あなたの夜が明けるまで

目を開けた瞬間、胸の奥がひどく静かだった。
 鼓動がない。息もしていない。
 それなのに、意識だけがはっきりとここにある。

 薄いカーテン越しの光。
 古いアパート特有の、少し湿った空気。
 床の軋み方まで、覚えている。

 ――俺の部屋だ。

 正確には、俺と聖が暮らしていた部屋。
 二人で選んだカーテン。
 壁に残った画鋲の跡。
 もう使われなくなった、並んだマグカップ。

 死んだはずなのに、何ひとつ変わっていない。
 変わったのは、俺だけだった。

 テーブルの上に置かれたカレンダーが目に入った。
 めくりかけのまま、二月で止まっている。

 日付を見て、ようやく理解する。

 二年、経っている。

 俺が死んでから、二年。

 あの日の朝の感覚が、急に鮮明によみがえった。
 冷えた空気。
 エンジンをかけた瞬間の微かな振動。
 ラジオから流れていた、どうでもいいニュース。
 今日はケーキを買って帰ろう、という考え。

 プロポーズは、夜にしようと思っていた。
 あの高台の公園で。
 星が綺麗だから。

 なのに――。

 部屋の奥から、異音がした。

 椅子が引きずられる音。
 ロープが擦れる、耳に残る音。

 嫌な予感が、背骨を一気に駆け上がる。
 反射的に振り返った。

 そこにいたのは、聖だった。

 天井から垂れたロープを首にかけ、椅子の上に立っている。
 表情は、驚くほど静かだった。
 泣いてもいない。
 迷ってもいない。

 何度も夜を越えた人間の顔じゃなかった。
 夜の中に、ずっと沈んだままの顔だった。

 その瞬間、胸の奥が焼けるように痛んだ。

「やめろ!」

 叫んだ。

 さっきまで、声なんて出なかった。
 名前を呼ぼうとしても、世界に引っかからなかった。
 なのに今は、喉が裂けるほどの感情と一緒に、言葉が溢れ出た。

 恐怖だった。
 怒りだった。
 何より、失うことへの拒絶だった。

 駆け寄る。
 腕を伸ばす。

 ――触れない。

 何度も、何度も。
 必死に手を伸ばしても、指先は空を切る。

 それでも、聖はふっと息を吐いた。
 まるで、何かを諦めるように。

 ロープを外し、椅子から降りる。
 床に座り込み、顔を覆った瞬間、堰を切ったように泣き出した。

 声を殺して、肩を震わせて。
 子どもみたいに、壊れた泣き方で。

 ――ああ。

 この人は、夜を越えていなかった。
 俺が死んだあの日から、ずっと夜の中にいた。

 時々、玄関の鍵が開く音がした理由も分かった。
 俺の両親が、様子を見に来ていたんだ。

 聖は、自分の親と縁を切っている。
 俺が死んだ瞬間、世界から一人、取り残された。

 ごめんな。
 何度も、心の中で繰り返す。

 時間の感覚が、曖昧になっていく。
 気づけば、部屋に夜明け前の冷たい空気が流れ込んでいた。

 聖は泣き腫らした目のまま立ち上がり、上着を羽織る。
 車の鍵を取る音が、やけに大きく響いた。

 俺は、ただ後ろについていくことしかできなかった。

 車内は冷えている。
 エンジンがかかり、ヘッドライトが闇を切り裂く。

 走り出した道を見て、胸が締めつけられた。

 この道だ。
 俺が、最後に通った道。

 聖は無言でハンドルを握っている。
 赤信号で止まるたび、視線がわずかに揺れる。

 泣いてはいない。
 ただ、生きていることそのものが、重そうだった。

 車は、あの高台へ向かっていく。

 二年前の冬。
 死ぬ直前、星を見に行った公園。

 公園に着くと、夜はまだ空に張り付いていた。
 冷たい風。
 澄んだ空気。
 星が、あの日と同じように瞬いている。

 同じだ。
 何も、変わっていない。

 聖はベンチに座り、空を見上げた。
 その肩が、小さく震え始める。

 ――ここで、俺は言わなきゃいけない。

 そう思った瞬間、世界が、ほんの少しだけ俺を許した気がした。
聖は、泣きながら空を見ていた。

 星を見た記憶があるわけじゃない。
 俺は朝に死んだ。
 星を見上げる前に、世界から落ちた。

 それでも、この公園は何度も通った場所だ。
 夜に散歩して、意味もなく座って、くだらない話をした。
 だからきっと――あの頃と変わらない星なんだと、bは思っている。

