あの日は、梅雨の合間に唐突な晴れ間が差した日だった。
湿った地面から立ち上る熱気に、息を吸うたび胸が詰まる。
雨は止んでいたが、空気はまだ重く、雲の名残が低く垂れていた。
その中で、僕は恋をした。
それはそれは綺麗な、美しい女性――ではなかった。
僕の上司、吉田正三中尉。
背筋の伸びた立ち姿と、無駄のない動き。
何より、無表情の奥に、なぜか“疲れ”の色が見える人だった。
暑さに耐えきれず、視界が揺れた。
膝が折れかけた瞬間、腕を掴まれた。
「大丈夫かね?」
そう言って微笑んだ顔を、僕は今でもはっきり覚えている。
ああ、この人はなんて、綺麗なんだろう。
もしこの人のお側で働けたら――
きっと、百万倍は頑張れてしまう。
内地にいる僕らは、いつ前線へ出ることになるか分からない。
だからこそ、衝動はいつも、理由を探さずに先に立つ。
雨上がりの空に、薄く虹が架かっているのを見つけた時、
それはもう、口実として完成していた。
「吉田中尉殿!」
「……うん? ああ、君は高木義志伍長だね」
「えっ。私などの名前を、ご存じで?」
「知っておいでで、って……ほら」
名札を指さされ、顔が熱くなる。
あ、としか言えなかった。
「それで、どうした? 俺を呼び止めてまで話したいこととは」
「あの、えっと……空!」
「空?」
「虹が出ているのです!」
一瞬、沈黙が落ちた。
中尉は空を見上げ、それから僕を見た。
「ああ……そうだな」
「それでは、失礼いたします!」
「は? え、待て!」
「はい!」
「……それだけか?」
「大変申し訳ございません! 本当に、それだけです!」
間が空いた。
その沈黙の中で、僕は何かを言わなければならない気がしていた。
「この……能天気だな。今、この国のために友が戦っているというのに」
声は低く、叱責というより、困惑に近かった。
なぜ、今、この話なのか。
そう問われている気がした。
「はい。承知しております。ただ……」
「ただ?」
「どんな時でも、空は私たちを見守ってくれています。
だから……中尉殿にも、それをお伝えしたかった所存であります!」
言い切った瞬間、胸の奥が軽くなった。
言葉としては、あまりに幼く、意味も曖昧だったけれど、
それが僕の出せる限界だった。
吉田傳中尉は、何も言わなかった。
叱りもしなかった。
ただ、少しだけ、視線を空へ戻した。
彼はその時、分からなかったのだと思う。
なぜ、この少年が虹を理由に呼び止めたのか。
なぜ、その声が、報告でも意見でもなく、
ただ「伝えよう」としているだけだったのか。
やがて彼は、短く言った。
「……持ち場に戻れ」
「はい!」
敬礼をして踵を返した。
背中に何も追ってこなかった。
それでよかったのだと、あの時は思った。
恋は始まったばかりで、
まだ名前を持たず、
ただ、空の色みたいに淡かった。
後になって知ることになる。
あの日、彼の中にも、
説明できない“なぜ”が残ったことを。
それが、
誰にも届かなかった言葉を、
いつか彼ひとりにだけ聞かせることになるなんて、
この時の僕は、まだ知らなかった。
消灯までのわずかな時間、
詰所の外は静かだった。
湿った夜風が、昼間の熱を少しだけ攫っていく。
「高木」
「はい!」
「……座れ。立って話すほどのことでもない」
命令口調だったが、声は柔らかかった。
僕は一瞬迷ってから、吉田中尉の向かいに腰を下ろした。
「昼間のことだが」
胸が跳ねた。
「お前、ああいう話は、よくするのか」
「虹の話ですか?」
「ああ」
「いえ……あまり。
でも、今日はなんだか……言いたくなりまして」
吉田中尉は、理由を聞かなかった。
ただ、短く頷いた。
「……家族は?」
「え?」
「両親だ。健在か」
「はい。父は商いをしていまして、母は……そうですね」
少し考えてから、僕は笑った。
「母は、いつも同じことを言う人なんです」
「ほう」
「何かあると、
“なるようになる”って」
吉田中尉は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「叱るでもなく、励ますでもなく、
それだけなんです。
転んでも、試験に落ちても、
“まあ、なるようになるわよ”って」
「……便利な言葉だな」
「はい。
だから、私はあまり先のことを考えない癖がつきました」
自嘲のつもりだった。
だが、吉田中尉は首を振った。
「違う」
「え?」
「それは……放り投げているんじゃない。
受け入れているんだ」
少し間を置いて、彼は続けた。
「Que sera, sera」
聞き慣れない響きだった。
「スペイン語だ。
“なるようになる”という意味だ」
「……そうなのですか」
「ああ。
大学で、少しな」
その言い方は淡々としていて、
まるでどうでもいい知識を添えるみたいだった。
けれど、僕はその音を、頭の中で何度もなぞった。
「ケ……セラ……セラ」
「無理に覚えなくていい」
「いえ。覚えます」
即答してしまってから、
少し恥ずかしくなった。
「母が言う言葉と、
同じ意味だと分かったので」
