残光が空と地平の境目を溶かすように燃えている。その静かな光に、目を細める。遠くに潮の香りがする。
「あ、歌」
綴の声がすぐ後ろから聞こえて、びくっと肩を震わせた。何だかんだ、久しぶりに会う気がする。
「………久しぶり」
「久しぶり。元気?」
「おかげさまで」
社交辞令を言う私に、綴がにこっと笑う。それから少し気まずそうに目を泳がせて、続けた。
「…この前は、ごめんね」
「私の方もごめん。取り乱した」
良いよ、とは、言ってやらない。綴が僅かに首を横に振ったように見えた。
「どこか行くの?」
綴はスタジオから出て来たところのように見えた。いつも入り浸っているのに、珍しいことだ。
「ちょっとね。恩人に会いにいこうと思って」
「そう。気を付けて」
「ありがとう。じゃあね」
手を振って、綴が海の方向に歩いて行った。
「……うん」
何かが引っ掛かる。でもそれがわざわざ言語化するほどのものなのか分からなくて、私は黙って彼の後ろ姿を見送った。
「あ、歌さん」
維月さんが此方を振り返ってにこりと笑った。
「こんにちは」
「こんにちは。珍しいね、この時間に。もう今日は誰も来ないかと思ってた」
確かに、普段ここに訪れる時にはまだ夕陽が眩しい時間帯が多かった。日が短いとはいえ、日没後に来るのは初めてかもしれない。
「……学校を出ようとしたら、詩が一気に浮かんで」
あ、と思う。話してしまった。
「歌ちゃん、詩書くの?」
星來さんも奥から出て来て、あぁ最悪だと思う。星來さんが、じゃなくて、1人でも多くの人に知られるのが、嫌だった。
「……詩と名前が付くのかも怪しいですけど」
うーんと維月さんが首を傾げる。何か気に障るようなことを言っただろうか。
「歌さんが詩って思うなら、詩って呼んで良いんじゃないかな」
創っている人の、言葉。
そう毒突く私の言葉が確かに聞こえた。
でも、何故だか肩の力が抜けていくのが分かる。
「……ありがとう、ございます」
ふっと笑う。2人が驚いたように私を見た。
「……俺、そんな感謝されるようなこと言ったっけ?」
「はい」
ポカンとする維月さんに、また笑ってしまう。
「歌ちゃん、何か飲む?」
カウンターの椅子に座った私に、星來さんが振り返って言った。少し考えて、ひとつ頷く。
「………いただきます」
「りょーかい。何が良い?」
そう問われて、前に綴が飲んでいた温かい湯気が立ち上るマグカップを思い出した。鞄から財布を取り出しながら言う。
「…カフェオレで」
維月さんと星來さんが顔を見合わせる。
それから2人が一緒に、嬉しそうに、ふっと笑った。
「そういえば、綴今日来ないな」
「そうだねー」
ふぅふぅとカップに息を吹きかけながら、あれ? と思う。一口飲んで、息を吐いた。甘さと苦味が混ざり合って舌の上で溶けていく。美味しい。
「あの人、来てないんですか?」
「うん。今日はまだ」
毎日来るのに珍しいね、という星來さんの言葉に、維月さんが頷く。
「私、ここの建物の前で会ったので。てっきりもう来たんだと思ってました」
今度は2人が、あれ? という顔をした。
「彼奴、帰るところだったの?」
ぼんやりとしか思い出せなくて、カップを傾ける。優しい甘味で、脳がゆっくりと動いていく。
「帰る、というか。どこかに行くみたいでした。『恩人に会いにいく』とか、何とか」
カップを傾ける。もう中身はほとんど残っていない。こういうところの飲み物はもう少し味わって飲むべきだったんじゃないかと、今更ながら気付いた。
正面から何も声が聞こえてこないことに気が付いて、顔を上げる。2人が、じっと私の方を見ている。
「……歌さん」
「……? はい」
「綴さ、どっちの方向に行った?」
「海の方です。あの、公園の方向」
星來さんと維月さんの表情が、さっと変わる。察しの悪い私も、やっと気付いた。
海の方向。
彼が家族のように慕っていた人。
恩人に会いにいこうと思って──
会いにいく。
会いに行く。……会いに、逝く?
