炊飯器

研究の日々は続いた。あの石は、少なくとも見た目はただの石だった。
見た目が石である以上、石でない可能性を考え始めるのは、たぶん研究者の悪癖だ。
机の上に置く。眺める。持ち上げる。落としそうになって慌てて掴む。
落としそうになった、という事実だけが、すでにこの石をただの石以上の存在にしてしまっている気がした。

「落とすなよ」と、誰に言われたわけでもないのに、そう思った。
落とした瞬間、この石は「落とされた石」になってしまう。
それはもう、観測だ。
僕は石を落とさなかった、その代わりとして、名前をつけてあげることにした。
名前をつけるのは、観測の一種だと思う。
少なくとも僕は、そういう主張をするタイプの人間だ。
「未確定石」訳して「ミセキ」だ。
我ながらひどいネーミングセンスだが、仮名だからいいとしよう。
仮の名は、いつだって逃げ道だ。
僕はその石を筆箱に入れて学校に持っていった。
理由は特にない。
理由がないという理由は、だいたい後から理由になるのだ。
昼休みになると渡辺心愛が僕の机を覗き込んできた。

「それ、なに?」

彼女はいつも、重要なところから聞いてくる。

「んー…石?」
「それは見れば分かるよ」
「じゃあ、まだ分からない石」

僕は説明を諦めた。
説明した瞬間、説明できるものになってしまうからだ。研究をする意味が無くなる。説明できるものは、だいたい退屈だ。

「ふーん」

そう言ったきり、渡辺心愛はそれ以上追及してこなかった。
追及しない、という選択をしたのだとしたら、それはそれで一種の洞察力だと思う。
たいていの人間は、分からないものがあると、分からなくなくなるまで触ろうとする。
しかし、彼女は触らなかった。
正確には、触る前に一度、触る自分を疑った。

「それ、重い?」

まあ、結局触るんだけど。

「石だからね」
「答えになってない」
「質問もそうだった」

渡辺心愛は僕の筆箱を勝手に開けた。
勝手に、というのは重要な修辞だ。彼女はいつも勝手にやる。でも、怒られたことはない。
それは彼女が「怒られない種類の勝手」を厳密に選んでいるからで、つまり彼女は倫理的にずるい。

彼女はミセキを二本の指でつまみ上げた。
その瞬間、教室の空気が、ほんのわずかに固くなった気がした。
気がしただけだ。たぶん。
たぶん、という言葉は、僕の人生を支える三本柱のうちの一本だ。

「落とすなよ」

思った。口には出さなかった。
口に出したら、忠告になってしまう。忠告は因果を発生させる。

「落としたらどうなるの?」

彼女は、落とす前提で話を進めるタイプの人間だった。

「石が落ちる」
「それだけ?」
「それ以上を期待するのは、観測者の傲慢だと思う」
「難しいこと言うね」

難しいことを言っている自覚はない。簡単なことを、わざと面倒な言い方で言っているだけだ。
これは性格の問題であって、知性の問題ではない。
性格の問題は、直らない。
渡辺心愛はミセキをしげしげと眺めた。
眺める、という行為も観測だ。
つまりこの石は、すでに僕だけの未確定ではなくなっている。

「名前あるの?」
「ある」
「聞いていい?」
「聞くだけなら」
「じゃあ聞くね」

彼女は間を置いた。
間を置くのがうまい。
その間に、僕は三通りの未来を想定した。

「……ミセキ?」
「なんで分かった」
「分かりやすいから」

最悪の未来だった。

「未確定石、でしょ」

彼女は笑わなかった。
笑われなかった、という事実だけが、僕のネーミングセンスを致命傷から救った。

「仮の名前って、便利だよね」
「逃げ道だから」
「逃げ道は、大事だよ」
彼女はそう言って、ミセキを机の上に置いた。
置いた、という行為で、この石はまた一つ状態を変えた。
落とされなかった石。
名前を持つ石。
二人に観測された石。
「ねえ」
渡辺心愛は、何でもない調子で言った。
何でもない調子で言うときほど、彼女は何でもなくないことを言う。
「これさ」
「うん」
「ほんとに、ただの石だと思ってる?」
その問いは、問いとしては遅すぎた。
僕はもう、思っていなかった。