「……ごめん」

 声が、こぼれた。

 祈るつもりだった。
 吐息みたいに、ただ想いが漏れただけだった。

「……え?」

 聖の肩が跳ねる。

 ゆっくり、ゆっくり振り向いて――
 次の瞬間、感情が爆発した。

「な、なんで……?
 え? は? なんで?
 ちが、え? 圭佑っ!うそ、だろ……?」

 意味にならない言葉を、次々に吐き出す。
 息が乱れて、声が震えて、涙が止まらない。

 俺が見えている。

 分かってしまった瞬間、胸の奥が締めつけられた。

「……なぁ」

 興奮する聖の手を、そっと取る。
 今度は、ちゃんと触れた。

「時間がないんだ。お願いだ、話を聞いてくれ」

 必死に諭すみたいに言うと、bは唇を噛んで、何度も頷いた。

「あの日……」

 言いかけた瞬間、聖の呼吸が止まる。

「俺はお前にプロポーズ、するつもりだった」

 その一言で、胸を撃たれたみたいな顔をした。

 俺は慌てて続けようとして、でも途中で遮る。

「ここ……星、綺麗だろ?」

 空を指さす。

「ほら。な?」

 聖は泣きながら空を見て、また泣いた。

「恥ずかしくてさ。言えなくて」

 言葉が、どんどん早くなる。

「だからケーキ買って帰ろうと思って……ほら、あそこの角のケーキ屋。
 お前、あそこ好きだろ? いつもチョコのやつ……」

 笑おうとして、喉が詰まった。

「すきだから…だから……忘れてくれ!」

 感情が、先に崩れ落ちる。

「俺を忘れて……幸せに……っ」

 息が詰まり、声が裏返る。

「……っ、いや! ダメだ!」

 頭を振る。

「やっぱりダメだ! 忘れるな!」

 必死で、縋るみたいに。

「忘れないでくれ……ごめん、ごめん!
 わがままなの分かってる……!愛しているんだ!お前を!一生!」

「忘れるわけないだろ!」

 聖が叫ぶ。

「ずっとだ! ずっと覚えてる!
 お前の声、顔、暖かさ……全部、全部覚えてるよ!」

 そのまま、強く抱きしめられる。
 口づけられて、視界が滲んだ。

「あ……」

 体が、薄れていく。

 腕が透けて、指先が消えていく。

「生きろ」

 震えながら、笑う。

「ちゃんと、生きろ」

 聖は泣きながら、俺を見上げて――

「バカ……っ」

 声を絞り出す。

「バカバカバカ! 本当にバカ……!」

 それでも、最後に息を吸って、空に向かって叫んだ。

「……愛してるー!!」

 その声が、星の下に溶けて――
 俺は、完全に消えた。

その夜、聖は家に帰った。

 鍵を差し込み、回して、ドアを開ける。
 ただそれだけのことに、ひどく時間がかかった。

 電気をつけた瞬間、目に飛び込んできたのは散らかった部屋だった。
 床に脱ぎ捨てた服。
 空のペットボトル。
 埃をかぶったテーブル。

 ――ああ。

 今まで、何も見ていなかったんだと、ようやく分かった。

 その場に座り込み、声を押し殺して泣いた。
 でも、あの夜みたいに壊れることはなかった。

「……ちゃんと、生きろって」

 呟くと、胸の奥が痛んだ。

 次の日、聖はカーテンを開けた。
 眩しさに目を細めながら、朝の光を受け入れる。

 ゴミをまとめ、床を拭き、洗濯機を回した。
 一つ終えるたびに、心臓が少しずつ重くなる。

 ――生きている。

 仕事を探し始めたのは、それから少し後だった。
 面接の帰り、角のケーキ屋の前で足が止まる。

 チョコレートケーキを一つ買って、家で食べた。
 甘くて、少しだけ、苦かった。

 泣いた。

 それでも、食べきった。

 圭佑の両親の前で、頭を下げたのは春だった。

「……一緒に、暮らさせてください」

 声は震えていたけれど、逃げなかった。

 家には、圭佑の痕跡が溢れていた。
 写真。
 癖のある字。
 使い込まれた物たち。

 それらはもう、刃物じゃなかった。
 触れると痛むけれど、確かに温度があった。

 時間は、止まらなかった。

 圭佑の姉の子どもが生まれ、歩き、言葉を覚えた。
 聖は名前を呼ばれ、手を引かれ、笑った。

 夜に、夢を見ることもあった。
 あの公園。
 星の下。
 触れられた手。

 目が覚めると、胸に静かな寂しさが残る。
 でも、絶望ではなかった。

 年を取った。

 白髪が増え、膝が痛み、息が上がるようになった。
 それでも、季節は巡り、日常は続いた。

 七十五歳の冬。

 ベッドに横になりながら、聖は思う。

 ――ちゃんと、生きた。

 それは誇りじゃない。
 報告だった。

 目を閉じると、誰かが手を取る。

 温かい。

「……来たのか」

 涙が、頬を伝う。

「待たせたな」

 隣には、変わらない笑顔の圭佑がいた。

「大丈夫だ」

 圭佑が言う。

「向こうは、寒くない」

 聖は、ゆっくり息を吸って、微笑った。

「……愛してる」

 その言葉を最後に、静かに息を引き取る。

 夜は、完全に明けた。

 二人は手を繋いだまま、同じ場所へ向かう。

 一緒なら、どこでもよかった。

 ――終わり。