論理が飛躍し過ぎだ。可能性は低い。
でも。
「ちょっと、探してきます」
「え、でも、歌ちゃん」
安心させるように、笑って見せる。
「心当たりのある場所にいなかったら、すぐ帰ってきますから」
「……俺たちも」
「もしあの人がここに来た時に維月さんと星來さんがいなかったら、それこそ驚きますよ。透夏さんも今は居ないんでしょう? 待っていてください」
ぺらぺらと喋り続ける私を、もう1人の私が冷笑しながら眺めている。
馬鹿だ。私1人で探したところで、見つかる可能性は限りなく低い。そもそも私がこんな不確定要素で、しかも心配で動くなんて、らしくない。3人で適当に辺りを探して、「見つからなかった」と結論づける方が楽なのだ。
でも、何故か、動きたかった。
動かずにはいられなかった。
もし、そうなら。
私はきっと、この中で。
一番「そこ」に近い場所に居る。
「閉店までには帰ってきますので」
そう言って、扉を開ける。
外の空気は、身震いするほど冷たい。
「帰ってくる」より、「戻ってくる」の方が自然だったな、なんて思いながら、私は冷たい冬の空の下に駆け出して行った。
あの崖は、月明かりに照らされて薄青く浮かび上がっていた。
青白い光を浴びて、1人の人間のシルエットが、ぼんやりと見える。海を正面に見据えて、座っているように見えた。
吸い寄せられるように、歩いて行く。
吐く息が白い。気温は相当低いはずだ。
夏場は青々としていたはずの芝生が靴とこすれて、さりさりと乾いた音を立てる。人影の少し後ろに立った。これが影踏みなら、私の勝ちだ。
月明かりに照らされて、彼が吐く息が薄青く見える。
「………綴?」
そう声を掛けようとして、止めた。
代わりに彼の隣に行って、そっとそこに座る。
「風邪引くよ」
口を開いて初めて、綴の初めて会った時の言葉が蘇る。彼も、こんな気持ちだったんだろうか。
私の左肩に触れる腕が、震えていた。
「………歌」
「何」
「うた」
「ん」
「………いなくなんないで」
僅かな重みと温もりを感じる。
私の心がそれを拒絶することは、なかった。
「…………善処する」
綴は泣いていた。
星來さんの言う「どうしようもなくなると隠れてしまう子供」の意味が、少し分かったような気がした。
震えている綴の右手に、そっと触れる。包み込むように、握る。ぎゅうっと握り返されたその力の強さに、少し驚いた。
無意識のうちに温かいものだと信じていたそれは、思っていたよりも冷たい。
ふっと、鼻から息を吐く。
満月は、冷たい色をしている。
子供みたいに泣きじゃくる声が、私の心に刺さる。
自分の痛みではないのに、自分の痛みよりも堪えるのが、不思議だった。
「あ、歌」
綴の声がすぐ後ろから聞こえて、びくっと肩を震わせた。何だかんだ、久しぶりに会う気がする。
「………久しぶり」
「久しぶり。元気?」
「おかげさまで」
社交辞令を言う私に、綴がにこっと笑う。それから少し気まずそうに目を泳がせて、続けた。
「…この前は、ごめんね」
「私の方もごめん。取り乱した」
良いよ、とは、言ってやらない。綴が僅かに首を横に振ったように見えた。
「どこか行くの?」
綴はスタジオから出て来たところのように見えた。いつも入り浸っているのに、珍しいことだ。
「ちょっとね。恩人に会いにいこうと思って」
「そう。気を付けて」
「ありがとう。じゃあね」
手を振って、綴が海の方向に歩いて行った。
「……うん」
何かが引っ掛かる。でもそれがわざわざ言語化するほどのものなのか分からなくて、私は黙って彼の後ろ姿を見送った。
「あ、歌さん」
維月さんが此方を振り返ってにこりと笑った。
「こんにちは」
「こんにちは。珍しいね、この時間に。もう今日は誰も来ないかと思ってた」
確かに、普段ここに訪れる時にはまだ夕陽が眩しい時間帯が多かった。日が短いとはいえ、日没後に来るのは初めてかもしれない。
「……学校を出ようとしたら、詩が一気に浮かんで」
あ、と思う。話してしまった。
「歌ちゃん、詩書くの?」
星來さんも奥から出て来て、あぁ最悪だと思う。星來さんが、じゃなくて、1人でも多くの人に知られるのが、嫌だった。
「……詩と名前が付くのかも怪しいですけど」
うーんと維月さんが首を傾げる。何か気に障るようなことを言っただろうか。
「歌さんが詩って思うなら、詩って呼んで良いんじゃないかな」
創っている人の、言葉。
そう毒突く私の言葉が確かに聞こえた。
でも、何故だか肩の力が抜けていくのが分かる。
「……ありがとう、ございます」
ふっと笑う。2人が驚いたように私を見た。
