相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

 朝の光が、静かに部屋へ差し込んでいた。

 いつもの朝は、普段なら規則正しい。

 けれど今日だけは違った。

 神代和春はほとんど眠れなかった。

 ベッドに入っても、昨夜の感触が頭から離れなかったからだ。

 肩に預けられた体温。

 眠った顔。

 無意識に袖を掴んだ指先。

 着崩れして見えた胸元…

(……考えるな)

 自分に言い聞かせる。

 けれど思考は、簡単には止まらない。

 大人として、境界線を守った。

 それは間違っていない。

 なのに。

 心のどこかで、あの時間をもう少し続けたかったと思っている自分がいた。

 深く息を吐く。

「……シャワー浴びるか」

 体を起こし、廊下へ出る。

 まだ頭は少し重い。

 昨夜の余韻と、ほとんど眠れていない疲労。

 だから気づかなかった。

 脱衣所の向こうに、人の気配があることに。

 ノブを握る。

 開ける。

 ――そして。

 時間が止まった。

 濡れた銀髪が、朝の光を受けて揺れる。

 タオルで体を拭く天城愛華。

 いつものメイド服ではない姿。

 綺麗な肌に引き締まったウエスト…
 形のいいバスト…
 引き締まったヒップ…  

 思考が真っ白になる。

 次の瞬間、視線を逸らした。

「……」

 愛華は悲鳴を上げなかった…

「……悪い」

 反射的に扉を閉める。

 廊下に戻った途端、心臓が跳ねた。

(……何やってるんだ)

 自分に呆れる。

 見てしまった…

 見てはいけないと思っても視線を外せなかった…

 扉の向こうから、落ち着いた声がした。

「……和春」

「……はい」

 自然と敬語になる。

「ノックという概念をご存じで?」

 いつもの毒舌。

 だけど、ほんの少しだけ声が硬い。

「……完全に俺のミスだ」

「珍しいですね。全面的に同意します」

 数秒の沈黙。

 水滴が床に落ちる音が微かに聞こえる。

 和春は壁にもたれた。

 落ち着かない。

 昨夜のこと。

 今朝の事故。

 境界線がやけに近い。

(……落ち着け)

 自分に何度も言い聞かせる。

 やがてドアが開いた。

 メイド服に着替えた愛華が出てくる。

 髪はまだ濡れている。

 頬がほんの少し赤い。

 視線が合う。

 ほんの一瞬、空気が止まった。

「……事故ですね」

「ああ」

「故意ではないと判断します」

「助かる」

 愛華は腕を組んだ。

 けれど、目線は少しだけ泳いでいる。

 普段なら絶対に見せない小さな隙。

(……意識してるのか)

 そう思った瞬間、和春の胸がわずかに揺れた。

「ただし」

 彼女が続ける。

「次からはノックしてください。これは一緒に暮らす上で問題です」

「……正論だ」

 短く答える。

 少しだけ空気が緩んだ。

 けれど完全には戻らない。

 どこか、ぎこちない距離。

 愛華は小さく息を吐いた。

(……落ち着け、私)

 心の中で呟く。

 昨夜の記憶は、ちゃんと残っている。

 肩に寄り添ったこと。

 和春に抱かれ、運んでもらったこと…

 あの静かな時間。

 和春の体温。

 そして――

 今朝の事故。

 冷静でいようとするほど、胸の奥が落ち着かない。

(……意識しすぎです)

 自分に言い聞かせる。

 相方だ。

 それ以上でもそれ以下でもない。

 そう思ってきたはずなのに。

 今朝は少しだけ、距離が近すぎた。

「……朝食、作ります」

 いつもの声に戻る。

 逃げるようにキッチンへ向かう。

 和春はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。

 エプロンを結ぶ仕草。

 濡れた髪が背中に落ちる。

 普段は気にしたこともない光景なのに、今日は妙に意識してしまう。

(……ダメだな)

 視線を外す。

 缶コーヒーを手に取ろうとして、やめた。

 頭が冴えすぎている。

 キッチンから包丁の音が聞こえる。

 愛華はいつも通りの動きに戻っていた。

 でも、時々手が止まる。

 考えているのが分かる。

 和春はソファに座り、天井を見た。

 境界線。

 それは守るための線。

 だが最近、その線が近すぎる気がしている。

 守りたい気持ちと、近づきたい気持ち。

 その間で、静かに揺れていた。

「……和春」

「ん?」

「今日、目の下にクマがあります」

「……寝てないからな」

「分かってます」

 愛華は振り返らないまま言った。

「昨夜、無理させましたね」

「違う」

 即答だった。

「俺が選んだだけだ」

 包丁の音が止まる。

 少しの沈黙。

 愛華は小さく息を吐いた。

「……そういうところです」

「何が」

「……秘密です」

 小さな笑み。

 けれど頬はまだ少し赤い。

 朝食が並ぶ。

 温かい湯気。

 いつも通りの光景。

 なのに、空気は少し違った。

 向かい合って座る。

 視線が合いそうで合わない。

 沈黙が続く。

 嫌な沈黙ではない。

 むしろ、どこか落ち着かない甘さがあった。

「……和春」

「ん?」

「今朝のことは、忘れてください」

「……努力する」

「努力ですか」

「完全には無理だろ」

 正直な言葉。

 愛華が一瞬だけ目を見開き、そして小さく笑った。

「……私もです」

 その一言に、空気が少しだけ柔らかくなる。

 Boundary & Mind。

 境界線を大切にしてきた二人。

 けれど昨夜から今朝にかけて――

 その線は確かに揺れていた。

 そして。

 揺れていることを、二人とも気づき始めていた。