Boundary & Mind     心の境界線

重圧が漂う応接室のなか、剛玄が静かにカップを置いた。

「それで」

剛玄が和春を見る。

「今日は私に話があるそうだな」
「ああ」

和春が答える。

愛華の背筋が僅かに伸びた。麗華も黙って見守る。天華は柔らかな表情のまま、和春を見ていた。

和春は一度、隣に座る愛華を見る。そして、剛玄へ向き直った。

「俺は」

いつもの口調。いつもの声。だが、ふざけてはいない。

「愛華と結婚したいと思ってる」

愛華の紅い瞳が僅かに揺れる。

「まだ付き合い始めたばっかだけど。遊びで付き合うつもりは最初からない。この先も、愛華と一緒に生きていきたいと思ってる」

和春は真っ直ぐ剛玄を見る。

「だから」

そして姿勢を正した。深く頭を下げる。

「俺と愛華を、結婚させてほしい」

静寂。

麗華は少しだけ目を見開いていた。頭を下げた、あの和春が。父にきちんと筋を通すために。

ただし、「結婚させてください」ではない。最後までタメ口。

麗華はなんとも言えない顔になった。

(そこまでやるなら敬語くらい使いなさいよ……)

あまりにもチグハグ。

だが、和春にとっては何も矛盾していない。敬語を使わない、それが普段の自分。だが、愛華の父親へ結婚の許可を求める筋はきちんと通す。相手が誰であろうと自分の態度を変えない。そして、必要なら頭も下げる。それだけだった。

剛玄が黙って和春を見る。そして、

「くっ……」

突然、笑った。

「ははははは!」

愛華が父を見る。

「お父様?」

「いや」

剛玄は実に愉快そうだった。

「面白い」

こんな若造、今までほとんどいなかった。
天城剛玄。巨大企業グループの社長。政財界にも太い人脈を持つ。大企業の経営者ですら、剛玄の前では言葉を選ぶ、機嫌を読む。まして、娘との結婚の許可を求める若い男。普通なら緊張して当然。声が震える、表情が硬くなる、少しでも良く見せようとする。


だが、神代和春。こいつにはそれがない。
媚びない、怯えない。かといって、礼を欠くつもりもない。必要なら躊躇なく頭を下げる。そして頭を上げれば、またいつもの顔。

「……神代和春」

「ん?」

剛玄の笑みがさらに深くなる。

「俺の娘がほしい、そう言ったな」

「ああ」

「なら聞こう」

剛玄の空気が僅かに変わる。

「なぜだ?」

和春が剛玄を見る。

「何が」

「なぜ愛華がほしい」

愛華が父を見る。剛玄は娘を見ない。和春だけを見ている。

「容姿か?」

「……」

「確かに愛華は美しい。そこらの女と比べるまでもない。頭も切れる。経営、会計、交渉、人を見る目……どれを取っても優秀だ」

剛玄は和春の目を見る。

「だからか?」

和春は答えない。剛玄は続ける。

「それとも、いい女を抱きたいという男の欲か?」

「お父様!」

麗華が思わず声を出す。愛華も僅かに頬が引きつる。

「お父様……」

だが剛玄は止めない。

「男ならあるだろう。綺麗な女を自分のものにしたい、他の男に渡したくない、そういう欲がな」

和春はまだ何も言わない。ただ聞いている。

「だが」

剛玄は言う。

「それなら愛華である必要はない。お前ほどの男なら、女くらい寄ってくるだろう。容姿のいい女、頭のいい女、お前を支えられる女……探せば他にもいる」

愛華は黙っている。剛玄が何を聞こうとしているのか分かってきた。

「それとも」

剛玄の目が少し鋭くなる。

「天城か?」

「……」

「天城グループ。財力、人脈、社会的信用。愛華と結婚すれば、将来的にお前が得られるものは決して少なくない」

麗華も和春を見る。普通なら腹を立ててもおかしくない。疑われている。金目当て、身体目当て、能力目当て。

だが、和春は怒らない。

「金か? 地位か? 愛華の能力か? 容姿か? 身体か? それとも……天城という名前か?」

一つ、また一つ理由を並べる。そして最後、剛玄は真正面から聞いた。

「何故、愛華なんだ?」

静かになった。愛華も和春を見る。少しだけ怖かった。和春は何と答えるのだろう。

心理学、価値観、人生観、相性……いくらでもこの男なら理論的に説明できる。何十分でも、何時間でも話せるだろう。

だが、和春は少し不思議そうな顔をした。そして言った。

「愛華が愛華だから」

剛玄の眉が僅かに動く。

「それだけか?」

「ああ」

和春は迷わない。

「愛華だから一緒にいたい。それに理由がいるか?」

愛華の目が少し大きくなる。和春は続ける。

「顔が綺麗だから好きになった、頭がいいから好きになった、仕事ができるから好きになった……身体がどうとか金がどうとか、そんなもん」

和春は肩をすくめる。

「全部あとから理由にできるだけだろ」

剛玄が黙って聞く。

「愛華が明日、今より仕事できなくなったら? 一緒にいる。天城が金なくしたら? 関係ない。顔に傷が残ったら? それで愛華じゃなくなるのか?」

「……」

「ならないだろ」

愛華が何も言えなくなる。

「俺が一緒にいたいのは、条件じゃない」

和春は隣の愛華を見る。

「こいつ」

愛華の紅い瞳が和春と重なる。そして、和春は再び剛玄を見る。

「あんたさ」

「……何だ」

「天華さんと結婚した時」

天華が少し目を丸くする。麗華が嫌な予感。愛華も同じく。和春は平然と続ける。

「何か価値がないと一緒にならなかったのか?」

「……」

「顔がいいから? 頭がいいから? 家柄がいいから? 金になるから? それが全部なくなったら、あんたは天華さんと一緒にいないのか?」

「……」

剛玄が黙る。和春は真っ直ぐ言った。

「違うだろ?」

応接室、完全な静寂。
麗華はもはや何も言えない。愛華も父の反応を見る。そして天華だけが、

「……ふふ」

小さく笑った。剛玄が妻を見る。

「何がおかしい」

「いえ」

天華は嬉しそうだった。

「随分久しぶりに、あなたがそんな質問をされているところを見ましたので」

「……」

「それで?」

天華が少し意地悪く笑う。

「私は何か価値があったから選ばれたんですか?」

「天華」

「答えてくださいな」

今度は剛玄が妻から問い詰められる側になった。麗華が僅かに顔を逸らす。笑いを堪えている。愛華も口元を押さえた。

剛玄はしばらく黙っていたが、やがて、

「……くく」

また笑い始めた。

「ははははは!」

そして和春を見る。

面白い。やはり、この男は面白い。
普通なら自分を納得させるため、必死に愛華の魅力を並べる。どれだけ愛しているか綺麗な言葉を重ねる。
だが、こいつは全部捨てた。

――愛華が愛華だから。

それだけ。そしてあろうことか、質問した自分へ同じ問いを返してきた。

剛玄は楽しそうに椅子へ深く腰掛ける。

「なるほどな」

その目は先ほどより明らかに和春を気に入っていた。
だが、まだ終わりではない。むしろ剛玄にとって、ここからが本番だった。