それから、結婚の話はどこかへ消えた。
本当に、綺麗さっぱり消えた。
「一階から三階はどうする」
「全部自社で埋める必要ないだろ」
「ほう」
「むしろ外部入れた方がいい」
「例えば?」
和春がビルの図面を広げる。
「弁護士事務所」
剛玄の目が細くなる。
「それから税理士、会計事務所」
「なるほどな」
「Boundary & Mindと相性がいい」
和春は図面へ指を置く。
「企業相談や個人相談やってりゃ、法務や税務が必要になる案件なんていくらでも出る」
「逆もある」
剛玄がすぐに返す。
「弁護士や税理士の顧客から、経営相談が発生する」
「そういうこと。同じ建物なら紹介導線が短い。顧客も移動しなくて済む」
「それだけではないな」
「ああ。専門家同士の連携も早い」
会話が異常に速い。
愛華、麗華、天華の三人とも、当然話の意味は分かっている。全員が天城の人間であり、経営の話には慣れている。だが、問題はそこではない。
「……」
麗華が黙って二人を見る。
一つの案が出る。そこから別の収益構造、人材、顧客導線、リスク、法律、税務、そして次の事業へ。話が勝手に枝分かれしていく。しかも二人とも、ほとんど止まらない。
和春が次のページを見る。
「あと託児所」
天華が反応した。
「託児所?」
「ああ」
剛玄もすぐに意味を考える。
「企業内保育か」
「それだけじゃもったいない」
和春が言う。
「Boundary & Mindの社員、ビル内で働く人間、提携企業、それに地域。利用枠を分ける」
麗華が口を挟む。
「待って。それならかなりの規模が必要よ」
「ああ」
「保育士も相当数必要になるわ」
「雇えばいい」
「簡単に言うけど……」
「給料高くする」
「……」
麗華が止まる。
「高く?」
「ああ」
和春は当たり前のように言った。
「保育士の給料、周辺相場より高めに設定する」
「……それでは利益率が落ちるでしょう」
愛華が言う。
「託児所単体で見ればな」
「……」
愛華がすぐに気付いた。
「ああ……」
和春が笑う。
「分かった?」
「はい」
麗華が妹を見る。
「何?」
愛華が説明する。
「託児所単体を、一つの独立した利益事業として見ていないんです。福利厚生です」
剛玄がニヤッと笑った。
「そういうことだ」
和春が続ける。
「会社に優秀な人材が来る。でも子供がいるからフルタイムで働けない。預ける場所がない、保育料が高い、送迎に時間がかかる。それで能力ある奴が働けないなんて、普通に損だろ」
天華が静かに頷く。
「特に女性には大きな問題ですね」
「男も同じだ」
和春が即座に返す。
「今は共働きなんて普通だ。父親側が送り迎えしてる家庭だってある。なら、会社の中に預ける場所を作ればいい」
麗華が考え始める。
「通勤と送迎が一度で済む……」
「ああ」
「急な発熱にも対応しやすいわね」
「ああ」
「産休、育休からの復帰率も……」
「上がる」
剛玄が続けた。
「離職率も下がる。採用力も上がる」
和春が笑う。
「そこ。だから保育士の給料を高くしても、託児所だけの収支で考える必要がない。社員が一人辞めたら」
和春が指を一本立てる。
「採用、教育、引き継ぎ、戦力になるまでの時間。どんだけコストが吹っ飛ぶと思ってんだ」
剛玄が上機嫌に頷く。
「人材流出を防ぐための費用と考えれば安い」
「ああ。しかも保育士側の離職も減らせる。高待遇なら採用もしやすいし、質の高い人材も集めやすい」
愛華が補足する。
「保育環境の質が上がれば、福利厚生そのものの価値も上がります」
「そう」
和春が愛華を見る。
「さらに地域枠」
麗華が言う。
「外部利用者からは通常料金を取るの?」
「そうする。社員と同じ料金にする理由はない。ただし高くしすぎない。稼働率を安定させる方を優先する」
剛玄が完全に楽しんでいる。
「面白い」
「だろ」
愛華はその二人を見ながらふと思った。
――今日、何をしに来たんでしたっけ。
確か、結婚の挨拶だったはず。
だが今、父と恋人は保育士の待遇改善について本気で事業計画を作り始めている。
「あと」
和春が突然言った。
「道場」
「…………」
麗華が瞬きをする。
「道場?」
「ああ」
「なぜ?」
「体を動かした方がいいだろ」
「理由が急に雑になったわね」
「大事だぞ」
和春は図面を見る。
