Boundary & Mind     心の境界線

既に、結婚の挨拶という空気は完全に消滅していた。

テーブルの上には、大型ビルの図面、収支資料、設備資料、そして愛華が途中からまとめ始めた大量のメモ。

剛玄は久しぶりに、心の底から上機嫌だった。

「五年か」

「ああ」

和春が答える。

「五年でBoundary & Mindをそこまで持っていく。それでビルを買い取る」

剛玄は腕を組んだ。そして、少し考える。

「いや」

「?」

「七年やる」

和春の眉が僅かに動く。愛華も父を見る。

「七年?」

「ああ」

剛玄が図面を指で叩く。

「最初の二年は準備期間だ。これだけの規模だ。人材、設備、許認可、テナント、各事業の立ち上げ……全部を整えるだけでも時間がかかる。準備もできていない状態から五年を数えるのは面白くない」

和春が黙って聞く。

「二年やる」

剛玄が言った。

「その二年間で、このビルを本格稼働できる状態まで持っていけ」

排し、指を二本、さらに五本。

「そして五年後」

剛玄が笑う。

「買い取ってもらう。どうだ?」

少しだけ、わざとらしく付け加えた。

「和春君?」

「……」

和春は数秒、剛玄を見る。そして、笑った。

「おいおい」

「何だ」

「いいのかよ?」

「何がだ?」

和春は資料を軽く叩く。

「その計算だと、そっち赤字だぞ?」

「……」

麗華が父を見る。愛華も計算を始める。天華は夫の表情を見ていた。

だが、剛玄は豪快に笑った。

「ははははは! 構わん」

「いやいや、二年プラスだぞ?」

「ああ」

「普通に貸した方が儲かるだろ」

「そうだな」

「なら何で――」

そこで、和春が止まった。

「……」

何かに気付いた。

剛玄の表情。二年間の準備、五年間の運営。合計七年。
Boundary & Mind、弁護士、税務、会計、保育、道場、研修、テナント、人材、企業、そして天城グループ。

「……あー」

和春が頭を掻いた。

「なるほどな」

剛玄の口元が上がる。

「気付いたか」

「ああ。だから二年か」

「そういうことだ」

「…………?」

愛華が二人を見る。麗華も眉を寄せる。天華ですら少し考えている。

「何ですか?」

愛華が聞く。和春と剛玄、二人だけ完全に話が通じている。

「お父様、何を考えているんです?」

「さあな」

剛玄はわざと答えない。麗華が和春を見る。

「あなたは?」

「分かった」

「だから何が!?」

「なるほどって感じ」

「説明しなさい!」

和春は少し笑った。剛玄が続ける。

「なあに、二年も余分にくれてやるんだ。こちらにもそれなりに利益が出る方法がある。心配するな」

麗華がますます怪しむ。

「何よそれ……お父様が自分から二年間も無料で遊ばせるわけがないでしょう」

「人聞きが悪いな」

「事実でしょう」

「まあな」

剛玄は悪びれもしない。
和春は既に次のことを考えていた。

「だったら……」

資料をめくる。

「弁護士事務所と税理士事務所。この二つ、代表は俺がやった方がいいな」

「…………」

麗華が止まる。愛華も和春を見る。

「和春」

「何」

「今、さらっととんでもないこと言いませんでした?」
「そう?」

「そうです」

麗華が恐る恐る聞く。

「あなた……まさかとは思うけど、税理士資格まで持ってるの?」

「俺、公認会計士の資格あるからな。税理士は登録するだけでいい。ついでに司法試験も通ってるから弁護士登録も済ませる」

「…………」

麗華が額を押さえた。

「本当に何なのよ、あなた……」

「和春です」

「名前を聞いているんじゃないわよ!」

剛玄がまた笑う。

「ははははは!」

実に楽しそうだった。

「話が分かるな」

和春を見る。

「その方が早い」

「ああ。Boundary & Mind、弁護士事務所、税理士事務所」

和春が三つを並べる。

「中心を俺が押さえる。ただし」

愛華がすぐに口を挟んだ。

「和春」

「何」

「あなた一人で実務まで全部やるのは禁止です」

「……」

「今でも仕事量がおかしいんです」

「分かってるよ」

「本当ですか?」

「代表やるだけ。人は雇う」

「……絶対ですよ?」

「はいはい」

「返事が軽いです」

剛玄はそんな二人を見ながらまた笑っていた。
そして、麗華はまだ引っかかっていた。

「でも結局、二年増やすことで天城側に何の利益があるの?」

「……」

愛華もそこが完全には見えていない。天華も夫を見る。
だが、剛玄は答えない。和春も答えない。
ただ、二人とも同じように笑っている。

「……」

愛華が嫌そうな顔をした。

「姉さん」

「何?」

「私、この顔知っています」

「奇遇ね」

麗華も父と和春を見る。

「私もよ」

二人とも何かろくでもないことを思いついている。それだけは間違いなかった。

剛玄が和春へ手を差し出す。

「七年。最初の二年で準備、残り五年で結果を出せ」

和春はその手を見る。そして迷うことなく握った。

「ああ。やってやるよ」

剛玄の笑みが深くなる。

「楽しみにしているぞ」

和春も同じように笑う。

「五年後、売りたくなくなっても知らねぇぞ?」

「言うじゃないか」

「そっちこそ値上げすんなよ?」

「ははははは!」

天城剛玄、神代和春。

年齢も立場も会社の規模もまるで違う。だがこの瞬間、二人の間には妙な経営者同士の信頼が生まれ始めていた。

そして、愛華はふと思う。

今日、自分は恋人を父親に紹介した――はずだった。
なのにいつの間にか父親と恋人が握手を交わし、七年後、250億円規模のビルを買い取るという、とんでもない約束が成立している。

「……」

愛華はまた胃の辺りを押さえた。
天華がそんな娘を見て、優しく笑う。

「愛華」

「はい」

「大変な人を選びましたね」

「……」

愛華は父と和春を見る。

「本当に」

深いため息。

「今更ながら、そう思います」