吉田中尉は、何か言いかけて、やめた。
代わりに、短く息を吐いた。
「……面白いな」
「私が、ですか?」
「ああ。
不思議な子だ」
その言葉は、評価でも叱責でもなかった。
ただ、彼が初めて僕を
兵士ではなく、個人として見た響きがあった。
視線が合った。
逃げ場のない距離で、
彼の目が、僕の中の何かを測っているのが分かった。
「……目に、熱がある」
心臓が跳ねた。
「す、すみません……!」
「謝るな」
即座に返された声は、低く、はっきりしていた。
「感じただけだ。
それ以上の意味はない」
その“それ以上”を、
互いに口にすることはない。
その“それ以上”が、
何を指すのか、互いに分かっていた。
その時、外で足音がした。
「吉田中尉!」
伝令だった。
「至急、お話が」
空気が、切り替わる音がした。
「……分かった」
吉田中尉は立ち上がり、帽子を取った。
その横顔は、もう軍人のものだった。
僕は何も言えなかった。
ただ、敬礼をした。
それが、
彼と静かに言葉を交わせた、
最後の夜になった。
会議室の空気は、重く、乾いていた。
机の上に並べられた書類は、どれも同じ重さを持っているようで、
しかし一枚だけ、吉田正三中尉の目を引いた。
高木義志伍長。
そこに、確かに名前があった。
次の出陣要員として、簡潔に、事務的に。
吉田は何も言わなかった。
異議も、確認も、質問も。
会議は滞りなく進み、誰も彼の沈黙を不自然とは思わなかった。
——だが、彼は決めていた。
このことは、
書類でも、伝令でもなく、
自分の口で伝える。
それだけは、譲れなかった。
⸻
翌朝、まだ空の色が定まらないうちに、
少年兵たちを集めた。
「次の出陣について、告げる」
名を読み上げる声は、いつもと変わらない。
一つずつ、淡々と。
「……高木伍長」
返事は、はっきりとしていた。
「はい!」
その声を聞いた瞬間、
吉田は彼を見た。
高木は、こちらを見ていなかった。
だが、視線が合った一瞬、
あの夜と同じ熱が、確かにそこにあった。
言葉は交わさなかった。
理由も、説明も、なかった。
それでよかったのだと、
吉田は自分に言い聞かせた。
送り出す、という行為は、
多くを語らないことで完成する。
彼らは、そうして離れた
外地は、熱かった。
空気が焼け、地面が焦げ、
息を吸うたび、血の匂いが肺に溜まる。
叫び声。
銃声。
誰かが倒れ、
誰かがもう動かなくなる。
考える暇はなかった。
生き残ることだけが、すべてだった。
それでも、不意に思い出す。
あの夜。
静かな風。
低い声で告げられた、異国の言葉。
Que sera, sera
なるようになる。
母の口癖と、
吉田中尉の声が、
重なって聞こえる。
不思議と、怖くはなかった。
引き金を引り、走り、伏せ、
また立ち上がる。
熱い。
ただ、ひたすらに熱い。
その時だった。
衝撃が、胸を打った。
一瞬、音が遠のく。
身体が前につんのめり、
視界が傾く。
空が、見えた。
焼けつくような青の中に、
ありえないほど淡い色が滲む。
——虹だ。
あの日と同じ。
梅雨の合間に、突然現れた、意味のない光。
誰にも見せるためじゃない。
誰にも届かない。
それでも、確かにそこにある。
ケ・セラ・セラ。
声にはならなかった。
万歳も、祈りも、なかった。
ただ、
なるようになる、と。
それだけを胸に抱いたまま、
高木伍長は、地面に伏した。
単調な作業だった。
書類を揃え、確認し、判を押す。
戦後の仕事は、音が少ない。
その時だった。
ふいに、耳元で声がした気がした。
——中尉殿。
呼ばれた気がして、吉田は顔を上げた。
部屋には誰もいない。
風もない。
気のせいだ、と判断するには、
その声はあまりに具体的だった。
若い声。
少し息を含んだ呼び方。
名前を呼ぶ前に、一瞬だけ迷う癖。
吉田は、ゆっくりと窓の方を見た。
灰色だった空が、いつの間にか明るくなっている。
雨音は、もうしていなかった。
——ああ。
なぜか、そう思った。
雨が上がった。
理由は分からない。
ただ、そう感じた。
椅子を引く音が、やけに大きく響いた。
書類を置いたまま、歩き出す。
歩幅が次第に早くなり、
気づけば、走っていた。
外へ出た瞬間、
空気が変わった。
湿り気を残した風。
雲の切れ間。
そして――
海の向こうに、
静かに架かる虹。
息が止まった。
派手でもなく、
誰かに見せるためでもなく、
ただ、そこにある色。
吉田は、立ち尽くした。
声は、もう聞こえない。
だが、確かに思い出した。
夜の詰所。
少年の声。
覚えのないはずの異国の言葉。
Que sera, sera
なるようになる。
あれは、
自分が教えた言葉だった。
そして、
自分が送り出した少年が、
最後に選んだ言葉だった。
吉田は、何も言わなかった。
敬礼もしなかった。
ただ、虹が消えるまで、
その場に立っていた。
誰にも届かなかったはずの声が、
遅れて、確かに届いてしまったことを、
この耳に残るあの子の声を…中田は死ぬまでずっと忘れることはできなかった…


