田んぼは、風がなくても揺れることがある。
誰が言ったのか思い出せないその言葉だけが、喉の奥に刺さっている。
抜こうとすると、肉ごと引き裂きそうで、触れられない。
夏の終わりの夕方は、生ぬるい。
空気が肌に貼りついて、剥がれない。
誰かにずっと触れられているみたいで、気持ちが悪い。
俺はコンビニの袋を指に引っかけて歩いている。
隣には俺の手を握っているタツキ。
近い。
昔から隣にいたはずなのに、最近は距離の測り方がわからない。
「暑いな」
タツキが水を飲む。
喉仏が上下する。目を逸らしたいのに、逸らせない。
「もう九月なのに」
「まだ夏だろ」
笑う。
その笑顔は、昔と同じ形をしている。
けれど、目だけが違う。
何かを確かめるみたいに、俺を見ている。
逃げないかどうか。
道の先に田んぼが広がる。
夕陽を飲み込んだ稲は、金色というより、濁った血の色に近い。
視線を逸らした。
「まだ嫌いか?」
声が、耳に近すぎる。
「……何が」
「田んぼ」
足が止まる。
タツキは笑っていない。
俺の顔を覗き込む。逃げ場を探すみたいに動いた視線を、追いかける。
「別に。嫌いじゃない」
言い終わる前に、腕を掴まれた。
強くはない。
でも、外れない力。
「昔も、ここで固まってた」
断言。
「覚えてない」
「俺は覚えてる」
声が低い。
優しい響きなのに、否定を許さない。
指先が、じわりと食い込む。
「俺とお前だろ」
その言葉が、静かに落ちる。
ざわり、と。
風は吹いていない。
なのに田んぼの一角だけが揺れている。
そこだけ、波の向きが違う。
白いものが立っている。
今度は、はっきり見えた。
細い腕。
垂れた髪。
顔は、逆光で潰れている。
それは、揺れているというより。
――覗いている。
「……なあ」
喉が乾く。
「俺たち、三人じゃなかったか?」
言ってしまった瞬間、空気が止まる。
ひぐらしの声が、遠くなる。
タツキの手の力が、わずかに強まった。
痛い。
「三人?」
ゆっくりと繰り返す。
「俺とキョウと誰?」
問いかけなのに、答えは決まっているみたいな声音。
白いそれが、一歩、前に出た。
稲が触れていない。
なのに揺れている。
「ほら」
耳元に息がかかる。
「また、そっち見る」
ぞわ、と背筋が粟立つ。
タツキの手が腕から肩へ、そして首の後ろへ滑る。
逃がさない位置。
「見るな」
低く囁く。
さっき聞いた声と、同じ響き。
「俺だけ見てろ」
その言葉は冗談みたいに軽いのに、指先は震えていない。
まるで、本気だ。
田んぼの奥の白い影が、首を傾げる。
――違う。
そう言いたげに。
頭の奥に、ノイズが走る。
夕暮れ。
叫び声。
泣いているのは、誰だ?
俺と、タツキと。
もう一人。
あの白い――
「いない」
タツキが遮る。
俺はまだ何も言っていないのに。
「いないよ。そんなの」
笑う。
でも目が笑っていない。
「俺とお前だけだろ」
首の後ろに回った指が、そっと撫でる。
優しい。
なのに、檻みたいだ。
「三人なんて、いらない」
その瞬間。
水面に映る俺たちの姿が、ぶれる。
俺とタツキのあいだに、白い横顔が重なる。
唇が動く。
――まだ、いる。
瞬きをしたら、消えた。
タツキの額が、俺のこめかみに触れる。
距離が、ゼロになる。
「なあ、キョウ」
囁き。
「俺しかいないよな?」
答えを間違えたら、何かが壊れる。
田んぼは、まだ揺れている。
風は、ない。
誰が言ったのか思い出せないその言葉だけが、喉の奥に刺さっている。
抜こうとすると、肉ごと引き裂きそうで、触れられない。
夏の終わりの夕方は、生ぬるい。
空気が肌に貼りついて、剥がれない。
誰かにずっと触れられているみたいで、気持ちが悪い。
俺はコンビニの袋を指に引っかけて歩いている。
隣には俺の手を握っているタツキ。
近い。
昔から隣にいたはずなのに、最近は距離の測り方がわからない。
「暑いな」
タツキが水を飲む。
喉仏が上下する。目を逸らしたいのに、逸らせない。
「もう九月なのに」
「まだ夏だろ」
笑う。
その笑顔は、昔と同じ形をしている。
けれど、目だけが違う。
何かを確かめるみたいに、俺を見ている。
逃げないかどうか。
道の先に田んぼが広がる。
夕陽を飲み込んだ稲は、金色というより、濁った血の色に近い。
視線を逸らした。
「まだ嫌いか?」
声が、耳に近すぎる。
「……何が」
「田んぼ」
足が止まる。
タツキは笑っていない。
俺の顔を覗き込む。逃げ場を探すみたいに動いた視線を、追いかける。
「別に。嫌いじゃない」
言い終わる前に、腕を掴まれた。
強くはない。
でも、外れない力。
「昔も、ここで固まってた」
断言。
「覚えてない」
「俺は覚えてる」
声が低い。
優しい響きなのに、否定を許さない。
指先が、じわりと食い込む。
「俺とお前だろ」
その言葉が、静かに落ちる。
ざわり、と。
風は吹いていない。
なのに田んぼの一角だけが揺れている。
そこだけ、波の向きが違う。
白いものが立っている。
今度は、はっきり見えた。
細い腕。
垂れた髪。
顔は、逆光で潰れている。
それは、揺れているというより。
――覗いている。
「……なあ」
喉が乾く。
「俺たち、三人じゃなかったか?」
言ってしまった瞬間、空気が止まる。
ひぐらしの声が、遠くなる。
タツキの手の力が、わずかに強まった。
痛い。
「三人?」
ゆっくりと繰り返す。
「俺とキョウと誰?」
問いかけなのに、答えは決まっているみたいな声音。
白いそれが、一歩、前に出た。
稲が触れていない。
なのに揺れている。
「ほら」
耳元に息がかかる。
「また、そっち見る」
ぞわ、と背筋が粟立つ。
タツキの手が腕から肩へ、そして首の後ろへ滑る。
逃がさない位置。
「見るな」
低く囁く。
さっき聞いた声と、同じ響き。
「俺だけ見てろ」
その言葉は冗談みたいに軽いのに、指先は震えていない。
まるで、本気だ。
田んぼの奥の白い影が、首を傾げる。
――違う。
そう言いたげに。
頭の奥に、ノイズが走る。
夕暮れ。
叫び声。
泣いているのは、誰だ?
俺と、タツキと。
もう一人。
あの白い――
「いない」
タツキが遮る。
俺はまだ何も言っていないのに。
「いないよ。そんなの」
笑う。
でも目が笑っていない。
「俺とお前だけだろ」
首の後ろに回った指が、そっと撫でる。
優しい。
なのに、檻みたいだ。
「三人なんて、いらない」
その瞬間。
水面に映る俺たちの姿が、ぶれる。
俺とタツキのあいだに、白い横顔が重なる。
唇が動く。
――まだ、いる。
瞬きをしたら、消えた。
タツキの額が、俺のこめかみに触れる。
距離が、ゼロになる。
「なあ、キョウ」
囁き。
「俺しかいないよな?」
答えを間違えたら、何かが壊れる。
田んぼは、まだ揺れている。
風は、ない。