「……俺、そんな感謝されるようなこと言ったっけ?」
「はい」
ポカンとする維月さんに、また笑ってしまう。
「歌ちゃん、何か飲む?」
カウンターの椅子に座った私に、星來さんが振り返って言った。少し考えて、ひとつ頷く。
「………いただきます」
「りょーかい。何が良い?」
そう問われて、前に綴が飲んでいた温かい湯気が立ち上るマグカップを思い出した。鞄から財布を取り出しながら言う。
「…カフェオレで」
維月さんと星來さんが顔を見合わせる。
それから2人が一緒に、嬉しそうに、ふっと笑った。
「そういえば、綴今日来ないな」
「そうだねー」
ふぅふぅとカップに息を吹きかけながら、あれ? と思う。一口飲んで、息を吐いた。甘さと苦味が混ざり合って舌の上で溶けていく。美味しい。
「あの人、来てないんですか?」
「うん。今日はまだ」
毎日来るのに珍しいね、という星來さんの言葉に、維月さんが頷く。
「私、ここの建物の前で会ったので。てっきりもう来たんだと思ってました」
今度は2人が、あれ? という顔をした。
「彼奴、帰るところだったの?」
ぼんやりとしか思い出せなくて、カップを傾ける。優しい甘味で、脳がゆっくりと動いていく。
「帰る、というか。どこかに行くみたいでした。『恩人に会いにいく』とか、何とか」
カップを傾ける。もう中身はほとんど残っていない。こういうところの飲み物はもう少し味わって飲むべきだったんじゃないかと、今更ながら気付いた。
正面から何も声が聞こえてこないことに気が付いて、顔を上げる。2人が、じっと私の方を見ている。
「……歌さん」
「……? はい」
「綴さ、どっちの方向に行った?」
「海の方です。あの、公園の方向」
星來さんと維月さんの表情が、さっと変わる。察しの悪い私も、やっと気付いた。
海の方向。
彼が家族のように慕っていた人。
恩人に会いにいこうと思って──
会いにいく。
会いに行く。……会いに、逝く?
論理が飛躍し過ぎだ。可能性は低い。
でも。
「ちょっと、探してきます」
「え、でも、歌ちゃん」
安心させるように、笑って見せる。
「心当たりのある場所にいなかったら、すぐ帰ってきますから」
「……俺たちも」
「もしあの人がここに来た時に維月さんと星來さんがいなかったら、それこそ驚きますよ。透夏さんも今は居ないんでしょう? 待っていてください」
ぺらぺらと喋り続ける私を、もう1人の私が冷笑しながら眺めている。
馬鹿だ。私1人で探したところで、見つかる可能性は限りなく低い。そもそも私がこんな不確定要素で、しかも心配で動くなんて、らしくない。3人で適当に辺りを探して、「見つからなかった」と結論づける方が楽なのだ。
でも、何故か、動きたかった。
動かずにはいられなかった。
もし、そうなら。
私はきっと、この中で。
一番「そこ」に近い場所に居る。
「閉店までには帰ってきますので」
そう言って、扉を開ける。
外の空気は、身震いするほど冷たい。
「帰ってくる」より、「戻ってくる」の方が自然だったな、なんて思いながら、私は冷たい冬の空の下に駆け出して行った。
あの崖は、月明かりに照らされて薄青く浮かび上がっていた。
青白い光を浴びて、1人の人間のシルエットが、ぼんやりと見える。海を正面に見据えて、座っているように見えた。
吸い寄せられるように、歩いて行く。
吐く息が白い。気温は相当低いはずだ。
夏場は青々としていたはずの芝生が靴とこすれて、さりさりと乾いた音を立てる。人影の少し後ろに立った。これが影踏みなら、私の勝ちだ。
月明かりに照らされて、彼が吐く息が薄青く見える。
「………綴?」
そう声を掛けようとして、止めた。
代わりに彼の隣に行って、そっとそこに座る。
「風邪引くよ」
口を開いて初めて、綴の初めて会った時の言葉が蘇る。彼も、こんな気持ちだったんだろうか。
私の左肩に触れる腕が、震えていた。
「………歌」
「何」
「うた」
「ん」
「………いなくなんないで」
僅かな重みと温もりを感じる。
私の心がそれを拒絶することは、なかった。
「…………善処する」
綴は泣いていた。
星來さんの言う「どうしようもなくなると隠れてしまう子供」の意味が、少し分かったような気がした。
震えている綴の右手に、そっと触れる。包み込むように、握る。ぎゅうっと握り返されたその力の強さに、少し驚いた。
無意識のうちに温かいものだと信じていたそれは、思っていたよりも冷たい。
ふっと、鼻から息を吐く。
満月は、冷たい色をしている。
子供みたいに泣きじゃくる声が、私の心に刺さる。
自分の痛みではないのに、自分の痛みよりも堪えるのが、不思議だった。



