
「……」
「……」
二人が顔を見合わせた。
そして、和春。
「あ」
剛玄。
「あ」
愛華のこめかみに青筋。
「お二人とも」
笑顔。
「忘れていましたね?」
「いや」
和春が視線を逸らす。
「忘れては――」
「忘れていましたね?」
「……ちょっとだけ」
「和春」
「はい」
麗華が腹を抱えて笑い出した。
「ふっ……あははは!」
天華まで口元を押さえている。
「愛華」
「何ですか、お母様」
「よかったじゃありませんか」
「何がです?」
「お父さんと婚約者が仲良くできるか心配する必要は」
天華は楽しそうに二人を見る。
「どうやら一生なさそうですよ」
「限度があります!」
剛玄が豪快に笑う。
「ははははは! まあいいじゃないか、愛華!」
「よくありません!」
「和春! 飲め!」
「おう」
「和春!!」
「だから今返事しただろ!」
「お父様にではなく私の話を聞いてください!」
また笑い声が上がる。
麗華も、天華も、剛玄も。そして最後には愛華まで、呆れながら笑っていた。
天華はその光景を静かに眺める。
不思議なものだった。
娘が結婚したい男を連れてきた。もっと張り詰めた空気になると思っていた。夫が何か難題を突きつけるとも思っていた。
実際、250億円のビルという、とんでもない話にはなった。
なのに今、目の前にある光景はそれとは正反対。
剛玄と和春が酒を酌み交わし、麗華が笑い、愛華が和春へ毒を吐き、和春が言い返す。
まるで、ずっと前からそこに和春がいたような、そんな食卓。
「……ふふ」
天華が小さく笑った。
今日、娘は婚約者を連れてきた。
けれど、どうやら夫は娘の婚約者より先に、気の合う経営仲間を一人手に入れてしまったらしい。
昼過ぎ、和春が天城邸を訪れた時、愛華は間違いなく緊張していた。
父に交際を認めてもらえるのか。
結婚を許してもらえるのか。
和春が父を怒らせないか。
特に最後、それが一番心配だった。
だが――
「もう十八時過ぎていますよ……」
愛華が時計を見る。
「本当ね……」
麗華も呆れていた。
昼過ぎに始まった話が、まだ続いている。しかも
「だからそこを単体事業で考える必要ねぇんだよ」
「分かっている。だが人件費を上げるなら、その人材をどう定着させる?」
「金だけじゃ無理だな。給料高くすりゃ人が辞めないなんて簡単な話じゃない」
「ほう」
「人間関係、裁量、評価制度、休み。結局は全部だよ。特に管理職を間違えると、下の人間から一気に腐る」
「ははは! その通りだ!」
まだ経営の話をしている。しかも剛玄が、恐ろしく楽しそうだった。
麗華が父を見る。
「……愛華」
「はい」
「私、お父様があんなに楽しそうに仕事の話をしているところ、見たことないんだけど」
「奇遇ですね」
愛華も父を見る。
「私もです」
天華まで、少し驚いた様子で夫を見ていた。
「私も、あの人が初対面の方とここまで意気投合するとは思いませんでしたね」
「初対面……」
麗華が呟く。
もはや、そうは見えない。
⸻
そのまま、天城邸の夕食の時間になった。
当然のように、和春も食卓へ招かれた。
長いダイニングテーブル。料理人が用意した料理が次々と並ぶ。
さすが天城家。食材も料理も一流。
「うま」
和春が普通に食べる。
「口に合うか?」
「ああ。めちゃくちゃうまい」
「そうか!」
剛玄が上機嫌に笑う。
「飲むか?」
「酒?」
「ああ」
「飲む」
「和春」
愛華が即座に反応した。
「なに?」
「帰りは?」
「代行」
「……まあ、いいでしょう」
すぐに酒まで用意された。
剛玄が和春のグラスへ注ぐ。和春も剛玄へ返す。
「おいおい、自分で注げるぞ」
「こういうのは返すもんだろ」
「ははは! そうか!」
乾杯。
カチン――。
「……」
愛華がその光景を見る。
何でしょう、これは……
今日、自分の結婚の挨拶だったはず。
和春は父に頭を下げた。結婚も認められた。つまり、もう婚約者を名乗っても何もおかしくない。
むしろ、今日は愛華にとって人生でもかなり大きな日――なのだがその婚約者、自分をほったらかして父親と酒を飲んでいる。
「……」
