「顔、白いぞ」
指先が頬に触れる。
ひやりとした感触。
いや、冷たいのは俺じゃない。タツキの指だ。
血の通っていないものみたいに、温度がない。
視界の端で、まだ白いものが揺れている。
今度は、はっきり見えた。
人の形。
けれど骨がない。
関節が曖昧で、腕も首も、布を吊るしたみたいに柔らかく波打っている。
風はないのに、それだけが揺れている。
稲のあいだから、こちらを見ている。
顔はある。
目も、口も、あるはずなのに、うまく焦点が合わない。
それでも――
美しい、と一瞬思った。
夕陽を透かして、白が淡く光る。
この世のものじゃない色。
触れたら溶けそうで、壊れそうで。
ぞくり、と背筋が震える。
冷たい汗が背中を伝う。
「……きれい」
気づけば、声が零れていた。
タツキの手が、止まる。
空気が、ぴたりと固まる。
「何が」
声が低い。
「……わからない」
本当に、わからない。
怖いのに、胸の奥が甘く痺れている。
引き寄せられている。
目を逸らしたくない。
もっと見たい。
もっと、近くで。
白いそれが、ゆらりと首を傾げる。
――おいで。
言葉はないのに、そう聞こえた。
次の瞬間、腕を掴む力が強くなる。
痛い。
「見るな」
今度は、はっきり。
タツキの声。
でも、違う。
同じ声帯のはずなのに、重さが違う。
底に沈んだ石みたいな声。
押し殺した怒り。焦り。
それから――
恐怖。
「……タツキ?」
見上げる。
夕陽を受けて、瞳が赤く染まっている。
その奥。
揺れている。
白い、何か。
一瞬だけ、別の表情が重なる。 知らない顔。
でも、懐かしい。
喉の奥が焼ける。
胸が締め付けられる。
――三人。
言葉にならない記憶が、内側から爪を立てる。
タツキの指が、頬から顎へ滑る。
逃げ道を塞ぐみたいに、顔を固定する。
「キョウ」
名前を呼ばれる。
昔と同じ声音。
優しい。包み込むみたいな響き。
でも、その奥に潜んでいる。
歪んだ独占欲。
焦燥。
奪われることへの恐怖。
そして、期待。
――選べ。
そう言われている気がする。
俺を見るか。
あれを見るか。
「俺、だけ見てろ」
囁きが、耳の奥まで入り込む。
白い揺れが、わずかに近づいた。
タツキの瞳の奥で、同じ形が揺れる。
外にいるのか、内にいるのかわからない。
頭の奥で、声が重なる。
見るな。
見ろ。
戻れ。
思い出せ。
耐えきれず、田んぼを見る。
白い揺れは――
消えている。
ただ稲が、何事もなかったように立っている。
風もない、音もない。
「……何でもない」
そう笑って言うと、タツキがゆっくり息を吐いた。
安堵。
あからさまな、安堵。
「だろ」
笑う。
完璧な、いつもの顔。
けれど。
夕陽に伸びる影が、二つじゃない。
一瞬だけ、三つに見えた。
俺の影。
タツキの影。
その背後に、細い影。
瞬きをすると、消える。
家路につきながら、考える。
あの白い揺れを、俺は知っている。
忘れたはずなのに、忘れさせられた気がする
絶対に思い出してはいけない。
でも、思い出したい。
喉の奥が、またひりつく。
田んぼは、風がなくても揺れることがある。
それを言ったのは――
俺でもない、タツキでもない。
じゃあ、誰だ?
隣を歩くタツキは、何も知らない顔をしている。
でも、本当に何も知らないのは、俺のほうかもしれない。
遠くでひぐらしが鳴く。
その声に混じってもうひとつ。
かすかな笑い声が、聞こえた気がした。
風は、吹いていない。
