Boundary & Mind     心の境界線

しばらく和春を見ていた剛玄が、ゆっくりと口を開いた。

「いいだろう」

「……」

愛華が父を見る。

「愛華との結婚」

剛玄は、はっきりと言った。

「認めてやる」

「……!」

愛華の表情が一気に緩んだ。麗華も小さく息を吐く。天華は最初から分かっていたかのように微笑んでいた。

「ただし」

愛華の表情が一瞬で戻った。

「……」

来た。やっぱり、普通に終わるわけがなかった。
剛玄が横に置いてあった分厚いファイルを手に取る。そして何の説明もなく、和春の前へバサッ――!と投げるように置いた。

「これをお前にやる」

「……?」

「受け取れ」

和春がファイルを見る。麗華も何気なく表紙を見る。そして、

「…………え?」

固まった。管理番号、物件名、見覚えがある。

「お父様」

剛玄は答えない。和春が普通にファイルを開く。一方、麗華は完全に目を見開いていた。

「ちょっと待ってください!」

愛華が姉を見る。

「姉さん?」

「そのビル……!」

麗華が信じられない顔で父を見る。

「本気ですか!?」

「本気だ」

「何を考えているんですか!」

麗華は珍しく声を荒らげる。

「内装から外装まで大規模改修したばかりでしょう!?」

「ああ」

「土地も含めたら一体いくらになると思っているんです!」

「知っている」

「250億ですよ!?」

愛華もさすがに目を見開いた。

「……250億?」

麗華が頷く。

「規模だけなら本社にもほとんど負けないわ」
「……」

「そもそも個人が簡単に維持できるような物件じゃない!」

愛華が和春を見る。だが、和春は普通に資料を読んでいた。

ページをめくる。土地、延床面積、構造、設備、改修履歴、固定費、管理、周辺環境。

「……へぇ」

それだけ。麗華が信じられないものを見るように和春を見る。

「あなた……」

和春が顔を上げた。

「ちょうどいいな」

「…………は?」

「そろそろ会社、大きくしていくつもりだったんだ」

「…………」

今度は麗華だけではない。愛華まで和春を見る。

「和春?」

「何」

「私、その話」

愛華が非常にゆっくりと言う。

「初耳なんですが」

「今決めた」

「今!?」

和春はもう一度、ビルの図面を見る。

「これだけデカいなら、いろいろできそうだな」

あまりにも平然。まるで少し広めの事務所でも紹介されたような反応。

麗華が思わず言う。

「待ちなさい」

「何」

「維持費」

「ああ」

「分かってる?」

「当然」

「年間いくらになると思ってるの?」

「ざっくり資料見れば分かる」

「なら――」

「今のBoundary & Mindじゃ維持できない」

即答。麗華が止まる。

和春は理解していた。当然だ、分からないはずがない。
固定資産税、保険、設備保守、警備、清掃、光熱、修繕、人件費。これだけ巨大な建物、所有するだけで金が消えていく。

今のBoundary & Mindは、和春と愛華の二人を中心に動いている会社で、まともに抱えれば完全なオーバースペック。なら、普通は断る。

だが、和春は違った。

「でも」

剛玄を見る。

「このビル、俺にくれるって話なんだろ?」

「ああ」

「ならもらう。……と言いたいところだけどな」

和春は資料を軽く叩いた。

「これ、今そのまま俺に所有権移したらどうなるか分かってんのか?」

麗華が眉をひそめる。

「どうなるって……250億の資産じゃない」

「資産以前の問題だ。今そのまま譲渡されたら、不動産取得税に登録免許税、天城側の譲渡益に関する税金で、手続きするだけで無駄な金が何十億と吹っ飛ぶ」

「……!」

麗華が息を呑む。

「さらに所有権を持った時点で、固定資産税や維持保守費用が毎期固定費として重くのしかかる。今Boundary & Mindの規模でそんなもん抱え込んだら、事業投資に回すキャッシュが消えて即死だ。譲渡に払う税金も、所有して払う固定費も、全部ただの無駄金だろ」

平然と言ってのける和春に、剛玄の目が僅かに細くなった。

和春は資料を机へ置く。

「だから提案だ」

「……ほう?」

「その『譲渡で消えるはずだった無駄な金』と『5年間の固定費』。それを相殺する形で、このビルを俺に5年間貸せ。賃料に充てろ」

「……」

麗華が黙った。剛玄も何も言わない。和春は淡々と続ける。

「所有権は天城側に残したままにすりゃ、無駄な税金も手数料も発生しない。天城側も固定資産の有効活用になる。俺は5年間、固定費を極限まで浮かせてこのビルを使い倒し、Boundary & Mindを育てる。それで5年後」

