会議室の空気は、少しだけ張り詰めていた。
ガラス越しのオフィスは静まり返り、雑談の声はない。
仕事に集中しているというより――誰も余計なことを言わないようにしている、そんな雰囲気だった。
その空間に、明らかに“場違い”な存在が二人。
オレンジの髪を揺らす――神代和春は、椅子に浅く腰掛け、資料を指先でめくっている。緑の瞳は穏やかで、感情の起伏がほとんど見えない。
そして、その隣。
銀髪ロングを揺らす少女が静かに足を組んでいた。
黒を基調にしたクラシカルなメイド服。白いエプロンは無駄なく整えられ、装飾は控えめ。可愛らしさよりも、どこか“戦闘服”のような完成度だった。
赤い瞳が資料を追い、淡々と呟く。
「……離職率、綺麗に崩れてますね。ここまで揃うと偶然とは言い難いです」
「ああ。誰かが悪いってより、流れが出来てる」
和春の声は低く穏やかだった。
ノックの音。
「失礼します。本日はよろしくお願いします」
入ってきた人事担当の男性は、一歩踏み入れた瞬間――固まった。
視線が、自然と愛華へ向く。
「……あの、失礼ですが」
「はい。コンサル会社 Boundary & Mind 代表、神代和春の相方兼メイド――天城愛華です」
迷いのない自己紹介だった。
「メイド……?」
「はい。正装ですので」
さらっと言い切る。
和春が横から小さく言った。
「気にしなくていい。仕事は普通にするから」
人事担当は戸惑いながら席に着いた。
和春は資料を閉じる。
「離職理由、業務量ってことになってるんだよな」
「はい……アンケート上は」
「なるほど」
否定はしない。
少しだけ間を置く。
「もし本当に業務量が原因なら、部署ごとに差が出る。でも今回は全部同時に動いてる。だから別の見方もできる」
「別の見方、ですか?」
「制度の問題として見る方法と、空気の問題として見る方法。どっちを優先するかで変わる」
選択肢だけを並べる。
愛華が静かに続けた。
「カウンセリング制度は導入済みですよね」
「はい……ですが利用率が低くて」
「それは普通の反応です。相談すること自体、かなり勇気が要りますから」
赤い瞳が柔らかく細められる。
「もし“利用する人=弱い人”という空気があるなら、制度を増やしても効果は出にくいかもしれません」
毒はある。
けれど刃は丸い。
人事担当が小さく頷いた。
「……上層部は、最近の社員はメンタルが弱いと」
和春は一瞬だけ考えるように視線を上げた。
「そう考えるのも一つの見方だな」
否定しない。
「ただ、弱くなったんじゃなくて、話せる場所が減った可能性もある」
静かな毒だった。
事実だけを置く言葉。
愛華が補足する。
「心理学では“心理的安全性”と言います。失敗や不安を話しても否定されないと感じられる状態ですね」
「なるほど……」
「どっちが正しいかは御社が選ぶことです。私たちは材料を揃えるだけですので」
人事担当の表情が少し緩んだ。
和春が立ち上がる。
「現場、見せてもらえるか。数字より空気を見る」
「は、はい」
愛華も立ち上がり、メイド服の裾を軽く整える。
「和春、今日は控えめですね」
「初回だからな」
「全部出したら案件無くなりそうですね」
「分かってるなら言うな」
会議室を出た瞬間、フロアの視線が集まった。
ざわ……と小さな空気の揺れ。
「……メイド?」
「コスプレ?」
「いや本物っぽくない?」
小声が漏れる。
愛華はまったく気にしない様子で歩く。
「視線、多いですね」
「想定内だろ」
「正装ですから」
「堂々と言うな」
和春は歩きながらフロアを観察した。
「……雑談ゼロだな」
「緊張状態ですね。同調圧力が強い時に起きやすい反応です」
社員の一人が電話を終え、大きく息を吐いた。
その瞬間。
和春がわずかに立ち止まる。
「……あの人、最近配置変わった?」
人事担当が驚いた顔をした。
「え、ええ……営業から企画へ異動しました」
「なるほど」
それ以上は言わない。
ただ一歩だけ方向を変え、その社員の近くへ歩いた。
和春が足を止める。
「少し聞いていい?」
柔らかい声だった。
社員が頷く。
「今の仕事、慣れてきた?」
「……まだ少し」
「それでいい。環境が変われば負荷は上がる」
愛華が自然に補足する。
「認知負荷、と言います。脳の処理量が増えて疲れやすくなる状態ですね。能力とは別問題です」
社員の表情が少し軽くなった。
和春は短く続ける。
「このまま慣れるのを待つ方法もあるし、周りへの頼り方を変える方法もある。選ぶのは自分だ」
それだけ言って、歩き出す。
押し付けない。
ただ道を置く。
ホワイトボードの前で和春が止まった。
「……評価と共有が混ざってるな」
愛華が補足する。
「進捗共有が査定の場になっている可能性ですね。心理的安全性が下がる典型例です」
人事担当が息を飲む。
和春は穏やかに言った。
「このままでも短期成果は出る。でも長期では離職が増える可能性がある。変える選択もある。どっちを取るかは会社次第」
その言葉は静かだったが、重かった。
少し離れた場所で、社員が小さく笑う。
メイド服の少女と、オレンジ髪の青年。
奇妙な二人組。
それでも――
彼らが歩く後ろで、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んでいく。
Boundary & Mind。
まだ小さな会社。