「うちの実家が道場だからノウハウもある。社員の福利厚生で使えるようにするんだ。合気道だけじゃなくていい。運動教室、護身術、子供向け、高齢者向け。外部会員も取れる」
剛玄がすぐ乗る。
「託児所とも繋げられるな」
「ああ。子供向け教室。親が仕事してる間に運動まで終わる」
天華が笑う。
「それは親御さんには助かりますね」
「だろ」
和春はさらに続ける。
「社員向けなら運動不足解消、ストレス対策、健康管理。企業側の福利厚生だ。外部には普通に月謝を取る」
麗華を図面を見る。何かに気付いた。
「待ちなさい。あなた……一つの設備に、いくつ機能を持たせるつもり?」
「使えるだけ」
即答。
「……」
剛玄が大笑いした。
「ははははは!」
「そうだ! 巨大なビルを一つの会社だけで使おうとするから維持できん!」
「そういうこと」
和春も完全に乗っている。
「一個の会社で全部背負う必要ないんだよ。内部に、それぞれ独立して利益を出す事業を入れる。でも全部がBoundary & Mindを中心に繋がる」
和春が図面の中央を指す。
「メインはBoundary & Mind。コンサル会社」
そこは変えない。だが周囲に弁護士、税理士、会計、託児所、道場。さらに会議室、研修施設、相談スペース、外部企業が利用できるフロア。一つ、また一つと案が増えていく。
しかも、ただの思いつきではない。
「この規模なら貸会議室もできる」
「研修会場もな。セミナーもできる」
「企業向けの研修事業と繋げる」
「一部テナントにすれば固定収入も入るな」
「飲食は?」
「いる。社員食堂だけでは弱いから一般客も使える形にする。周辺需要を調べる必要があるな」
「あとでやる。医療は?」
「診療所まで入れるなら法的な整理がいる。だが健康管理と福利厚生には強い。候補には入れとく」
止まらない。本当に止まらない。
愛華も途中からノートを取り始めていた。麗華も気付けば収益性について意見を出している。天華まで利用者目線からいくつか案を加えていた。
結局、天城家は全員が経営者一族。話が始まれば参加してしまう。
だが、中心にいる二人――剛玄、そして和春。この二人だけ発想の速度がおかしい。
一つの問題を、問題として処理しない。別の問題と繋げ、一つの仕組みに変える。
保育士の給料が安い。なら高くする。普通ならそこで「採算が合わない」という問題が出る。だが和春は託児所単体で利益を出そうとしない。
高待遇で優秀な保育士を確保し、保育の質を上げる。社員の福利厚生を強化し、採用力を上げ、離職を減らし、産休・育休後の復職を促す。外部利用で一定の売上も作る。
さらに道場、教育、企業研修、周辺事業へ利用者を繋げていく。一つの支出を、複数の場所で利益へ変える。
麗華が呆れたように言った。
「……理想論なら簡単なのよ」
「ああ」
和春が答える。
「でも」
麗華は図面を見る。
「これ……本当に実現できたら……」
剛玄が続きを言った。
「想定していた以上に利益が出る」
「そうなる」
和春は平然としている。
「ただ、最初は金食うぞ」
剛玄が笑う。
「当然だ」
「人材も大量に必要」
「ああ」
「制度設計も必要」
「当然。五年で買い取るなら」
剛玄の目が鋭くなる。
「相当な速度で成長させなければならん」
和春も笑った。
「だから面白いんだろ」
「……」
愛華がその顔を見る。
ああ、ダメだ。完全に火がついている。
この男、やる気だ。本気でBoundary & Mindを次の段階へ進めるつもりだ。
そして剛玄も完全に楽しんでいる。
「……お母様」
麗華が小さな声で言った。
「何?」
「今日、結婚の挨拶でしたよね?」
「ええ」
天華が紅茶を飲みながら微笑む。
「そのはずだったわね」
「……」
愛華が深いため息をついた。
数時間前、自分は父親に結婚を認めてもらえるかどうかで胃を痛めていた。今、目の前では父親と恋人が、何十億円規模のビルを使った新しいBoundary & Mindの構想を嬉々として語っている。
「……和春」
「ん?」
「一つだけ確認していいですか」
「何」
「私達……」
愛華は少しだけ頬を赤くする。
「結婚の話をしに来たんですよね?」
「……」
和春が数秒止まる。
「あ」
「忘れてたんですか!?」
剛玄の豪快な笑い声が天城邸に響いた。

