いつもの帰り道

田んぼ道に入った瞬間、空気が変わった。
いや、変わったというより——抜け落ちた。

音が、ない。
虫の声も、風の音も、遠くの車の走る音も。

あるのは、足が地面を踏む感触だけ。
ぐしゃ、と、湿った土が沈む感覚が、やけに生々しい。

足先に力が入らない。
踏み出すたび、びくりと肩が跳ねる。
それでも、止まれない。

歩いているはずなのに、前に進んでいる感じがしない。
それどころか、身体の中心が、じわじわとずれていく。

気持ち悪い。

田んぼの中は暗くて、
水面が空を映しているのか、底なのかも分からない。
その境目を踏み抜いてしまいそうで、
一歩一歩が、怖い。

喉の奥が詰まって、息が浅くなる。
視界の端が、にじむ。

——見たら、あかん。

唐突に、思い出す。
誰に聞いたのかも分からない、昔の話。

——数えたらあかん。
——形を理解したら、終わり。

分かってる。
分かってるのに、
タツキの背中を探して、目が勝手に前を追う。

視界の奥、田んぼの向こう。
“何か”が、揺れている。

風じゃない。
生き物とも、言い切れない。
一定じゃない揺れ方が、
胸の奥をざわつかせる。

足を止めたのは、偶然だった。

さっきまで、確かにそこにタツキがいた。
背中も、歩き方も、あの少し内側に入った足運びも。

——いた、はずや。

名前を呼びかけようとして、喉が詰まる。
声を出したら、何かを“呼んでしまう”気がした。

おかしい。

田んぼ道はまっすぐで、隠れる場所なんてない。
なのに、姿が見えない。

見失った、という言葉が頭に浮かんだ瞬間、
それを全力で否定する。

違う。
まだ前にいる。
俺が追いついてないだけや。

足を踏み出した。

その時、
視界の端で、何かが動いた。

揺れている。
風とは違う。
生き物とも言い切れない、不規則な揺れ。

——見たら、あかん。

分かってる。
分かってるのに、さっきタツキが立っていた場所から、
それは、にじむように現れた。

距離感が、狂う。

近いのか、遠いのか分からない。
ただ、こちらに向かっていることだけは分かった。

心臓が、うるさい。

逃げろ、と頭のどこかが叫んでいる。
でも足は、前に出たまま止まらない。

タツキを追いかける癖が、
そのまま、“それ”に近づかせていた。

——あ。

その瞬間、
理由もなく、胸の奥がきゅっと縮んだ。

この感じ。
知っている。

昔。
もっと小さかった頃。

夕日。
田んぼ。
誰かの声。

「見るな」

声の主は思い出せない。
でも、その言葉だけが、やけに鮮明だった。

——見たら、戻れん。

視界が、ぐらりと傾く。

地面が近づいたのか、
自分が崩れ落ちたのか、分からない。

ただ、
あの揺れだけが、すぐそばにある気がして。

次の瞬間、
意識が、すとん、と落ちた。