愛華の眉が僅かに動く。
「でな」
和春がグラスを持ちながら続ける。
「俺は銀行から金借りること自体を悪いと思ってない」
「当然だ」
剛玄が頷く。
「借りられるということは信用だからな」
「ああ。ただ借りられるからって限界まで借りるのも馬鹿だけどな」
「その通りだ!」
「手元の金全部突っ込むのも違う。回せる金をわざわざ固定する必要ねぇし」
「はははは!」
剛玄がまた笑った。
「気に入った!」
「何が」
「お前の金の考え方だ!」
「普通だろ」
「普通ではないから言っている!」
麗華の箸が止まる。
「……」
本当に、父の機嫌がいい。異常なくらい。
これまで天城グループへ、数多くの経営者が訪れた。若手の有望株、大企業の社長、政治家、投資家。父が相手を評価する場面は何度も見た。
だが、こんな父親は見見たことがない。
「和春くん」
「あ?」
「お前、銀行はいくつ使うつもりだ?」
「まだ決めてない」
「一行ではないな?」
「当たり前だろ」
「はははは!」
「だから何で笑うんだよ」
「いや、いい!」
「意味分からん」
「飲め!」
「飲んでる」
完全に仲のいい親戚。いや、下手をすると昔から付き合いのある経営仲間。そんな雰囲気だった。
天華が思わず笑う。
「あなた」
「何だ」
「随分、和春さんを気に入ったようですね」
「面白いからな!」
即答。
「普通の若造なら250億と聞いた時点で顔色が変わる」
剛玄が酒を飲む。
「こいつは違う」
「どう使うかを考えた」
和春が肉を食べながら答える。
「使えるもん渡されたら使うだろ」
「そこだ!」
「だから普通だって」
「普通じゃない!」
また二人で笑う。
「……」
愛華が、じーっと和春を見る。
視線に気付かない。
「……和春」
「ん?」
ようやく振り返った。
「なに?」
「楽しそうですね」
「楽しいぞ」
即答。
「…………そうですか」
「親父さん面白いな」
「それは何よりです」
笑顔。だが少しだけ圧がある。
和春がようやく何かを察する。
「……何か怒ってる?」
「別に?」
「怒ってんじゃん」
「怒っていません」
「その言い方は怒ってる時のやつだろ」
麗華が思わず吹き出した。
「あなた、愛華のことは分かるのね」
「そりゃ毎日一緒にいるからな」
「だったら」
愛華が言う。
「少しくらい婚約者の相手もしてください」
「……」
和春が止まる。剛玄も止まる。
「……」
「……」
二人が顔を見合わせた。
そして、和春。
「あ」
剛玄。
「あ」
愛華のこめかみに青筋。
「お二人とも」
笑顔。
「忘れていましたね?」
「いや」
和春が視線を逸らす。
「忘れては――」
「忘れていましたね?」
「……ちょっとだけ」
「和春」
「はい」
麗華が腹を抱えて笑い出した。
「ふっ……あははは!」
天華まで口元を押さえている。
「愛華」
「何ですか、お母様」
「よかったじゃありませんか」
「何がです?」
「お父さんと婚約者が仲良くできるか心配する必要は」
天華は楽しそうに二人を見る。
「どうやら一生なさそうですよ」
「限度があります!」
剛玄が豪快に笑う。
「ははははは! まあいいじゃないか、愛華!」
「よくありません!」
「和春! 飲め!」
「おう」
「和春!!」
「だから今返事しただろ!」
「お父様にではなく私の話を聞いてください!」
また笑い声が上がる。
麗華も、天華も、剛玄も。そして最後には愛華まで、呆れながら笑っていた。
天華はその光景を静かに眺める。
不思議なものだった。
娘が結婚したい男を連れてきた。もっと張り詰めた空気になると思っていた。夫が何か難題を突きつけるとも思っていた。
実際、250億円のビルという、とんでもない話にはなった。
なのに今、目の前にある光景はそれとは正反対。
剛玄と和春が酒を酌み交わし、麗華が笑い、愛華が和春へ毒を吐き、和春が言い返す。
まるで、ずっと前からそこに和春がいたような、そんな食卓。
「……ふふ」
天華が小さく笑った。
今日、娘は婚約者を連れてきた。
けれど、どうやら夫は娘の婚約者より先に、気の合う経営仲間を一人手に入れてしまったらしい。


