うたうたい

からん、という音が鳴る。
そっと顔を覗かせると、不安げな表情を浮かべる維月さんと星來さん、それからいつも通りに見える透夏さんが見えた。あぁ、帰ってきたのか。
一歩踏み出そうとすると、かくんと僅かに後ろに引っ張られた。引っ張られた、というよりは、(いかり)で繋ぎ止められたかのような。
振り返ると、私の手首を握ったまま綴が俯いている。唇を噛んで下を向く彼が何だか子供のように見えて、少しだけ可笑(おか)しかった。
「……ほら」
行くよ、という言葉は呑み込んで、スタジオの中に入る。綴は黙ってついて来た。
「いましたよ」
3人を安心させるように、少しだけ笑ってみせた。
星來さんが音を立てて此方にやって来る。何かを堪えているかのように、その双眸が痛々しく揺れた。綴の方に、私の後ろに、転がるように走っていく。
ぱっと綴の手が私の手首から離れて、少し驚いた。振り返ると、星來さんが綴に縋り付くように彼を抱きしめていた。綴の瞳が驚いたように見開かれていく。私は星來さんを見て、人が震えているのは見ただけでも分かるのかと、見当違いな所に驚いてしまう。
彼女が泣いているのを、私は初めて見た。

「はい」
とん、と音を立てて、目の前に湯気を立てるマグカップが置かれる。椅子に座ったままカウンターの木目を眺めていた私は、少し驚いて顔を上げた。
「……え、あの」
「これは僕の奢り。気にしないで」
ふわっと笑った透夏さんに甘えて、それをするすると此方に引き寄せる。両手で包み込んだ温かさが、ありがたかった。
「綴」
維月さんの声だと気付くのに数秒かかった。何というか、維月さんらしくない。余裕がないというか、感情が透けて見えるというか。
風船が割れるような音が響いて、びくっと身を震わせる。驚いて、振り返る。
維月さんが綴の頬を打った。(にわか)には、信じられないけれど。綴も驚いたように、頬を押さえている。
「……心配した」
維月さんの目が揺れていた。綴の目も、ゆらりと揺れた。
「………ごめんなさい」
水を打ったような沈黙が、広がる。
「維月」
星來さんの声がした。
「気持ちは分かる。でもそれは、感心しない」
「………ごめん」
その言葉が星來さんに向けられたものなのか、綴に向けられたものなのかは、よく分からなかった。
静かな足音に気付いて、また前を向く。
透夏さんが私に渡したものとよく似たマグカップを3つ持って、此方に戻って来る。維月さん、綴、星來さんの前に、等間隔に置かれた。
「はい。僕の奢りね」
ふわっと笑う。手を伸ばして、綴の頭をそっと撫でる。その手が震えていることに、ふと気付いた。
透夏さんがカウンターの向こう側から此方側にやってきて、維月さんの頭を撫でる。星來さんも、同じように撫でる。最後に私の頭に手を置きながら、透夏さんがそっと呟いた。
「…ありがとう」
何と答えるか、少し迷った。
「………はい」
躊躇いがちにそう言うと、透夏さんはほっとしたように笑った。
「透夏さん」
綴が手招きをして、透夏さんがそちらにまた歩いていく。屈んで、というジェスチャーに従った透夏さんの頭を、綴がよしよしと撫でた。
「……どうしたの」
透夏さんが、また笑う。その笑顔は、何だか泣き出しそうに歪んでいた。

「あ、歌ちゃん」
透夏さんに声を掛けられて、顔を上げた。みんながやっと落ち着いてマグカップを口に運び始めた頃だ。
「はい」
「もう遅いし、そろそろ帰らないと不味くない?」
時計を見る。6時を5分ほど過ぎていた。遅い、というほどの時間ではないと思うけど、普段に比べれば遅い時間だ。しかも閉店時間をまわっている。帰路につくべきなのは明白だった。
「そうですね、帰ります。ご馳走様でした」
既に空になっていたマグカップをカウンターの奥の方に押し出して、椅子から立ち上がる。
「歌」
綴に呼ばれて、振り返った。
「俺も一緒に帰って良い?」
維月さんと星來さんが「え」という顔をする。加えて私も。訊ねるように透夏さんを見ると、釣られたように綴も透夏さんの方を見た。透夏さんが綴の目をじっと見る。1秒にも満たないくらいの時間の後、透夏さんがにこっと笑った。
「歌ちゃんが良いなら、良いよ。気を付けてね」
はぁい、と声を上げて、綴が椅子からぽんと飛び降りる。
「歌、良い? 帰ろう」
「……うん」
此奴、ちゃんと尋ねる気ないな。
拒絶する気にもならないのが、不思議だった。

吐く息が、月明かりに白く溶けていく。
「……びっくりした。まさか歌が来るとは思ってなかったから」
隣を歩く綴が、空を見上げながら言った。崖での話だと、すぐに理解する。
「がっかりした?」
「ううん。でも何となく、歌は()めないだろうなって思ってたから」
()めないだろうなって思ってた。
首を傾げる。()めた覚えなどない。それをそのまま口に出すと、彼は少し寂しそうに笑った。
「顔なじみがああいう場所に来るとさ、もう()められたも同然じゃん。目の前で飛ぶわけにもいかないし」
あの場所で、維月さんに声を掛けられたのを思い出す。そういうことだったのか。
「無視しても良かったのに」
素直にそう言うと、綴の表情が痛々しげに歪んだ。
「………無理だよ」
ふ、と息を吐いて、彼が続ける。笑ったようにも見えた。
「それに一切の躊躇がなかったら、歌が来た時点で俺はあの場には立ってなかったよ」
口を閉じる。唾を飲み込む。彼の頬がほとんど腫れていないことに、ふと気付く。
「……怖かった?」
「怖くなかった。でも、……怖くなった」
あぁなるほど、と思う。
すごく、分かる。解ってしまう。
私があの崖に何度も立って、消えたいと願って、それでも飛ばなかった理由を、やっと理解する。飛べなかった、理由を。
怖かったのか。
怖くて、怖くて。怖いから、嫌われて、疎まれて、背を向けられて。しかも一方的な被害者ではなく、加害者というレッテルを自らに貼ることができれば。
飛ぶことよりも、生きることの方が何倍も怖くなれば。
いけると思った。
飛べると思った。
だから。
あぁ、と声が洩れる。
「分かるなぁ」
「……え?」
汽車の煙突から出る煙みたいに、空に白い息が溶けていく。はは、という声が、私の口から零れる。綴の目を見る。ふっと笑う。
「分かるよ、すごく」
本来はもうちょっと、照らしてあげるような言葉を掛けるべきなんだろう。
共鳴するべきポイントは、ここではないんだろう。
でも、私は。
ここで、貴方と響き合う。
共犯者。
「……共犯かぁ」
今度は私の方が、え? と声を上げる番だった。声に出ていただろうか。心の中で慌てる私とは対照的に、何かが吹っ切れたような表情の綴が、私を見て笑った。
「なんかさ、共犯者っぽくない? 一緒に悪いことしてるの」
声に出ていたわけではないらしい。ふっと笑って、答える。
「……悪いこと、考えてるんだよ」
「確かに」と呟いて、彼は笑った。
満月は、冷たい色をしていた。