Boundary & Mind     心の境界線

後日、天城邸。

「……」

和春は目の前に広がる建物を見上げた。

大きい。そんな一言では少し足りない。

広大な敷地。長い塀。巨大な門。

門から母屋までですらそれなりの距離がある。

綺麗に整えられた庭園。

離れ。車庫。来客用のスペース。

一目見ただけで普通の住宅ではないことが分かる。

天城グループ社長。天城剛玄の邸宅。

当然と言えば当然だった。普通の男ならこの時点で気圧されてもおかしくない。

今日ここへ来た目的はただの挨拶ではない。

娘さんと結婚を前提にお付き合いさせていただいています。その報告。そして将来的には娘さんをください。

そう伝えるための訪問。

ただでさえ恋人の父親への挨拶など緊張する。

まして相手は巨大企業グループを率いる男。

その家がこれである。

「……」

愛華が隣を見る。

「和春」

「ん?」

「何とも思わないんですか?」

「何が?」

「家です」

和春がもう一度見る。

「デカいな」

「……それだけ?」

「庭の管理大変そう」

「感想が庶民なんですよ」

「俺、庶民だし」

「あなたを庶民に分類していいのか最近分からなくなっています」

和春はいつも通りだった。

緊張なし。表情いつも通り。

服装こそさすがに今日は整えている。

だが中身は普段の神代和春。

何一つ変わっていない。むしろ愛華の方が既に疲れているように見えた。

「お前大丈夫?」

「誰のせいだと思っているんですか。」

「俺?」

「あなたと父です!」

「まだ会ってもないじゃん」

「だから嫌なんです」

愛華には分かっている。

父、天城剛玄。

絶対に何か考えている。

あの電話の最後、あの笑い方。

間違いない。そしてもう一つ愛華を疲れさせる原因は隣にいる男。

この男が父を相手に何を言い出すのか予測できない。

普段なら和春の思考をかなり先まで読める愛華でも、今日は少し自信がなかった。

⸻

屋敷へ近づいていく途中。

正面から一人の女性が歩いてきた。

赤い髪。紅い瞳。隙のない服装。天城麗華。

「愛華」

「姉さん。」

そして麗華の視線が和春へ向く。

「……」

「よ!」

「…………」

麗華が止まる。

「なんだよ?」

「いえ‥‥」

麗華は少し呆れていた。

本当に普通、ここ天城邸なのだが、これから天城グループ社長へ娘との結婚を前提とした交際の挨拶をする。

その男が近所の知り合いの家へでも来たような顔をしている。

「神代和春」

「なんだよ?」

「あなた……緊張してないの?」

「別に」

「別に?」

「ああ」

麗華が愛華を見る。

愛華は疲れた顔で小さく首を振った。

――私にも理解できません。

そんな顔だった。

麗華は一つだけ。

どうしても確認しておきたいことがあった。

「神代さん‥‥いえ‥和春さん」

「ん?」

麗華がかなり真剣な顔になる。

「お願いがあります」

「何」

「お父様には‥‥」

一拍。

「敬語で話して」

「……」

愛華が目を閉じた。

その問題やはり来た。

麗華は続ける。

「本当にお願い」

「お父様の機嫌を損ねたら、たまったものじゃないの」

「…………」

和春が不思議そうな顔をした。

そして麗華に嫌な予感。

「俺は俺のままだぞ?」

「…………」

「…………」

麗華と愛華、姉妹揃って沈黙。

「和春」

愛華が低い声で呼ぶ。

「なんだよ?」

「せめて今日くらい」

「嫌だよ」

即答。

「なんで俺が結婚するために、俺じゃなくならなきゃいけないんだよ」

「……」

麗華が額を押さえた。

「そういう話じゃないの……」

「俺が愛華と付き合ってんのも結婚したいと思ってんのも」

和春は普通に言う。

「俺だろ?だったら俺のまま挨拶する」

「……」

麗華は言い返そうとして。

やめた。理屈としては分からなくもない。

