駅舎の明かりが見えてきた。
並んだ自動改札機を、青白い電灯が頼りなさげに照らしている。
「じゃあ俺、こっちだから」
またね、と彼が言う。その言葉に、何故か少しだけ安堵してしまう。
「うん、」
「また」と言い掛けて、口を噤んだ。
「…待って」
くるっと、綴が振り返る。その双眸に、偽物めいた明るさはもう無い。
「スマホ持ってる?」
私の問いに、彼は黙って頷いた。
ポケットからスマホを取り出してメッセージアプリを立ち上げ、アカウントのQRコードを表示させる。綴の目が少し戸惑ったように揺れた。
「詩、書ける人探してるんでしょ」
メッセージアプリのQRコード読み取りカメラを立ち上げていたらしい綴が、一瞬動きを止めた。
「……出来たら、送るから」
らしくない。いつも適当に他人と付き合ってきた、私なのに。詩なんて、誰にも見せる価値がないと思っていたのに。
綴が顔を上げた。その双眸が、純粋な子供のそれのように輝きを増していく。
「良いの?」
ひとつ、頷く。
手に持ったスマホが、通知を告げる。
手元を見ると、「綴」と書かれた「新しい友だち」から万歳をして喜ぶ犬のスタンプが送られてきていた。
「………ありがとう」
少しはにかんだように、綴が笑う。
今まで沢山見てきた彼のどの笑顔よりも、自然で美しい笑みだった。
からん、という音が、耳に響く。
「……こんにちは」
「あ、歌さん。いらっしゃい」
「こんにちは」
振り返った透夏さんと維月さんが笑った。維月さんは何故か星來さんが座る椅子の真後ろに立っている。
「あ、歌だ。歌、いま星來さんがね、維月さんに遊ばれてるの」
「……は?」
「なんて人聞きの悪い」とカウンターの奥から透夏さんが言って、少し笑う。
「私がポニーテールしか出来ないって言ったらハーフアップをやってくれたことがあって。そこからなんかハマっちゃったんだよね、この人」
星來さんの声を聞いて、やっと維月さんが彼女の髪を結っている状況を理解した。
「暇だったのもあるけど。凝り性でごめんね」
維月さんが全く申し訳なさを感じさせない声で言う。星來さんの髪を編み込んでいく彼の手つきは、慣れている人特有の熟れ方をしている。
「できたよ」
維月さんがそう言うと、星來さんが椅子からすっと立ち上がった。名前は分からないけど、見慣れない髪型。簡単ではないのはすぐに分かった。
「どう?」
維月さんに訊かれて、星來さんは静かに首を傾げる。
「よく分かんない。いつもと違う」
「そりゃ、いつもと違う結び方してるんだから」
綴が横からそう突っ込んで、維月さんと一緒に軽やかに笑った。
「さて、お待たせしてごめんね歌ちゃん。何か飲む?」
星來さんにそう問われて、ひとつ頷く。
「比較的甘いものありますか?」
「カフェオレがそうかも」
「じゃあ、いただきます」
カウンターチェアに座って財布を取り出す私を、綴が不思議そうに見ている。私は怪訝に思って僅かに眉を顰めた。
「歌がここで飲み物頼んでるの初めて見た」
そうだっけ、と思いながら、前回は綴がこの空間に居なかったのを思い出す。
「ちょっとね。書こうと思って」
この空間で書くのが、一番似合いそうな気がしたから。
「詩?」
「……それ以外何があるの」
ぱぁっという効果音が付きそうなくらい、綴の目が嬉しそうに輝いた。
「あ、すみません透夏さん、ヘッドホン着けても良いですか?」
「良いよ。ていうかそれ、僕の許可云々の話じゃないでしょ」
あれ確かにそうかも、と思った私を見て、透夏さんが楽しそうに笑った。
「俺、見てても良い?」
ヘッドホンを鞄から取り出した私に、綴がさっきの目の輝きをそのままに訊く。
「集中できないから止めて」
「手痛い……」
絵に描いたようにしょんぼりする彼に、少しだけ笑ってしまう。表情にまで表れたのかは、よく分からなかった。
湯気をたてるマグカップが、すっと視界の隅に置かれた。一瞬スマホから顔を上げて会釈をすると、透夏さんがにこりと笑った。
