うたうたい

冷たい風に混ざる潮の匂いを遠くに感じながら、ゆっくりと歩く。スタジオのある建物の前で更にスピードを落として、でも止まることなく、歩いて行く。興味はあった。引力は感じていた。でも、立ち止まれなかった。
綴の表情が、透夏さんの声が、頭に浮かぶ。私は、あそこにもう一度飛び込む勇気を、今は持ち合わせていない。
「歌ちゃん」
歌うような声が聞こえて、ばっと振り向く。星來さんが、立っていた。
「……こんにちは」
「こんにちは。寄ってく? あ、今日は綴くん用事でいないから、気まずい思いはしなくて良いと思うよ」
なんてことないように言う星來さんを見て、あぁやっぱり聞いていたんだなと思う。嫌悪感は感じない。(むし)ろあの場にいない方が、不自然だ。
「………じゃあ、お言葉に甘えて」
うん、と彼女が頷いた。「言葉が硬いよ」とか言われなくて、ほっとした。
からん、という音。
それに頭がくらくらするような眩しさを感じていないことに、ふと気付いた。

「あ、歌さん。いらっしゃい」
維月さんが奥から顔を出して、にこっと笑う。今日もスタジオの中は閑古鳥が鳴いていた。
「……お邪魔します」
きょろきょろと辺りを見回したものの、透夏さんは見当たらなかった。どこかに行っているのかもしれない。
「そういえば、歌ちゃん。純粋な興味として訊くんだけどさ」
「……はい」
「綴くんと一緒にここに来てくれたのはどうして? 元々友達だったの?」
「いえ。初めてここに来た日、あの数日前に…えっと、海崖公園? で突然声掛けられて、詩を書ける人探してるんだって言われて。提供するなんて言ってないんですけど、何か押し切られてしまって……」
自分の芯の無さを嗤っていると、星來さんと維月さんの顔つきが変わっていることに気付いた。
「……あの、何か」
「……綴は」
維月さんの声が、薄寒い空気に溶けていく。
「曲を作りたい、って言ってた?」
「……いえ。ユニットを組みたい、と」
「他は?」
尋問か。
「特には」
「……え、あれ? 何も聞いてないの?」
維月さんが驚いたように声を上げた。星來さんも隣で驚いたように目を見開いている。
「………何も、と言いますと」
え、ごめん待って、と星來さんが呟く。
「歌ちゃん、綴くんとあの公園で会ったって言ってたよね?」
「……はい」
「綴に何て声掛けられたの?」
「最初ですか」
「うん。覚えてたら」
2人が私を緊張させないように、あえて目線を外してくれているのが分かる。
「…海を見てたら、『写真撮ってよ』って。どういうわけだか、未だに分かりませんけど」
「そっか。……何でだろうな」
『何で』のニュアンスが、私のものと少し異なるのが分かった。
何であんなこと言ったのか、ではなく。
何であそこに居たのか。
「………あの」
2人の顔が此方を向く。その双眸に、私の顔が映っている。
「曲がないって、言うんです、あの人。それと、何か関係あるんですか」
沈黙。
「………歌さん、鋭いね」
はは、という維月さんの笑い声が聞こえた。諦めたような、どこか……安心したような。
「綴に直接詳しいことを聞くのが一番良いような気もするけど……欠片も話さないからなぁ、彼奴(あいつ)
「話したくない、って感じだよね」
星來さんの言葉に頷いて、維月さんが続ける。
「歌さん。詳しいことは彼の口から聞けるのを待ってて欲しいんだけど……」
躊躇いがちに、維月さんの口が動く。
綴への気遣い。私への気遣い。
その両方を波のように感じながら、その声を聞く。はっと驚く。
彼も、ある人に連れられてここにやって来たこと。
彼がその人を家族のように慕っていたこと。
その人が書く詩に彼が曲をつけて、歌っていたこと。

その人が1年前、あの崖から飛び降りたこと。

「………だから、分からないんだ。彼がどうして、あの場所に行ったのか」
風の音が聞こえた。
あの崖からうねるように駆け上ってくる、風の音に似ていた。

何か飲む? と訊いてくれた維月さんの言葉を断って、外に出る。何だか考えることが多すぎて、じっとしていられない。自然と足があの公園に向かっていた。
別に飛び降りようという気はない、と思う。ただ何となく、海を見たくなった。
見知った後ろ姿が見えて、息を()める。
「……透夏さん?」
発した声は風に攫われて、彼の耳には届かないみたいだった。その手には、無造作に握られた小さな花束。
()めておいた方が良い、とは思った。
でも一定の距離を保ったまま、私の足は透夏さんを追うのを()めなかった。
しばらく、歩く。その背中が前と同じく寂しそうに見えて、不思議に思う。
開けた場所に出た。
あの崖だ、と気付くのに数秒掛かった。
透夏さんがしゃがみ込む。
花束が、置かれる。
立ち上がったその後ろ姿は、今にも風に攫われて消えてしまいそうだった。

休憩所の椅子に腰掛けて、ぼんやりと思考の海を漂う。
あそこから飛び降りたという人。
綴の、家族のような人。
透夏さんが花を手向ける人。
どんな人なんだろう。
そう思って、あ、と思う。
どんな人だったんだろう、か。
ただ時制を変えただけだ。
それだけなのに、どうしようもなく寂しくなる。何故かは、よく分からなかった。
会ったこともない。
知らない、人なのに。
数十分前に見た2人分の人影を視界の隅に捉えたのは、その時だった。
弾かれるように立ち上がって扉を開け、吸い寄せられるように後を追う。また、あの崖の前に出た。私の動きをずっと見ている人がいたなら、私はその人の目には崖と休憩所を行ったり来たりする奇人として映るだろう。
その奇人、もとい私の視線の先には、2人の後ろ姿がある。星來さんと維月さん。もう、顔を見なくても分かった。
透夏さんが置いた花束の前にしゃがみ込んで、しばらく動かない。手を合わせているのかもしれなかった。
星來さんと維月さんが、此方に戻ってくる。
「せめてお花くらい買ってくれば良かったね」
後ろ手に休憩所のドアを閉める直前、星來さんのその一言がドアの隙間をすり抜けて、私の耳に届いた。
命日だったのだろうか。
ふと、思った。