だが相手は父、天城剛玄。

「……愛華」

「はい」

「あなたよくこの人と毎日仕事できるわね」

「慣れました」

「私は無理」

「私も最初はそう思っていました」

和春が二人を見る。

「聞こえてんぞ」

「聞かせています」

姉妹同時だった。

⸻

屋敷の中へ入る。

そこからも規模がおかしかった。

広い玄関。高い天井。長い廊下。調度品。絵画。

美術品。だが、ただ金をかけただけではない。

全体として品よくまとめられている。使用人も一人や二人ではない。

メイド。

執事。

料理人。

庭師。

清掃。

その他、邸宅そのものを維持するため。

多くの人間が働いている。

「……」

和春が何気なく周囲を見る。

「どうしました?」

愛華が聞く。

「いやこれだけ広いと固定費エグそうだなって」

「今考えることですか?」

「見たら気になるだろ」

「なりません」

「俺はなる」

麗華が後ろでため息をつく。

本当に気圧されるという感覚がこの男にはないらしい。

⸻

そして応接室。

大きな扉が開く。

中には既に二人が待っていた。

天城剛玄。天城グループ社長。

そしてその妻、天城天華。

愛華と麗華の母。上品で柔らかな雰囲気を持つ女性。

だが娘二人の母親だけあり。

整った容姿、愛華と麗華が入る。

続いて和春。

「お父様」

麗華が声をかける。

剛玄の視線が和春へ向く。

「……」

和春も剛玄を見る。

初対面、巨大企業を率いる男。

普通なら視線だけでも圧を感じるだろう。

だが和春は何も変わらない。

剛玄はそれを見てほんの僅か口元を上げた。

「神代和春君だな」

「ああ」

麗華の眉がピクッ。

愛華は静かに目を閉じた。

――始まった。

だが剛玄は怒らなかった。

「天城剛玄だ」

「ああ。今日は時間作ってくれてありがとな」

「……」

麗華。

無言。

愛華。

無言。

天華だけが少し楽しそうに笑っている。

「ふふ」

和春が天華を見る。

「初めまして」

「ええ」

天華が微笑む。

「愛華の母の天華です」

「神代和春」

「知っていますよ」

「そりゃそうか」

「ええ」

穏やかあまりにも普通の会話。

愛華が逆に不安になる。

父が何も言わない。和春のタメ口にも何も。

「まあ」

剛玄が言う。

「座りなさい」

「ああ」

一同が席につく。

すぐに使用人が茶と菓子を用意する。

和春が持参した菓子折りも既に渡してある。

最初は本当に。

普通の挨拶だった。

「Boundary & Mindだったな」

「ああ」

「愛華から仕事の話は聞いている」

「なら話早いな」

「随分と忙しいそうじゃないか」

「まあ、それなり」

「愛華を随分働かせているようだな」

「それは否定できない」

「和春」

愛華が横から低い声。

「なんだよ?」

「そこは少し否定してください」

「事実だろ」

「労働環境の悪い会社のように聞こえます」

「二人しかいない会社なんだから二人とも働くだろ」

天華が口元を押さえる。

「ふふふ……」

麗華はもう諦め始めていた。

だが剛玄は穏やかな顔のまま和春を見ている。

話し方。視線。姿勢。言葉の選び方。

娘への態度。一つ一つ。静かに観察している。

まだ何も仕掛けない。

今日は結婚を前提とした交際の挨拶。

まずは神代和春という男が自分の前でどんな人間なのかそれを見る。

剛玄は茶を一口飲む。

「それで」

カップを置いた。

「今日は私に話があるそうだな?」

その瞬間、愛華の背筋が僅かに伸びる。

麗華も表情を引き締める。

天華は静かに娘を見る。

そして当の和春だけは何一つ変わらなかった。

「ああ」

剛玄を真っ直ぐ見る。

ようやく本題。

だが剛玄はまだ仕掛けない。

最初は普通に聞くつもりだった。

神代和春が自分の娘との未来をどんな言葉で語るのかを