着けたヘッドホンからは何も流れていないから、薄いガラス越しに周りの声がぼんやりと聞こえてくるような感覚に陥る。無音ではない。でも、声を会話としては認識できない距離。
カフェオレを一口飲んで、ふっと意識をあっち側に沈め込んだ。
青く透き通った水の中にいるような感覚。それでいて、探しているものは一向に手の中に掴めない。
数行書いて、止まってしまった。
薄いガラス越しに、綴の姿が見える。マグカップを眺めているのかと思いきや、その少し上をじっと見ている。
『何見てるの?』
水の中みたいにくぐもった声。
綴の顔が少し驚いたように此方を見て、ふっと笑って言う。声が遠い。
『湯気見てた。動きが綺麗で』
なんだそれ。
ふっと笑ってしまう。少し、呼吸がしやすくなった。
再び、透き通った水の中に沈んでいく。
すっと実体を持った言葉が、目の前を横切るのを感じた。
あぁ。
見つけた。
ことばの、片鱗を。
そこから先は、早かった。
川が流れるように、火花が弾けるように、言葉が浮かぶ。浮上してくる。
逃さないように、融かしてしまわないように。
たたた、と指がスマホの画面を走る音だけが、微かに聞こえる。もう、ガラス越しの音も景色も、感じられない。
言葉と、私と。
真っ直ぐに向かい合って、溶け合っていく。
あぁ、これは。
私の言葉だ。
私の想いだ。
初めてはっきりと、そう思った。
ヘッドホンに手をかけて、すっとそれを首に掛けた。ふぅ、と息を吐く。時計を見ると、小一時間が経っていた。ここまでの短時間で完成したのは久しぶりだ。
「あ、おかえり歌ちゃん」
透夏さんがそう言ってふわっと笑った。一瞬ポカンとしてから、私も少し笑ってしまう。何か言葉を返す気力はなかった。
マグカップを引き寄せて、静かに傾ける。冷ましてしまったのは申し訳ないけど、空っぽになった脳が少し回復するのが分かった。
カップをカウンターに置いて、ぐっと伸びをする。軽く首を回すと、ぽきっと音を立てた。
「おつかれさま。すごい集中力だったね」
透夏さんに声を掛けられて、顔を上げた。ふっと表情が緩んでいくのが分かる。
「1回入るとなかなか戻って来られなくて。すみません、没頭してしまって」
「全然。あぁでも分かるなぁ、別次元の……向こう側に行っちゃう感覚」
前は透夏って名前で音楽活動してたらしいから──
いつかの綴の言葉が、耳の奥に蘇る。そうか、と思う。この人も、書いていたのか。
「……透夏さんって」
穏やかな表情で、彼が此方を向いた。
「どんなうた書いてたんですか」
へぇ、と透夏さんが少し愉快そうに笑う。
「歌ちゃんが興味持つとは思わなかったな」
「……何だと思ってるんですか」
芝居がかった仕草で軽く睨むと、「ごめんごめん」と言って透夏さんがまた笑った。教えてはくれないらしい。
「あ、歌。終わった? おつかれさまー」
「一応、一区切りは」
そう返して荷物をまとめ始める私を、綴は少し不思議そうに眺めている。
「じゃあ、私今日はこれで失礼します」
「はーい。気を付けて帰ってね」
透夏さんが軽い調子でそう言って、綴の目の奥に明確な戸惑いが浮かぶ。まだ時間的に遅いわけでもないのになんで、といったところだろうか。何より、私はまだ彼にあれを渡していない。
「またね」「気を付けてね」という星來さんと維月さんの言葉にも頷いて、扉に手を掛ける。綴は馬鹿みたいに突っ立っていた。
ふっと鼻から息を吐いて、彼の方を振り返る。
「ねぇ、ちょっと」
口実とはいえ、まさか私の口からこんな言葉が飛び出す日が来るとは。
「JKを1人で帰らせる気?」
私の目を一瞬覗き込むように眺めた綴が、ふっと力を抜くように笑った。
「歌、絶対そういう扱い嫌がる人でしょ」
よく分かっていらっしゃる。
「すいません、ちょっと駅まで送ってきます」
行ってらっしゃい、と手を振る3人にもう一度頭を下げて、私たちはスタジオを出た。