和春は真っ直ぐ剛玄を見据えた。

「俺がこのビルを250億で買い取る」

「…………」

愛華の紅い瞳が大きくなる。

「買い取る……?」

「ああ」

250億、そんな規模のビルを5年後、自分の会社で買う。和春はそう言っている。

麗華が呆然とする。

「あなた……」

「何」

「意味分かって言ってる?」

「分かってる」

「250億よ」

「知ってる」

「5年後にそれを買える会社にするって言ってるの?」

「ああ」


一切、迷わない。

剛玄は黙っている。だが内心、笑いを堪えるのに必死だった。

面白い。やはり、面白い。
普通ならこんな物件を出された時点で、受け取るか断るかのどちらかを考える。だが、こいつは条件そのものを変えた。

今、所有すれば重荷になる。なら所有しない。だが使う。巨大な経営資源として最大限利用する。しかも無駄な税金も固定費も浮かせた状態で。そして、その資産に自分の会社が追いついた時、買う。
剛玄にあえて聞いた。

「神代和春、一つ確認する」

「ああ」

剛玄が愛華を見る。画面を戻し、和春へ視線を戻す。

「お前、今日何をしに来た?」

「愛華との結婚の許可もらいに来た」

「そうだな」

剛玄の声が少し低くなる。

「その場で、会社を大きくすると言い出した」

「そうだな」

「普通は逆だ」

「……」

「結婚する、家庭を持つ。なら、会社を安定させる、収入を安定させる、危険を減らす。それから結婚。それが普通だ」

剛玄は和春を見据える。

「お前は今、愛華と結婚したいと言った直後に」

机の上、巨大ビルの資料を指で叩く。

「会社を拡大する。5年でここを買える規模まで持っていく、そう言った」

「ああ」

「失敗したら?」

剛玄が問う。

「会社が潰れるかもしれんぞ」

「そうだな」

「愛華も巻き込む」

「ああ」

愛華は黙って和春を見る。剛玄の目が鋭くなる。

「それでも、結婚するのか?」

和春は一瞬も考えなかった。

「するよ」

「……」

「結婚って」

和春は当たり前のように言う。

「完成した人生に愛華を入れることじゃねぇだろ」

愛華の目が僅かに揺れる。

「俺はこれからも仕事する。失敗もするかもしれない。会社だって変わる。金が増える時も減る時もある。愛華だってそうだろ」

そして隣を見る。

「こいつも、俺の完成品についてくる女じゃない」
「……」

愛華が和春を見る。

「一緒に作ってく相方だ」

「……和春」

「だったら」

和春は剛玄へ視線を戻す。

「会社が完成してから結婚する理由が分からん。二人ででかくすりゃいいだろ」

静寂。

麗華は何も言えなかった。愛華も、ただ和春を見ている。

この男は、愛華を守るために自分の後ろへ置こうとはしていない。最初から隣。失敗する可能性まで含めて、同じ未来を作る人間として見ている。

探り合うような静寂の中、天華が静かに笑った。
「あなた」

剛玄を見る。

「嬉しそうですね」

「……」

「顔に出ていますよ」

「出ておらん」

「出ています」

「……」

剛玄は数秒黙る。そして、とうとう、

「くっ……」

耐えられなかった。


「はははははは!!」

大笑い。麗華が呆れた顔で父を見る。

「お父様……」

剛玄は実に愉快そうだった。期待以上。
250億という資産を突然目の前へ出した。欲に飛びつくか、重さに怯えて断るか、それとも無謀に受け取るか。そのどれでもない。

こいつは巨大なビルを見て――ちょうどいい、そう言った。そして、自分が負担できる形へ瞬時に条件を組み替え、5年後、自分の力で買うと言った。
何より、結婚するから守りへ入る、そんな発想すらない。

剛玄は和春を見る。

「5年か」

「ああ」

「面白い」

魔王のような笑み。

「その話、詳しく聞かせてもらおうじゃないか」

和春も笑った。

「いいぞ」

愛華だけが二人を見る。

「……」

今日、父親へ結婚の挨拶に来た。そのはずだった。なのに、なぜ数十分後には250億円規模のビルを使ったBoundary & Mindの事業拡大計画が始まろうとしているのだろう。

「……」

愛華は静かに額へ手を当てた。

「本当に……この二人を会わせるべきではありませんでしたね」

その隣、麗華も珍しく完全に同意していた。