けれどこの日、確かに一つの変化が始まっていた。
ガラス越しのオフィスは静まり返り、雑談の声はない。
仕事に集中しているというより――誰も余計なことを言わないようにしている、そんな雰囲気だった。
その空間に、明らかに“場違い”な存在が二人。
オレンジの髪を揺らす――神代和春は、椅子に浅く腰掛け、資料を指先でめくっている。緑の瞳は穏やかで、感情の起伏がほとんど見えない。
そして、その隣。
銀髪ロングを揺らす少女が静かに足を組んでいた。
黒を基調にしたクラシカルなメイド服。白いエプロンは無駄なく整えられ、装飾は控えめ。可愛らしさよりも、どこか“戦闘服”のような完成度だった。
赤い瞳が資料を追い、淡々と呟く。
「……離職率、綺麗に崩れてますね。ここまで揃うと偶然とは言い難いです」
「ああ。誰かが悪いってより、流れが出来てる」
和春の声は低く穏やかだった。
ノックの音。
「失礼します。本日はよろしくお願いします」
入ってきた人事担当の男性は、一歩踏み入れた瞬間――固まった。
視線が、自然と愛華へ向く。
「……あの、失礼ですが」
「はい。コンサル会社 Boundary & Mind 代表、神代和春の相方兼メイド――天城愛華です」
迷いのない自己紹介だった。
「メイド……?」
「はい。正装ですので」
さらっと言い切る。
和春が横から小さく言った。
「気にしなくていい。仕事は普通にするから」
人事担当は戸惑いながら席に着いた。
和春は資料を閉じる。
「離職理由、業務量ってことになってるんだよな」
「はい……アンケート上は」
「なるほど」
否定はしない。
少しだけ間を置く。
「もし本当に業務量が原因なら、部署ごとに差が出る。でも今回は全部同時に動いてる。だから別の見方もできる」
「別の見方、ですか?」
「制度の問題として見る方法と、空気の問題として見る方法。どっちを優先するかで変わる」
選択肢だけを並べる。
愛華が静かに続けた。
「カウンセリング制度は導入済みですよね」
「はい……ですが利用率が低くて」
「それは普通の反応です。相談すること自体、かなり勇気が要りますから」
赤い瞳が柔らかく細められる。
「もし“利用する人=弱い人”という空気があるなら、制度を増やしても効果は出にくいかもしれません」
毒はある。
けれど刃は丸い。
人事担当が小さく頷いた。
「……上層部は、最近の社員はメンタルが弱いと」
和春は一瞬だけ考えるように視線を上げた。
「そう考えるのも一つの見方だな」
否定しない。
「ただ、弱くなったんじゃなくて、話せる場所が減った可能性もある」
静かな毒だった。
事実だけを置く言葉。
愛華が補足する。
「心理学では“心理的安全性”と言います。失敗や不安を話しても否定されないと感じられる状態ですね」
「なるほど……」
「どっちが正しいかは御社が選ぶことです。私たちは材料を揃えるだけですので」
人事担当の表情が少し緩んだ。
和春が立ち上がる。
「現場、見せてもらえるか。数字より空気を見る」
「は、はい」
愛華も立ち上がり、メイド服の裾を軽く整える。
「和春、今日は控えめですね」
「初回だからな」
「全部出したら案件無くなりそうですね」
「分かってるなら言うな」
会議室を出た瞬間、フロアの視線が集まった。
ざわ……と小さな空気の揺れ。
「……メイド?」
「コスプレ?」
「いや本物っぽくない?」
小声が漏れる。
愛華はまったく気にしない様子で歩く。
「視線、多いですね」
「想定内だろ」
「正装ですから」
「堂々と言うな」
和春は歩きながらフロアを観察した。
「……雑談ゼロだな」
「緊張状態ですね。同調圧力が強い時に起きやすい反応です」
社員の一人が電話を終え、大きく息を吐いた。
その瞬間。
和春がわずかに立ち止まる。
「……あの人、最近配置変わった?」
人事担当が驚いた顔をした。
「え、ええ……営業から企画へ異動しました」
「なるほど」
それ以上は言わない。
ただ一歩だけ方向を変え、その社員の近くへ歩いた。
和春が足を止める。
「少し聞いていい?」
柔らかい声だった。
社員が頷く。
「今の仕事、慣れてきた?」
「……まだ少し」
「それでいい。環境が変われば負荷は上がる」
愛華が自然に補足する。
「認知負荷、と言います。脳の処理量が増えて疲れやすくなる状態ですね。能力とは別問題です」
社員の表情が少し軽くなった。
和春は短く続ける。
「このまま慣れるのを待つ方法もあるし、周りへの頼り方を変える方法もある。選ぶのは自分だ」
それだけ言って、歩き出す。
押し付けない。
ただ道を置く。
ホワイトボードの前で和春が止まった。
「……評価と共有が混ざってるな」
愛華が補足する。
「進捗共有が査定の場になっている可能性ですね。心理的安全性が下がる典型例です」
人事担当が息を飲む。
和春は穏やかに言った。
「このままでも短期成果は出る。でも長期では離職が増える可能性がある。変える選択もある。どっちを取るかは会社次第」
その言葉は静かだったが、重かった。
少し離れた場所で、社員が小さく笑う。
メイド服の少女と、オレンジ髪の青年。
奇妙な二人組。
それでも――
彼らが歩く後ろで、張り詰めていた空気がほんの少しだけ緩んでいく。
Boundary & Mind。
まだ小さな会社。
けれどこの日、確かに一つの変化が始まっていた。