並んだ自動改札機を、青白い電灯が頼りなさげに照らしている。
「じゃあ俺、こっちだから」
またね、と彼が言う。その言葉に、何故か少しだけ安堵してしまう。
「うん、」
「また」と言い掛けて、口を噤んだ。
「…待って」
くるっと、綴が振り返る。その双眸に、偽物めいた明るさはもう無い。
「スマホ持ってる?」
私の問いに、彼は黙って頷いた。
ポケットからスマホを取り出してメッセージアプリを立ち上げ、アカウントのQRコードを表示させる。綴の目が少し戸惑ったように揺れた。
「詩、書ける人探してるんでしょ」
メッセージアプリのQRコード読み取りカメラを立ち上げていたらしい綴が、一瞬動きを止めた。
「……出来たら、送るから」
らしくない。いつも適当に他人と付き合ってきた、私なのに。詩なんて、誰にも見せる価値がないと思っていたのに。
綴が顔を上げた。その双眸が、純粋な子供のそれのように輝きを増していく。
「良いの?」
ひとつ、頷く。
手に持ったスマホが、通知を告げる。
手元を見ると、「綴」と書かれた「新しい友だち」から万歳をして喜ぶ犬のスタンプが送られてきていた。
「………ありがとう」
少しはにかんだように、綴が笑う。
今まで沢山見てきた彼のどの笑顔よりも、自然で美しい笑みだった。
からん、という音が、耳に響く。
「……こんにちは」
「あ、歌さん。いらっしゃい」
「こんにちは」
振り返った透夏さんと維月さんが笑った。維月さんは何故か星來さんが座る椅子の真後ろに立っている。
「あ、歌だ。歌、いま星來さんがね、維月さんに遊ばれてるの」
「……は?」
「なんて人聞きの悪い」とカウンターの奥から透夏さんが言って、少し笑う。
「私がポニーテールしか出来ないって言ったらハーフアップをやってくれたことがあって。そこからなんかハマっちゃったんだよね、この人」
星來さんの声を聞いて、やっと維月さんが彼女の髪を結っている状況を理解した。
「暇だったのもあるけど。凝り性でごめんね」
維月さんが全く申し訳なさを感じさせない声で言う。星來さんの髪を編み込んでいく彼の手つきは、慣れている人特有の熟れ方をしている。
「できたよ」
維月さんがそう言うと、星來さんが椅子からすっと立ち上がった。名前は分からないけど、見慣れない髪型。簡単ではないのはすぐに分かった。
「どう?」
維月さんに訊かれて、星來さんは静かに首を傾げる。
「よく分かんない。いつもと違う」
「そりゃ、いつもと違う結び方してるんだから」
綴が横からそう突っ込んで、維月さんと一緒に軽やかに笑った。
「さて、お待たせしてごめんね歌ちゃん。何か飲む?」
星來さんにそう問われて、ひとつ頷く。
「比較的甘いものありますか?」
「カフェオレがそうかも」
「じゃあ、いただきます」
カウンターチェアに座って財布を取り出す私を、綴が不思議そうに見ている。私は怪訝に思って僅かに眉を顰めた。
「歌がここで飲み物頼んでるの初めて見た」
そうだっけ、と思いながら、前回は綴がこの空間に居なかったのを思い出す。
「ちょっとね。書こうと思って」
この空間で書くのが、一番似合いそうな気がしたから。
「詩?」
「……それ以外何があるの」
ぱぁっという効果音が付きそうなくらい、綴の目が嬉しそうに輝いた。
「あ、すみません透夏さん、ヘッドホン着けても良いですか?」
「良いよ。ていうかそれ、僕の許可云々の話じゃないでしょ」
あれ確かにそうかも、と思った私を見て、透夏さんが楽しそうに笑った。
「俺、見てても良い?」
ヘッドホンを鞄から取り出した私に、綴がさっきの目の輝きをそのままに訊く。
「集中できないから止めて」
「手痛い……」
絵に描いたようにしょんぼりする彼に、少しだけ笑ってしまう。表情にまで表れたのかは、よく分からなかった。
湯気をたてるマグカップが、すっと視界の隅に置かれた。一瞬スマホから顔を上げて会釈をすると、透夏さんがにこりと笑った。
