あの夏祭りの夜、僕が泣いた理由


「っ」

 僕は息を呑んで顔を上げた。確かに火口くんの声がしたからだ。
 優しげで、心地の良い――いつもの声だった。

 慌てて視線を走らせると、鳥居をくぐって境内の方へと向かう火口くんが見えた。
 柔和な微笑を浮かべ、首だけで振り返りながら僕を一瞥している。

「火口くん!」

 僕は咄嗟に名前を呼んだ。手を伸ばしかけ、追いかけようと足を踏み出したのだが、帰る人の波が僕の行く手を阻む。逆方向に進もうとしている僕は、何度か立ち止まり、その内に――店じまいをしている焼きそばの出店の前で、火口くんを見失った。

「……」

 見えた。確かに見えた。火口くんが歩いていて、僕の名前を呼んだ。
 ――火口くんは、きちんと約束を覚えていてくれたのだ。

 何度も周囲を見渡すが、火口くんが見つからない。

 とはいえ、出店の並ぶ場所は一本道だから、彼が引き返してきていない以上、まっすぐに進めば会えるはずだ。

 僕は走り出したかったが、そうすれば人目が僕に向くだろうし、帰る人々とは逆方向だから誰かにぶつかってしまうかもしれない。そう考えて、必死で焦りを制しながら、僕は人の合間を縫って、早足で歩いた。

 しかし、周囲に誰もいなくなり、敷地の隅にある要石の祠の前まで来ても、僕は火口くんに会えなかった。見間違いだったのだろうか?

 会いたいという僕の想いが、幻想を見せたのだろうか?

 僕はそう考えてから、首を振った。見間違えるはずがない。

 だとすれば、僕にはまた火口くんが見えなくなってしまったか、あるいは――さらに先に、火口くんが進んだのだという事になる。

 ……僕は、再び火口くんが見えなくなってしまったと考えた途端、恐怖に駆られ、体が震えた。小さくかぶりをふり、まぶたを伏せる。ちらりと先程見えた火口くんは、僕がどちらの色を買うか迷った浴衣――紺色の浴衣を着ていた。

 確かに僕は、火口くんを見た。見えた。火口くんは、今この御遼神社のどこかにいるはずだ。そう考えると、僕は認められなかった。火口くんがまた見えなく――いなくなってしまう事を、認めるのが怖い。

 だが、この先に広がっているのは、神社の脇の深い林だ。
 急な坂に杉の木がいくつも生えている。

 ――通称、迷いの林だ。本当の名前は、違ったはずだけど。

 祭りの夜に立ち入ると、神隠しにあうなんていう伝承もあるし、普段立ち入っても、行逢神に遭遇するとも言われている。僕が火口くんと発表をした時にも扱った。

 けれど、ここまでの道中で遭遇しなかったのだから、僕に見える火口くんがいるとしたら、この林の中しかない。そう考えている内に、僕は自然と足を動かしていた。どうしても、火口くんに会いたかった。

 暗い林の中に入ると、背が高い木々のせいで、月明かりすら見えなくなった。
 真っ暗な中で、土で出来た坂道を、僕は周囲を見渡しながら進む。
 もう人目を気にする必要はないから、ほとんど僕は走っていた。

 誰もいない。蝉の鳴き声すら聞こえない。そう思った時、僕は蚊子の音に気づいた。

「防虫スプレーをしてくるのを忘れた……」

 どうしてこんな時に、鬱陶しい蚊子がまとわりついてくるのか。それは僕がスプレーを忘れたからだが、今はそれどころでは無いから、溜息をついてから、蚊子を気にしない事にした。

 その内に息切れがしてきた。
 僕は、どんどん林の奥深くまで進んでいく。
 祭りの夜だから誰もいないのは当然だし――火口くんだって、ここにいる保証はない。

 単純に、僕が会いたいと願って、こちらにいるかもしれないという僅かな希望に縋っただけだ。そう思えば悲しくなってきて、思わず立ち止まり、俯いた。

 するとまた、蚊子が飛んでいる。本当に、空気を読んで欲しい。
 こんなに辛い気持ちの時に、蚊子に悩まされる余裕なんて無いのに。

 そう考えて、僕は半ば八つ当たり気味に、蚊子を手で振り払おうとした。

「ッ」

 そして、凍りついた。僕は、蚊子を振り払ったはずなのに、僕の手が触れる直前で、それは霧のように変わり、急に手首が現れたのだ。その手が、僕の振り上げていた右手首をきつく掴む。恐る恐るその手の主を見ると――そこには、悠然と笑う夏目先生が立っていた。

