相方兼メイドが、恋だけは距離バグってる

玄関のドアが静かに閉まった。

 外の冷たい空気が遮断され、部屋の温度がゆっくり戻ってくる。

 神代和春は靴を脱ぎながら、小さく息を吐いた。

 隣では天城愛華が壁に軽く手をついている。

 メイド服の裾がわずかに揺れ、銀髪が肩を滑った。

「……大丈夫か」

「……はい。少しだけ、眠いだけです」

 声がいつもより低い。

 丸くて、力が抜けている。

 普段の彼女なら絶対に見せない温度だった。

 リビングへ入る。

 照明の柔らかい光が、二人の影を床に落とした。

 愛華はソファに座ろうとして――

 少しだけバランスを崩した。

 和春の手が自然に伸びる。

 腰に触れないぎりぎりの位置で支える。

 その距離が、近い。

 近すぎる。

「……すみません」

「謝るな」

 短く返す。

 けれど声が少し低かった。

 愛華がソファに座ると、ふっと息を吐いた。

 目がとろんとしている。

 赤い瞳がいつもより柔らかく揺れていた。

「……和春」

「ん?」

「……少しだけ、ここにいてください」

 予想外の言葉だった。

 和春は立ったまま固まる。

 普段なら“境界線”を守る彼女が、こんなことを言うはずがない。

 だが今は違う。

 彼女は無防備だった。

 和春はゆっくりと隣に腰を下ろす。

 距離は拳一つ分。

 けれど、呼吸が分かるほど近い。

 愛華の肩が、少しだけこちらへ傾く。

 触れてはいない。

 でも、温度が近い。

「……今日、楽しかったです」

 小さな声。

 それは独り言のようだった。

「そうか」

「はい……」

 目を閉じかけている。

 指先がゆっくりと動き、ソファの布を掴む。

 その仕草が、妙に幼く見えた。

 和春は視線を逸らした。

 胸の奥が騒がしい。

 ――近い。

 近すぎる。

 女性特有の柔らかな香りが、静かに漂う。

 甘すぎない、落ち着いた匂い。

 普段は気にしたこともないのに、今はやけに意識してしまう。

「……和春」

「ん?」

「……少しだけ、寄ってもいいですか」

 心臓が跳ねた。

 答える前に、愛華の肩がそっと触れる。

 ほんの少し。

 本当に、少しだけ。

 その重さは驚くほど軽かった。

 折れてしまいそうなくらい細い体。

 柔らかな感触が、服越しに伝わる。

 和春は息を止める。

(……落ち着け)

 自分に言い聞かせる。

 境界線。

 それは守るためにある。

 けれど今、この距離を拒む理由が見つからない。

 愛華の呼吸がゆっくりになる。

 肩にかかる銀髪が、静かに揺れた。

「……あたたかい」

 小さく呟く。

 和春は何も答えられない。

 ただ、少しだけ体を動かして、彼女が楽な姿勢になるようにした。

 無意識だった。

 気づいた時には、距離がさらに近くなっていた。

 視線を落とす。

 目の前にあるのは、普段見ない表情。

 毒舌でも、冷静でもない。

 安心しきった顔。

 その姿に、胸の奥が大きく揺れる。

 守りたい、と思ってしまう。

 それがどんな感情なのか――まだ言葉にできないまま。

 愛華の指先が、和春の袖を少しだけ掴んだ。

 無意識の仕草。

 離さないでと言っているみたいだった。

 理性が、わずかに揺れる。

 触れてはいけない距離。

 でも、離したくないと思ってしまう距離。

 境界線が、静かに曖昧になる。

「……少しだけ、休みます」

 愛華が目を閉じる。

 呼吸が落ち着く。

 肩に預けられた重さは、本当にわずかだ。

 それでも――

 和春の心は、今までにないほど揺れていた。

 リビングは静かだった。

 時計の音だけが響く。

 Boundary & Mind。

 境界線を守り続けてきた二人。

 けれど今夜は――

 その線が、優しくほどけていた。