着けたヘッドホンからは何も流れていないから、薄いガラス越しに周りの声がぼんやりと聞こえてくるような感覚に陥る。無音ではない。でも、声を会話としては認識できない距離。
カフェオレを一口飲んで、ふっと意識をあっち側に沈め込んだ。
青く透き通った水の中にいるような感覚。それでいて、探しているものは一向に手の中に掴めない。
数行書いて、止まってしまった。
薄いガラス越しに、綴の姿が見える。マグカップを眺めているのかと思いきや、その少し上をじっと見ている。
『何見てるの?』
水の中みたいにくぐもった声。
綴の顔が少し驚いたように此方を見て、ふっと笑って言う。声が遠い。
『湯気見てた。動きが綺麗で』
なんだそれ。
ふっと笑ってしまう。少し、呼吸がしやすくなった。
再び、透き通った水の中に沈んでいく。
すっと実体を持った言葉が、目の前を横切るのを感じた。
あぁ。
見つけた。
ことばの、片鱗を。
そこから先は、早かった。
川が流れるように、火花が弾けるように、言葉が浮かぶ。浮上してくる。
逃さないように、融かしてしまわないように。
たたた、と指がスマホの画面を走る音だけが、微かに聞こえる。もう、ガラス越しの音も景色も、感じられない。
言葉と、私と。
真っ直ぐに向かい合って、溶け合っていく。
あぁ、これは。
私の言葉だ。
私の想いだ。
初めてはっきりと、そう思った。
ヘッドホンに手をかけて、すっとそれを首に掛けた。ふぅ、と息を吐く。時計を見ると、小一時間が経っていた。ここまでの短時間で完成したのは久しぶりだ。
「あ、おかえり歌ちゃん」
透夏さんがそう言ってふわっと笑った。一瞬ポカンとしてから、私も少し笑ってしまう。何か言葉を返す気力はなかった。
マグカップを引き寄せて、静かに傾ける。冷ましてしまったのは申し訳ないけど、空っぽになった脳が少し回復するのが分かった。
カップをカウンターに置いて、ぐっと伸びをする。軽く首を回すと、ぽきっと音を立てた。
「おつかれさま。すごい集中力だったね」
透夏さんに声を掛けられて、顔を上げた。ふっと表情が緩んでいくのが分かる。
「1回入るとなかなか戻って来られなくて。すみません、没頭してしまって」
「全然。あぁでも分かるなぁ、別次元の……向こう側に行っちゃう感覚」
前は透夏って名前で音楽活動してたらしいから──
いつかの綴の言葉が、耳の奥に蘇る。そうか、と思う。この人も、書いていたのか。
「……透夏さんって」
穏やかな表情で、彼が此方を向いた。
「どんなうた書いてたんですか」
へぇ、と透夏さんが少し愉快そうに笑う。
「歌ちゃんが興味持つとは思わなかったな」
「……何だと思ってるんですか」
芝居がかった仕草で軽く睨むと、「ごめんごめん」と言って透夏さんがまた笑った。教えてはくれないらしい。
「あ、歌。終わった? おつかれさまー」
「一応、一区切りは」
そう返して荷物をまとめ始める私を、綴は少し不思議そうに眺めている。
「じゃあ、私今日はこれで失礼します」
「はーい。気を付けて帰ってね」
透夏さんが軽い調子でそう言って、綴の目の奥に明確な戸惑いが浮かぶ。まだ時間的に遅いわけでもないのになんで、といったところだろうか。何より、私はまだ彼にあれを渡していない。
「またね」「気を付けてね」という星來さんと維月さんの言葉にも頷いて、扉に手を掛ける。綴は馬鹿みたいに突っ立っていた。
ふっと鼻から息を吐いて、彼の方を振り返る。
「ねぇ、ちょっと」
口実とはいえ、まさか私の口からこんな言葉が飛び出す日が来るとは。
「JKを1人で帰らせる気?」
私の目を一瞬覗き込むように眺めた綴が、ふっと力を抜くように笑った。
「歌、絶対そういう扱い嫌がる人でしょ」
よく分かっていらっしゃる。
「すいません、ちょっと駅まで送ってきます」
行ってらっしゃい、と手を振る3人にもう一度頭を下げて、私たちはスタジオを出た。