「何をしているんだい? 透花院くん」
「せ、先生……先生こそ、どうして、ここに……?」

 というより、いつどうやって現れたのだろう?蚊子を振り払う直前、僕は周囲を確かに見ていたが、どこにも人影など存在しなかった。

「私は、常に美味しい餌を求めているからね。美味しそうな餌がある場所には、大体足を運んでいるよ」

 夏目先生の言葉に、僕は驚いて上がっていた息を落ち着けながら、何度も瞬きをした。

「餌……?」
「私は吸血鬼だからねぇ。コウモリよりも、より血を得やすい姿で、君のように美味しい血液の持ち主をいつも狙っている。透花院の人間の血は、非常に美味だ」

 狼狽えて僕は、一歩下がろうとした。すると僕の手首を握る先生の手に力がこもった。
 普段ならば、僕は笑い飛ばす。
 しかし、この時の先生の瞳は、あまりにも獰猛そうで、獲物をとろうとしている獣に見えた。

「蚊子の姿ではなく、是非一度、君には牙を突き立ててみたかったんだ」

 先生の目が、闇のように光った時、ゾクリと背筋に恐怖が走り、僕は逃れようとした。
 しかし先生の指が僕の手首に食い込み、離れない。

「っ……離し――」
「祭りの夜は、この林には魔が満ちる。どの道、君は無事には帰れないだろう。私に素直に喰べられる方がマシだと思うがね」
「――止め」

 僕が制止しようとした時、先生が薄い唇を開いた。
 いつもは見えない――牙が覗いている。息が凍りつく。
 逃げようとした僕を強引に引き寄せ、先生が楽しそうに口を開けた。

 ――噛まれる。

 そう覚悟して、僕はギュッと目を閉じた。

 瞬間、僕は後ろから誰かに腕で引き寄せられ、目を開けた。
 同時に、真正面には青い炎が舞っていて、目を瞠った先生が咄嗟に飛び退いたのが分かる。

「……」

 恐る恐る僕が振り返ると、そこには、火口くんが立っていた。
 僕を片腕で庇いながら、非常に冷ややかな眼差しで、火口くんは夏目先生を睨めつけている。

「――やぁ、火口くん」

 先生はそう言って笑ったが、心なしか表情が強ばっていた。

 周囲には禍々しい……というよりも、見る者を絶対的に畏怖させるような、ある種神々しいのに、恐ろしい青い炎が舞っている。僕と先生の間には火柱のように炎があって、さらに先生の周囲には、宙全体に青い炎がいくつも揺らめいていた。

「君はここで何をしているんだい?」
「――あまり頭がよろしくない様子の紡くんが、何故なのか危険な林に入っていくのが見えたので、少々心配になりまして」

 僕が最初に会った時以来、初めて聞く、火口くんの淡々とした冷たい声が響く。

「確かにねぇ。今夜は、稲荷達が林で官位を、この神社の神様から頂戴する日でもある。君と違って、妖狐は食欲旺盛だ。血肉を特に好む。私のように紳士でも無いから、透花院くんのような格好の餌は、まず生きては帰る事が出来ないだろうね。普段見えない分、透花院くんは強力な魔には、非常に弱い」

 夏目先生は、少し距離を取ってから、周囲の狐火を見渡しつつそう言った。

「透花院くんが僕を見えない事を、ご存知だったんですか?」
「ああ。共同研究の打ち合わせを、君がすっぽかしたと聞いた日から、気づいていたよ」
「――どうして、その時点で教えて下さらなかったんです?」
「火口くんが、いつ気づくか楽しみだったからとしかいえないねぇ」

 すると火口くんの瞳が一層険しくなり、あからさまに不機嫌そうな顔になった。

「そうですか。それはそうと、教え子を躊躇なく餌にするのは、いかがなものかと思いますが」
「私なりの善意だ。私は透花院くんの極上の血液を少し貰ったら、無事にお礼として、林の外まで送ってあげるつもりだったんだけれどね。大切な教え子だからこそ」
「不要です。僕が、責任を持って送りますので。僕にとっては大切な友達ですので」

 火口くんの声に、夏目先生は少し沈黙した後、短く吹き出した。

「友人、か。人間と友人になるというのは、実に面白い刺激の一つだ。火口くん、人間の学問も面白いが、人間も実に興味深い生き物だ」
「ご教授頂かなくても、既に僕はそれを知っています」
「――それもそうか。君はブラックベリー博士の愛弟子だものね。ああ、今はウラドと名乗っているんだったか」

 そう言って喉で笑うと、不意に夏目先生の姿が闇に溶けた。霧に変化したらしい。
 呆然とそれを見ていた僕は、思わず火口くんの腕に触れた。
 触ってみる。僕を庇ってくれている腕が、確かにそこにある。見える。触れられる。